rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

婚活や結婚に対して私が前向きになれない理由

最近とある婚活系のyoutubeチャンネルをいくつか見た。今や婚活系のyoutubeチャンネルは相当数存在し、多くは相手に対する理想を上げすぎる女性側に問題があるという立場で話を展開しているものが多いように見受ける。私も数年前に結婚を考えて街コンに1,2回参加したことがあるが、動画で挙げられているような点に嫌気が差して出会い系のイベントには二度と参加しないと決心した。そしてこれらチャンネルを見ると、ますます婚活に対する嫌悪感が増大してくるし、結婚に対してどうしても前向きに考えられなくなってくる。

出会い系イベントは男女平等ではない

街コンに参加して驚いたのは、まず参加費用が男女でべらぼうに異なること。男女の参加費が同額であることは極めて稀で、酷い場合は男性5,000円、女性1,000円というイベントもあった。確かに、年収的に言えば男性の方が高い傾向はあるかもしれないが、それでも同年代の男女で5倍以上年収に差があることなどあり得ない。せめて男性5,000円、女性3,000円ぐらいにしてくれればまだ不公平感は薄くなるが、それでも男女平等でないことに変わりはない。男性は高額の参加費を払っているからある程度真剣になるが、女性はタダ同然の参加費なので全く真剣にならない。これでは女性がふんぞり返った態度をとってしまうのもの仕方がないと思うし、恋活や婚活という意味ではイベントの価値はないだろう。

ここまで参加費に男女差を付けなければ開催できないイベントならば、そんなイベントは無くなってしまえばいい、と個人的には思う。そして私はこのような不平等なイベントには二度と参加しないと決めている。

イベントに参加することで自分の価値を下げている

結婚や恋人探しをするために婚活パーティや街コンに参加するのだが、ここにはある種の矛盾が潜んでいるように思える。それは、出会いの場では自分の魅力を高めておかなければならないが、このような場に参加することで自分の魅力を下げてしまっているということである。

当たり前ではあるが、普通に生きていく中で恋人や配偶者を獲得できれば婚活イベントに参加する必要はない。魅力的な人は婚活イベントに参加せずとも配偶者を獲得できるので、魅力的な人はイベントにはほとんどいない。言葉は悪いが売れ残りが集まるのがこのようなイベントであり、そのことはほとんど参加者が口に出さずとも無意識に感じているはずだ。だから、婚活イベントの場ではどうしても相手のことを売れ残りであるというフィルタを通した色眼鏡で見てしまう。だから普通に関わっていたらうまくいっていたかもしれない2人でも、婚活パーティではうまくいかないという不思議な現象が起こる。

こう考えると、何度も何度も婚活パーティに参加し続けることで自分の価値も気付かぬうちに擦り減り、取り返しのつかないレベルまで落ちぶれることになるかもしれない。私はそのことに気付き、出会い系アプリも含めて全てシャットアウトすることにした。

結婚をする必要はあるのか

私の回答としては、少なくとも現代において結婚は必要ではないし、無理してするものでもないと思っている。親に結婚をせかされてうんざりしているという同年代の方々ももしかするといらっしゃるかもしれない。私は親にせかされることはないが、さりげなく探られることはある。でも私は現時点では結婚をするつもりは全くない。それで親がもし結婚しろとせかしてくるようなことがあれば、「じゃあ相手を見つけて紹介してくれ。俺がやりたくないことを無理やりさせるならそれが筋だろう。」と切り返すつもりである。

だが、もしこの人のためだったら自分は死んでも良いと思えるような人に巡り合えたら自然に結婚を考えるだろうし、逆に言うとそのぐらいの覚悟がないと結婚なんて自分にはできないと思っている。

 

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大学に通う意味を考えた

現在とある大学生が主人公である青春小説的なものを読んでいて、まだ十分の三ぐらいしか読んでいないのだが、ふと大学の存在とは何なのだろうかと疑問に思った。

社会人になって働くことを一つゴールとしたい人にとって、大学とはほとんど必要ないものかもしれない。今の時代は独学で色々なスキルを身に付けることができ、それに大学の講義が勝るとも思えない。真面目に授業を受けている人は多くても半分ぐらい。それ以外の人は試験前だけ友達にノートを見せてもらってそれを丸暗記して試験に臨んだり、本来の学習に必要とされることとは程遠いことをやっている。それでもなんだかんだみんな就職できる。私は、大学も学校である以上は勉強するための場所であり、授業に出て真面目に勉強をすることこそがあるべき姿だとは思う。

