rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

生活水準を上げすぎないほうが良い理由

生活水準を上げることへの憧れはどこから来るのか

多くの人は今の生活よりも良い生活をしたいと夢見て、日々仕事を頑張ったり将来のために貯金したりしていると思う。そのようなモチベーションがあって色々なことを頑張れることは素敵なことだと思うし、生きる希望にも繋がるので大切なことだと思う。より裕福な生活ができればそれだけ毎日の生活が楽しくなるし、享受できるエンタメや恩恵も多くなって結果的にハッピーに生きていけるのだと思う。

広い部屋、大きなテレビに大きな質の良いソファー、ちょっと豪華に見えるシャンデリア風の照明、毎日の洋服を取り出すのが楽しみになる良質な桐箪笥、セキュリティの高いオートロックを完備した玄関、心と空気の癒しになる観葉植物、、など挙げていくときりがないぐらい、高い生活水準のイメージが湧いてくる。このような環境やモノに囲まれて過ごす人生もまた一興なのかもしれない。

人ひとりの生活にそこまでの空間やモノは必要ない

そもそも、人はどうして持て余すほどの広い家に住んだり、べらぼうに高価な腕時計やブランド品を身に付けたりしたがるのだろうか。色々な理由があるとは思うが、大きな理由の一つとしては見栄というのがあるだろう。誰かと比較して優位に立ちたい、とか誰かに対して自慢したい、招待した時に恥ずかしくないぐらい大きな家に住みたい、などの理由が最も大きいのではないだろうか。

広い豪邸は昔からあったかもしれないが、大きなテレビや優れたIoT機器などはここ10~20年ぐらいの間に出てきたものでしかない。例えば、1970年代はカラーテレビを持っているだけで、そのサイズが現代のテレビと比較してかなり小さい物であったにもかかわらず、それなりに良い生活水準といえたはずだ。

また、独房で生活している囚人がいるように、人ひとりが最低限生活できる広さは独房レベルで十分という可能性だってある。ここでの生活というのは、食う、寝る、何か作業や仕事をする、ということで、そのための最低限のスペースは本当に六畳一間程度あれば不自由ないのではないかとすら思う。

そんな中、一人で全箇所掃除もできないような豪邸に住んでいる人間を見ると、どんなに金持ちで偉い人でも身分不相応に見えてしまう。何より、自分自身でメンテナンス、マネジメントができないのだから。

今より低い生活水準に後戻りできなくなるのは辛い

私は、生活水準をもう少し引き上げようと思えば多分できると思う。だが、敢えて生活水準を引き上げすぎないように気を付けている。その理由は、後で生活水準を引き下げないといけなくなった時にしんどいからである。想像してみると分かると思うが、慣れてしまった現在の生活水準を引き下げることは容易ではない。今の生活で当たり前にやっていることができなくなるというのはかなり辛い。

例えば、お風呂の追い炊き機能は今風の家であればどこでもあって当然だろう。しかし私の一人暮らしの家には追い炊き機能がないので、冬の風呂が地獄のように寒い。入居時にそこまで気にかけられなかったのがいけないのだが、とにかく冬のお風呂がしんどくてたまらない。実家暮らしだったときは追い炊きがあり、真冬でもお風呂は暖かいのが当然と感じていたのでこの生活水準の下落はかなり痛いものであった。

高い生活水準が当たり前になると、何かの拍子でそれを維持できなくなった時に苦しさが倍増すると思うのだ。さすがに追い炊きがないのは厳しすぎるのでそこは我慢する必要はないと思っているが、低い生活水準で当たり前、ぐらいに思っておいたほうがいざ経済的に困窮したときにも強く生きていくことができると思うのだ。

 

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