rk-baryoのゆるっと日記

元ニート、現アラサーサラリーマンが日常生活、ビジネス、会社、旅などについて語るブログ

友達の数は多い方が良いのか

友達100人という幻想を抱いた幼少期

私はまだ幼稚園通いだった頃、「1年生になったらー友達100人できるかな」という歌を聴き、小学生になったら100人以上友達を作ろうと意気込んでいた時期があった。一日に一人ずつ声をかけて友達になっていけば、一年もすれば達成できる目標だと思っていた。そして私は入学式当日から色々な人に声をかけて仲良くなっていった。当時は学校で会って上辺でそれなりに仲良くしていればずっと友達でいられると思っていた。

しかし、高学年になるにつれてそれまで仲良くしていた人でも急に話しづらくなってくる人が一定数いることに気が付いた。私はこの頃から、この人とはなんとなく合わないな、とか一緒にいて落ち着く人とそうでない人が少しずつ明確になっていったような気がする。そして友達100人を作ってもその関係を継続していくのは容易でないことにも気付きつつあった。徐々に疎遠になる人が多くなり、私も関係を維持するのが面倒になって自分の世界に没頭するようになった。そして、その方が落ち着くし自分に合っていると感じた。

個人的には友達は量より質を重視したい

時は流れ私も社会人となり、現在友達といえる存在は2,3人ぐらいしかいないのが現状である。一人は小学校からの幼馴染で二人は大学時代に知り合った友人である。彼らと頻繁にやり取りもしないし、月に一回食事に行くなどということも今となってはなくなった。それでもたまに会って話をすれば、いつもと同じように心地良く会話することができるし、一緒にいて無駄に気を遣うこともなく疲れることもない。少なくとも私はそう感じている。

個人差はもちろんあると思うが、私みたいにあまり群れることを好まない人間は何十人も友達を作る必要はないと感じている。もちろん「友達100人」を達成して今もそれを維持し続けているという人もいるだろうが、100人全員と気が合うというのはなかなか難しいと思うし、中には一緒にいてあまり心地良くないと感じる人もいるのではないだろうか。その関係を果たして友達といえるのか。また、常に関係を維持するための「メンテナンスコスト」も尋常ではない。友達のために自分を捧げるのが楽しいという方は良いかもしれないが、少なくとも私にはその考え方は合っていない。だから私にとって大事なのは友達の量より質であり、気の合う仲間が1,2人いればそれで十分だ。

昔思っていたのは友達ではなく知り合いだった

今になって改めて友達について考えてみると、幼少期に考えていた友達というのは全て「知り合い」を想像していたのだと思う。当時は顔見知りでたまに表面的な話をする仲でも友達になれると思っていたが、今ではそのような関係はただの知り合いとしてしか考えない。本当の友達というのは、互いに相手のことを尊敬し合える関係であり、時にはお互いのことを思ってダメなところや悪い点を指摘できるぐらいの仲でなければ友達とは言えないと思う。

これはカップルでも夫婦でも当てはまるかもしれないが、良い友達との関係はつかず離れずの距離感が理想的だと思っている。どの程度プライベートな会話ができるのか、その距離感や居心地の良さというのが相手との相性であり、それは自分と相手で相互に関係を続ける中で育み、見つけていくしかないものである。

 

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祖父母の本心は日記の中に

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

敬老の日ということで祖父母について思い出しながら語ってみたい。

祖父母の本心が分からなかった

私の祖父母は7年ほど前に全員この世からいなくなってしまった。それまでほぼ毎年のように夏休みに帰省し、2泊から3泊程度宿泊させてもらっていた。子供にとって祖父母と触れ合える時間は有意義でもあり、当然祖父母も孫と触れ合えるのは楽しいことあり、帰省することは祖父母にとってもメリットしかないと思っていた。ある意味ではそれはもちろん正解であり、孫の顔を見て喜ばない祖父母はほとんどいないだろう。しかし、祖父母の立場になって考えてみると、年に一度とは言え孫を含めて息子家族が自分の家に大勢で押しかけてくるのはまあまあ気が重いのではないかと思う。その数日は要らぬことに気を遣わなければならないだろうし、少なからず普段の自分たちの生活リズムを崩される要因となるだろう。