だが、それ以外にも大学には以下のような重要な役割があると私は考えた。

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①一生付き合える友人や将来の配偶者候補と出会える最後の機会

②これから一生できないであろうことを実行する機会

③①②を踏まえて人間的に成長する機会

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一つずつ見ていく。

友人や配偶者候補と出会える場所

①について、今も付き合いのある友人の一人は大学1年生の頃に知り合った。どのようにして仲良くなったかあまり覚えていないのだが、気付けばよく一緒に行動していたし、放課後にしょっちゅう遊んだりするようになった。一緒に授業受けたり遊んだりする中で、彼と一緒にいるとありのままの自分で居られるだけではなく、多くの部分で尊敬できる点を発見した。

配偶者について私は経験していないので確かなことは言えないが、やはり社会人になると恋人候補との出会いは激減するため、その前に相手を探しておこうということだ。これは間違っていないと思うし、私ももし大学時代に良い相手と出会っていれば今頃は結婚していて、異なる価値観を持って生活をしていたかもしれない。

大学生にもなれば年齢的にはもう大人であり、自分の考え方や自我もほぼ固まっているため、そこで意気投合した人とは後にも関係を継続しやすいということは言えるだろう。

一生できないことをするチャンス

社会人はお金はあっても時間がなく、大学生は時間はあってもお金がない、人生というのは全てのことが同時に上手くいかないよう本当によく設計されているとつくづく思う。

一生できないこととは言いすぎかもしれないが、大学時代は普段できないことを思いっきりやれる一生で数少ないチャンスの期間である。私の大学時代の知り合いは3年生の終わりぐらいから就活そっちのけでアメリカ横断の旅に何人かで出かけて行った。その後の詳細は知らないのだが、彼が無事就職もできたということは風の噂で知った。時期やお金のことは考える必要があるが、体力と時間がある大学生のうちにとにかく何でもやってみるという精神は大事だと思うし、勉強と同じぐらい大学生活において意義のあることではないだろうか。

人間的な成長を育む

上記に述べたことだけではないが、高校までとは異なり、大学生になると行動範囲が大幅に広くなる。それだけ経験できることも増えるし、その過程で色々なことを考えて精神的にも成長する機会は多くあると思う。

私は大学生の頃、割と真面目に勉強していたつもりで、あまり突飛なことやリスクを冒すようなことには手を出す勇気がなかった。それよりもとにかく無事に就職することばかり考えてしまったので、割と味気ない大学生活だったと思う。そのため遊びに精を出している人や学業を疎かにしている人の気持ちは良く分からなかったのだが、実は彼らの方がより多くのことを経験して人間的に成長できているかもしれないとも思う。勉強はもちろん大事だが、大学に通う意義も目的も人それぞれだなと今になって思うのだ。

 

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1年間定期的に勉強を続けて現在感じること

仕事で分かることが少し増えた

昨年から本格的にプログラミング技術の勉強をし始めてから1年と少し経過している。勉強といっても座学的なものは資格試験の勉強がメインであった。それ以外の時間はほとんど動画を見ながら手を動かして何かを作ることや、自分で考えてイメージした動きになるように作ることをやってきた。まだ経過して一年ぐらいしか経っていないのだが、少しずつ仕事においてもプラスの影響が出てきたと感じている。

まず、色々な人と会話をしていて分からないことが減ったように感じる。ウェブデザインの資格勉強の過程で基本的な単語などを学習できたことが大きな要因だと思うが、それ以外にも自分で疑問に思って調べたことや考えたことなどが糧になっていると思う。勉強していなかった場合の自分と比較することができないので本当に勉強のおかげなのかと言われると分からないが、少なくとも以前よりは分からないことが減っている。そのおかげであれ程苦痛に感じていた仕事を前向きに捉えることができるようになってきたし、仕事の楽しみも少し分かってきたような気がしている。

今は仕事を辞めなくて良かったと思っている

新卒や2,3年目の頃、システムエンジニアという職業は自分には全く向いていないと思っていたし、就活の業界選びは完全に失敗したと思っていた。だから何度も辞めようと思ったし、実際に前の会社を辞めた時にはもうシステム開発の仕事だけは御免だと思っていた。

しかし、今はあの時本当に辞めてしまわなくて良かったと思えるし、就活時の自分の選択は間違いではなかったと思える。自分みたいな内向的で一人で没頭できる作業が好きな人間にとっては開発とか技術職が向いていると漠然と思っていた。そして実際に社会人になって想像よりはるかに多く求められる能力があることを知って絶望した。だがそれはこの仕事の一つの側面しか見えていなかったということ。開き直って自分の職業に真摯に向き合い、苦手だと思い込んでいた分野についても勉強を重ねるうちに分かることが少しずつ増えていき、この仕事の楽しさが少しずつ分かるようになってきた。まだまだ得意というには程遠い状態ではあるが。

自分自身に問いかけたいこと

新卒で会社を辞めてこぼれ落ちてしまう人は少なくないと思う。入社したけれど1カ月も経たないうちに退職したり、自分の仕事や会社に絶望してしまう人も多いと思う。私もそうで、4年前はもう自分はサラリーマンには向いてなくて人生が半分詰んでしまったと思っていた。しかしそう思った時に自分に対してこう問いかけてほしい、「これまで自分は仕事に真摯に向き合うために勉強や努力をしてきたのか?努力の方向ややり方は正しかったと自信を持って言い切れるのか?」と。もし仕事に対して努力する気になれない、とかやる気が起きないのであればそれはその仕事が自分に向いていないか、職場や働き方が自分に合っていないからのどちらかである。

私もこれからまだ様々な困難に直面することがあると思うが、勉強をする過程で思ったことや感じたことを忘れず、乗り越えていきたいと思っている。

 

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わたしのアウトプット方法(タグ)

初めてタグをつけた内容でのブログとなる。

ブログと日記の違い

アウトプット方法と聞いてまず思い浮かぶのはブログそのものである。ブログというのは他の人に読んでもらうからこそ意味があるものであり、自分の心の中だけで留めておきたい内容であれば日記という形で残せば十分である。日記もブログも後で自分で読み返し、その当時自分がどのようなことを考えていたかとか、どんな感情だったかなどをなんとなく思い出すことができるのが共通点である。

ただ、ブログであればその考えを自分以外の誰かに伝え、内容によってはその読み手の考えや行動を変えることにつながる可能性もあるのが魅力である。日記であれば、ブログでは他人には言い辛い本音などを書き留め自分の心の中を整理するという意味が大きいと思う。単純に他の人に向けて公開するからブログの方がメリットが大きいというものではなく、ブログと日記はそもそもの内容や書く目的が異なるため、臨機応変に双方を使い分けていくというのが良い方法だと私は思う。

身に付けた知識を実践することの大切さ

私はSEという仕事柄、少し前からプログラミングの勉強を行っている。当初はプログラミングをどのように勉強すれば良いか全く分からなかったので、ひとまずはProgateというウェブ学習サイトで勉強を続けていた。このサイトでは、レッスンやコースをいくつか受けてから練習問題や演習を行い、実際にレッスンで受けた内容が身についているかどうかを演習で腕試しするという流れで学習が進んでいく。

学習を進める中で分かったことは、実際に自分で考えて手を動かすことの大切さである。レッスンを進めている最中は自分なりにほぼ完ぺきに理解できたと感じることも多かったのだが、いざ演習問題になると全く手が動かなくなってしまい、どこから何に手を付ければ良いのか分からなくなってしまうことが多くあった。自分ではレッスン内容を理解できたつもりでいたが、実際に空の状態から作るイメージが湧かなったということはしっかり理解できていなかったということである。

理論や知識を座学で学んで理解することはもちろん必要で重要なことではあるが、もっと大事なことはそれを自分なりに多少アレンジしてアウトプットできるということだと思った。座学で理論を学んでおしまいというのが悪いわけではない。文学や会計学などの研究においてはほとんどアウトプットを必要としない場合もあり、理論で武装して論文を書いていくというのもよくあることだ。だが、もし何かしらのアウトプットができる分野であるならば、知識を吸収しただけでその内容を理解できたと感じてしまうのはかなり危険な考え方になることもある。だから、何かを吸収したらため込みすぎないうちに定期的にアウトプットするという作業が必要になると思う。

 