だから祖父母が亡くなった後、家にあった大量の荷物を整理する中で祖母の日記を見つけ、その中に「息子夫婦が帰省してくるのは嬉しいけれど面倒だ」という旨の記述を見つけた時、やはり私たちは祖父母の本心には気付いてあげられなかったのだなと思うしかなかった。祖父母としても孫に会えるのは嬉しいとは思うが、毎年その行事が恒例となるにつれ、次第に楽しさよりも煩わしさや面倒臭さが先行していったのかもしれない。かといってもう遊びに来るなということはなかなか言い辛いだろうし、少なからずジレンマを抱えていたのだと思う。それを日記の中で自分の本心として綴り、気持ちを整理していたのだと思う。意見を言えばお互い分かり合えるというのはある程度はそう思うが、やはり身内とは言え言い辛いことはたくさんあって、そのようなことも含めて互いを分かり合っていくのは本当に難しい。祖父母の日記を読んで私はそう思った。

喧嘩をする相手がいることは幸せ

少なくとも私たちが訪問している時、彼らはほぼ毎日大声で口論をしていた。洗濯物の干し方が汚いとか、ゴミが落ちているとか、飼い犬がドッグフードを拒否してクリームパンやアンパンばかりねだることに対する文句とか、本当にくだらない日常の些細なことばかりだった。しかし最初に祖父が亡くなり祖母だけ取り残された後、祖母がそれまで喧嘩ばかりして目の敵にしていた祖父についての思い出を語りながら涙する場面を見たりもした。祖母のそんな姿を見るのは初めてだった。いつも喧嘩していたがなんだかんだでお互いを必要としていたのだなということが自然と伝わってきた。失って初めて大事なものが分かる、というのはまさにこのことなんだろうとこの時私は思った。

祖母は祖父につられるように祖父が亡くなってから1年半ほど後に亡くなった。祖父が早くに亡くならなければ祖母ももう少し長生きしていたのではないかなと思ったし、口論でも喧嘩でもできる相手がいるのはある意味では幸せなことだったのではないかと今私は思うのである。

 

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大手企業に入る人とそうでない人の違いとは

転職をしてから2年ほど経過する。思えば2年前に電撃的に前の会社を辞め、それから夏の3ヶ月は転職活動以外はほぼニートのように過ごす中で暇つぶしにこのブログを書き始めた。もう2年も経過するのかと思うと感慨深いものを感じる。

その転職活動で私は中小企業からそこそこの大手企業に転職することに成功した。当時、中小企業から転職した身としては、大手企業と言われる組織に属する人々はどれほど能力が高いのかということに対して興味深く思っていた。そして2年が経過した今、周りの人を見てきて前の会社の人たちとほとんど能力的に差がないということに気付きつつある。

能力的な違いはない

2年間今の会社で過ごし、同僚の仕事におけるスキルレベルは前社でも現会社でも大きな違いはないと感じている。今の会社で飛びぬけて技術力が高い人は確かに存在するが、前の会社でもそのような人は存在していたし、私はその人を先輩として心から尊敬していたし、今でもあの先輩だったらこの仕事どうやって対応するだろう、と想像することもある。仮に前の会社の先輩が今の自分の会社に来てもかなりスキルレベルは上になると思うし、今の会社が大手だからと言って同僚のスキルが特別に高いとは感じない。

能力的に大差はないはずなのに、入れる会社が中小と大手とでは年収や福利厚生面を含めた待遇に大きな差が生まれてしまう。今中小企業で満足できない条件で働いている人が、決して大手企業で働いて能力的に不足がある、ということは必ずしも当てはまらないと思うので、満足できない境遇で働く人も転職を諦めてはいけないと思う。むしろ、中小企業に属する人の方が専門性が高く、ある特定の分野に対してのスキルは特化されているようにも感じるぐらいである。その人たちがもっと満足に働ける環境は他にもありそうだ。

新卒の就活は8割以上相性と社風に合うかかどうか

2年前、大して能力がなかったにも関わらず私が今の会社に入社できたのは、実力ではなくほとんど運だったのではないかと今思う。新卒や第二新卒程度の身分でスキルレベルや実績を評価されて転職できるということは、よっぽどのエリートでもない限りあり得ない。であれば何が評価の対象になるかというと、潜在能力、いわゆるポテンシャル採用だと思う。今後自社に入って育って活躍してくれそうかどうか、現在の姿勢から将来の姿を想像する。または性格が社風にマッチしているかどうかという点などもあるだろう。たまたま面接でマッチする会社に出会えれば良いが、そうでない人も多くいるので、この運の良しあしで人生の半分ぐらいが決まってしまうという恐ろしさを感じる。

まとめ

自分が大手企業に入っているからと言って、それは自分の能力が高いということを必ずしも意味するわけではない。なぜ自分が今の地位で居られるのか、そのことをしっかり理解した上でおごらずに行動し、地道な努力を重ねていける人がどんなところに行っても必要とされる人材になるのだと思う。

 