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痛みを伴わずに恩恵を受けるのは難しい

在宅勤務中心の生活になってから余計なことを考える時間が増えてしまい、なんとなく心につっかえているモヤモヤした気持ちを言葉にしてスッキリさせたいと思っている。無論、モヤモヤしていることなんて山のようにあるのだが、少し考えて言語化できそうなものからどんどんブログに文章として残していきたいと考えている。

冬季賞与支給の見送り疑惑を耳にして思ったこと

実は会社からの夏季賞与支給のタイミングでちらっと聞いていたのだが、夏季賞与は通常通り支給されるが冬季賞与はもしかすると支給されないかもしれない、ということが噂されていた。本来賞与というのは会社の業績が良かった時に特別に支給されるものであり、通常は支給されなくて当然のものである。しかし、毎年ほぼ必ず賞与が支給されることから我々はそれに慣れてしまい、支給されるのが当たり前だと思うようになってしまった。賞与が支給されないともちろん年収の減額に直結するし、お金の使用計画も変わってくるのでサラリーマンにとっては死活問題になることもある。

一方でよく考えてみると、これはある意味で一種のギブアンドテイク的なものかもしれないと思うようになった。今年の3月以降、私の所属する会社では8割以上の社員が月8割以上の日数で在宅勤務を行うようになった。そして会社の顧客企業もまた在宅勤務が増えてきており、今までのようにビジネスがスムーズに進まなくなってきた点は否めない。それは会社の業績低下という形で明確に表れ、我々末端の社員の賞与の減額または返上につながってくる。その代わり、働く労働者である私たちは日々の苦しい満員電車やウザったい同僚や上司と毎日顔を合わせる必要もなくなり、在宅で睡眠時間もたっぷり確保して健康的な生活を送れるようになった(逆に生活リズムが乱れた人も一定数いると予想はできるが)。

お金を取るか時間を取るか

上記を究極の二択として考えることができるだろう。つまり、賞与(お金)をとるか、時間を取るかということである。できれば両方取りたいのが人情ではあるが、これだけの短期間で状況が急激に変化したため、やはり会社の業績が今まで通りという訳にはなかなかいかないだろう。まだ完全リモートで仕事を全く滞りなく進めていくには少し時間がかかると個人的な感覚でも思う。現段階でそれができる会社も存在するだろうが、そういう会社はもう5年以上前から虎視眈々と準備を進めてきた会社であり、この期間の変化にもそれなりに上手く対応して業績も維持しているのだと思う。

出勤の手間が減って時間が増える分、年収は多少減額されるというのは仕方のないことだと思う。やはりどこかである程度楽をしている分、別の箇所で必ずしわ寄せが出てくるということは理解して受け入れなければならないと感じる。

 

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一度身に付けたスキルは簡単に忘れないのであれば

小さい頃に習ったことは不思議と忘れない謎

私は大人になって不思議に思うことが一つある。それは、今現在水泳を習っていたり頻繁に水の中を泳ぐ機会があるわけではないのに、たまにプールに行って泳ぐと普通に泳ぐことができるということである。子供の頃にスイミングスクールに通っていたが、その頃からもう十数年以上経過する。年月がある程度経過したら体は泳ぐことを完全に忘れてしまいそうなものだが現実はそうでもなく、今も水の中に放り込まれて泳げと言われたらそれなりに泳ぐことができる感覚がある。同様にサッカー経験ゼロの人がノーバンリフティングを10回やれと言われたら大抵の人はできないと思うが、私はサッカークラブに所属していたことがあるので、3回ぐらいチャレンジすれば今でもほぼ間違いなくできる。サッカーから離れて数十年経つにも関わらずである。

人間の体や脳は一度記憶した体の動作をよく憶えているものだとつくづく実感する。逆に考えると、一度ある程度覚えてしまえばそのスキルは自分のものとして身に付き、少々の怠慢で喪失するものではないと思われる。おそらく、脳内に一度できた回路はそう簡単には無くならないということかもしれない。中学生の頃に必死になって覚えた英単語や洋楽の歌詞、高校生や大学生の頃にカラオケで歌いまくった曲は今でも聞けばそれなりに思い出すことができるし、歌詞もあまり忘れていないことには本当に驚く。時間をかけて何回も反復して覚えたことはしっかりと記憶に残るという人間の素晴らしい能力だと思う。

脳内回路のストックを作っておく

何事にも当てはまるが、新しいスキルを身に付けるにはそれなりの労力が必要となる。英単語を覚えることやキーボードのブラインドタッチを指で覚えることなど、体を使うことだけではなく頭を使うことでも新しい脳内の回路を作るのは簡単なことではない。今でこそ多少はマシになったが、私もプログラミングの考え方を理解するのに何回も挫折し、自分には向いていないからやめようと思った時もあった。ただ、一度でも回路を作ってしまえばそれは生涯に渡って自分の強力な武器となる。身に付けた後は常に磨き続けていなかったとしても、必要な場面で記憶を呼び出してあげればあっという間に思い出して活用でき、新規で習得していくよりはるかに短い時間や労力で済む。このように考えると、人生のなるべく早いうちにできるだけ多くのスキルを自分の体と頭の中に叩き込んで回路をたくさん作っておくことは非常に大切だと思うし、仕事において先輩や上司が若いうちになるべく勉強しておけ、と口酸っぱく言うことにも納得できる。

新しいことを始めるのに年齢は関係ないと思うが、できるだけ若いうちから始めた方が習得するのは早いだろうし、より身に付きやすいと思う。だから、自分が一番若い今この瞬間から興味のあることややりたいことに対して積極的に取り組む姿勢は大切だと感じている。

 

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ストレスを吹き飛ばすために筋トレをしよう

今週のお題「運動不足」

筋トレはストレスに苦しむ自分を救ってくれた

最近でこそ減ってきたが、これまで筋トレに対して批判的な考え方をする人は多かった。「スポーツ選手でもない一般人が無駄な筋肉をつけるのは無意味だ」とか「ナルシストで気持ち悪い」などの意見を耳にすることが度々あった。そして学生時代は私もそのように感じていたし基本的に筋トレは嫌いで、雨の日はその日の部活動がほぼ地味な筋トレのみで終わってしまうので、サボって帰宅することも多かった。だから筋トレに対して否定的な見方をする人の意見も分かるし、その考えもある意味では間違っていないとも思う。

しかし、社会人になって何気なく始めた筋トレは私を多くのストレスから救ってくれた。上司のパワハラや仕事のプレッシャーなど、サラリーマンになってから多くのストレスにさらされることがあったが、そんな生活の中でも筋トレをすることで多少なりともストレスから解放される瞬間があった。筋トレをしているときは余計なことを考える余力がなくなり、自分自身と徹底的に向き合うことができる。もしあの時筋トレを習慣的にやっていなかったら多分うつ病になったり、最悪の場合は自殺していたかもしれないと今になって思う。少なくとも私にとって筋トレとはただ辛く面倒なものではなく、精神的に落ち込んでいる自分を救ってくれるかけがえのない趣味である。

日常の煩わしさから逃れる時間を作るのが重要

お気づきかもしれないが、大切なのは筋トレをすることそのものではなく日常の悩みや煩わしい物事を忘れる時間を定期的に作ることである。私にとってはそれが筋トレであったというだけであり、ランニングや球技など他のエクササイズでも良いし、運動でなくても自分が時間を忘れるぐらい熱中できるものであればなんでも良いと思っている。ただ、個人的には体も健康に保つという意味で、何かしら体を適度に動かす趣味や習慣を持っておくのはとても大切だと思う。

もし、今大した趣味がないとか時間やお金がかかる趣味に後ろめたい気持ちを持っている方がいるのであれば、私からは新しい趣味に是非筋トレをオススメしたい。そして、筋トレにハマれば自重のトレーニングでは満足できなくなるので、初めからジムに通って色々な器具を使って体を動かすことを体験して欲しいと思う。それを続ける中でだんだん楽しさを見出してハマっていけば継続すればいいし、つまらなかったり自分には向いていないと感じたら退会すればいい。

全員が全員筋トレを好きになるのはもちろん不可能だと思うが、もし今現状に悩んだり生きていくのがちょっと苦しいと感じている人がいるのであれば、何も考えずにジムに行って無心で体を動かして汗を流してほしい。それだけで悩みが解消されたり軽減されるのであればこれほど美味しいことはないと思う。

 

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余裕がない時にこそ冷静さを忘れずにいたい

余裕のない時に人の本性が分かる

心に余裕がない時、人間は自分で思ってもいなかった行動をとったり発言をしてしまったりする。仕事で納期が迫り来る中、思うように作業が進まなかったり同僚または部下が期待した動きをしてくれなかった時、思わずキツめの口調で注意してしまう人もいる。または、家庭の煩わしさに疲れて癒しや安らぎを求めた結果、あってはならない不倫関係の泥沼に陥ってしまったり、薬物依存症になってしまったりする。当事者も頭ではそれがいけないことと分かっているのだろうが、世の中においてこれらの事象の発生は後を絶たない。本能は我々が想像している以上に正直ということなのかもしれない。

余裕がないとパフォーマンスが落ちる

だが、様々な状況でこの本能が邪魔になるときがある。それは特に自分のパフォーマンスをしっかり発揮したいときであり、仕事だったり何かの試験などでも当てはまる。冷静に焦らず一つひとつを着実に考えていけば簡単に終わるような作業や問題でも、意識が散漫になって目の前の作業から目をそらしてしまうとあっという間に頭が混乱し、自分で考えもしなかったようなミスを犯してしまうことがある。集中力が落ちると作業が捗らないというのはまさにこれが原因だと私は考えている。

特に私の場合は会社で残業などをしていると、本来ならば30分程度で終わるボリュームの作業に平気で2時間も3時間も費やしたりすることがあった。目の前の作業よりも、「今日終わらなかったらどうしよう」とか「早く終わらせてさっさと寝ないと明日起きられねぇ」とかそんなことばかり考えながら作業をしているのだから、効率が落ちたりミスが増えるのも無理はないだろう。無論、全ての人がこのように焦ってしまうわけではないだろうが、それなりに追い詰められた状況において、人は通常通りのパフォーマンスすらままならないということを痛感した。

パフォーマンスのブレを減らすために

それでも私は、どのような状況でも自分のパフォーマンスの70%以上は出せるようになりたいと思っている。テストで残り時間が3分しかないのに200文字以上の記述問題が3問残っているという絶望的な状況で諦めることは簡単だ。しかし、仕事のように何が何でもそれなりに結果を出さなければならない場合、諦めることしかしてこなかった人間はそこでもうひと踏ん張りできない。そのひと踏ん張りがあれば部分点がもらえて辛うじて合格ラインに届いたかもしれないし、少なくともマイナスになることはなかったはずだ。

どんな状況においてもきっちりと最後まで考え抜く力や、一つ一つの事象を丁寧に確認することができる能力こそ、”今を大切にする”ということであり、人生における多くの場面で役立つソフトスキルの一つなのかもしれないと最近になって思う。個人的にはプレッシャーのかかる状況に置かれるのを好むわけでもないし、単純な精神論で人を育てるやり方にも賛同はできない。だが、もし今後自分がプレッシャーのかかる余裕のない状況に置かれたら、むしろ自分の能力を伸ばすチャンスという意識を持てるぐらいになれば精神的に一歩成長できると思っている。

 

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コロナ禍で改めて結婚式の存在意義について考えた

イベントが中止される世の中

ご存知の通り、コロナ禍において私たちの生活は短期間に大きな変化を遂げた。仕事では在宅勤務ができる人は在宅勤務が推奨されるようになり、大規模なライブや演劇などをはじめとするとするイベントは軒並み中止かオンライン配信されるようになった。日常生活においても、これまでほとんど意識することがなかった、人との距離感や会話時の飛沫に神経を削られる日々が続いている。まさに新型コロ助は人々の意識や価値観を根底から変えつつある。

そんな状況で3月以降、結婚式や葬式をキャンセルしたりというゴタゴタが起こっている。コロナ禍においては人が密閉された空間に多く密集するような状況が必然的に避けられてしまうため、このような冠婚葬祭という大切なライフイベントも例外なくその煽りを受けてしまう。そこでそもそも冠婚葬祭をこれまで通り行う必要はあるのかどうかということを改めて考える人も出てきている。中には結婚式や披露宴をオンラインで行うカップルも一定数いるという旨のニュースもしばしば目にするようになった。

結婚式の必要性について友人と話をして思ったこと

先日友人と話す機会があり、そもそも結婚式は必要なのかどうかという話題について軽く議論となった。友人は既に結婚しており、2年ほど前にそこそこ大掛かりな結婚式を挙げていたこともあり、結婚式はできればやった方が良いという意見を持っていた。それは、二人の記念になるからというだけではなく、お世話になった人たちへの恩返しや自分たちなりのこれからへの覚悟やけじめをつけるために必要だ、という考えが根底にあるという。

私は結婚していないし、まだ結婚する予定もないのでなかなか想像しづらいのだが、このような考えは毛頭自分の考えの中にはなかった。お金もかかるし思い出作り程度のイベントであるならば、コロナ禍である昨今においてなおさら結婚式など不要ではないかと思っていた私は、自分なりの信念をしっかり持った友人に対して何も言い返せなかった。やはり経験者の言葉には重みがあると思ったし、経験していない立場の自分が言い返せることなど何もなかった。

彼の意見もやはり正しいと思うし、結局は個人個人の考え方に終着するものだと思った。結婚は一人ではできないので二人で話し合って決めていくべきだと私も思うし、その中で出た結論が二人なりの価値観を生み出していくのだろう。

自分が大切にしたいこと基準で動く

結婚式やその他の冠婚葬祭のみならず、コロナ禍となり改めてその存在意義が問われているイベントや物事が増えている。その中には、強制的に無くしてみたら本当は不要だったものもあるだろうし、やっぱり必要不可欠だったというものもあるはずだ。それは考えなくてもひとり一人が日々生活する中で肌で感じていることだろう。生きる上で自分が本当に大切にしたいことは何か、それを問い続けることで一見存在意義が薄れてしまいそうなイベントが本当に自分に必要かどうかが分かるようになると思った。

 

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在宅勤務時こそ有給休暇が大切である理由

在宅勤務で気を付けたいこと

相変わらず在宅勤務の日々が続いている。私が所属する会社でもいよいよ定期代の支給を停止するのかどうかが選択肢として労働者に与えられ、ほぼ8割以上が定期代支給を停止して在宅勤務にシフトするという事態になっている。

在宅勤務を続ける中で気を付けなければいけないこと、それは働き過ぎである。一見在宅勤務であれば働きすぎという概念からは無縁に思えるかもしれないが、集中して没頭できる自宅という環境は無意識に長時間労働につながりやすいこともあるようである。集中できるから仕事をやりすぎてしまう、家に居ていつでも仕事用のPCを触れるから、つい気になる仕事を片付けるために深夜にPCを開いてしまうという人もいるらしい。私もつい、自宅だからまあいいかと思って妥協して少し残業してしまったり、定時内に片を付けなければならないという意識がどうしても薄れてしまうことはある。

没頭できることや仕事熱心なことは決して悪いことではないが、日常的にそのようなことが続いていくと、自分では認識できない疲労やストレスが知らず知らずのうちに溜まっていき、ある日突然崩壊してしまうということもあるかもしれない。最近は芸能人の自殺が相次いでいるが、コロナ前の世界からの変化があまりにも急激でその変化に心と体が追い付いていかないことは一つの原因だと思う。

こんな時だからこそ生産性をより意識すべし

私が在宅勤務でも特に意識していることは、仕事はなるべく定時で切り上げ、有給休暇もできるだけ定期的に消化することである。それは在宅勤務が主流になる前から自分自身に課してきた課題であり、在宅勤務になったからといって簡単に変えてはいけないとも思っている。

私の周囲の同僚を見ると、積極的に有給休暇を消化している人はあまり多いようには感じない。それだけ私が暇で他の人が業務を多く抱えていて忙しいというのも理由の一つではあるかもしれない。が、有休をとるために仕事を手早く終わらせるという選択肢を高く意識している人はそこまで多くないと見受ける。以前に自己啓発本で読んだが、「生産性=アウトプット÷インプット」であり、アウトプット(成果物の質と量)を増やせば増やすほど生産性は上がるが、同比率でインプット(労働時間)も増えてしまえば生産性としては変わらないということになる。生産性を上げたいのであれば、成果はもちろんその成果を生み出すのに捧げる労力を下げなければならない。

インプットを下げるには休暇を取得して労働時間を減らすのが最も手っ取り早く、労働者は生産性を落とすことなく休めるメリットがある。そして休むことは、実は自分が思っている以上に今自分自身の内面が求めていることかもしれないのだ。

こんなことを考えながら、少し暗くどんよりとしていてちょっと味気ないけれどささやかに幸せな日々を最近は過ごしている。

 

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