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適度なストレスが人を健康にする

外に出る機会がめっきり減ってしばらく経つ。ずっと家に居ることで刺激やストレスが極端に少ない生活を送ると夜眠くならなかったり、日中になんだかボーっとしてしまうことも多い。そんな状況を打開するために、自分の日常生活に適度なストレスが必要だと気付いたのがこの半年間過ごしてみて分かったことだ。

私であれば会社に出勤することで少なくとも普段より早寝早起きしなければならないし、使える時間が限られる分、集中してやるべきことに取り組むことができる。また、他の人と顔を合わせて会話することが良い刺激となり、良質なストレスを育んでくれるのだと思う。

このような考えのもと、私は自身の両親を見ていて思ったことがある。それは、日常生活でかかるストレスが健康に直結するのではないか、ということである。

私の両親がまだ元気である理由

私の両親は共に既に60歳を超えており、一般的には前期高齢者の部類に入るのだろうか。私の親戚や身の回りを見ている限り、世の中の三分の一ぐらいの人は60歳を迎えるまでに入院したり何らかの病気を患ったりした経験がある人が多い。だが、私の両親はまだ大きな病気をして一定期間体調を崩したこともないし、父親は数カ月前に引退したのだが、それまで平日ほぼ毎日5時間ほどの睡眠と往復3時間強の電車通勤を35年続け、その間体調不良を理由に仕事を休んだのが1日だけというかなりのタフガイである。母親は毎日4時起きの22時就寝ぐらいで生活しているが、体調不良で休みというのは未だに見たことがない。

なぜ2人ともこんなに体が強いのか不思議に思って色々考えていたのだが、一つのある結論が見えてきた。食事をきっちり食べていることや睡眠もある程度は確保できているということもあるだろうが、とにかくこの2人は仲が良いのである。夜はいつも二人で会話をしながら食事をしているし、一緒にテレビを見て笑い、一緒の部屋で寝ている。でも、お互い過干渉にはならず適度にストレスがかかりすぎない距離感で過ごしている、ということに今更ではあるが気が付いた。お互いの存在が良い刺激となっているのだろう。夫婦の仲の良さは他のストレスを吹き飛ばすほど偉大である。

ストレスとの付き合い方

ストレスというのは、積もり積もって大きくなったものがある日突然体に悪影響を及ぼしてしまうものだと私は思っている。例えば、会社の人間関係が嫌で嫌で仕方ないのを我慢して続けていても、いつかは限界が来て体が動かなくなってしまう。ひと時だけなら耐えられるストレスも、日常的に続いていくとキャパオーバーしてしまうのである。キャパの大きさは人それぞれなので自分のキャパはしっかり見極める必要がある。だから、今この瞬間自分自身にどんなストレスがかかっているのか、それが継続してかかっても自分は大丈夫でいられる適度なものなのか、ということを定期的に確認する必要があると感じる。

かけすぎてもダメでかけなさ過ぎてもダメ。自分の状態に合わせてストレスとの付き合い方も柔軟に変えていけるようになりたいものである。

 

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ドコモ口座の事件はなぜ起こったのか~SE視点での推測

先週末ぐらいから世間を騒がせているドコモ口座の問題を見ていて思ったことがあるので私なりの意見を書いていきたい。

原因はコミュニケーション不足ではないか

ズバリこの問題が発生した原因は、協業する中でのドコモ側と銀行側のコミュニケーション不足が原因ではないのかと思う。

もちろん私はこの会社に属しているわけではないので、事業やプロジェクト(以下、PJ)の実情を把握しているわけではない。だが、このPJは結構ピリピリした雰囲気のPJであったのではないかと勝手に想像する。NTTのような巨大企業が一次請けベンダーとなって銀行を相手に大規模なシステムを組む場合、その配下に何十あるいは何百もの下請け孫請けのSIer会社が参画するものである。そのため、仕事の指示は一次請けベンダーのリーダーからバケツリレー式に様々な下請け孫請け会社に引き継がれていき、その過程で情報の質はどんどん劣化していく。最終的に指示が末端の作業者に届くころには当初の指示とは全く異なる内容になっていたりすることも多い。私が前の会社にいた時はこの暗黙の形式に戸惑って苦労した。

真偽は確かではないが、そのような中で互いに仕事の相談や報告などのコミュニケーションが十分に行われなくなり、あるいは伝達がうまくいかなくなる。そして、互いに仕事に対する認識が乖離したまま出来上がったのが、セキュリティがガバガバのドコモ口座システムだったのではないだろうか。

これは何の根拠もない私の勝手な想像でしかないが、ピリピリした雰囲気の現場がうまく回ったことは今までの経験上皆無であり、働きづらい職場環境であっただろうことが容易に想像できてしまうのである。

仕事上でコミュ力が大事といわれる理由

仕事上でコミュニケーションをとるのは面倒なことも多い。気の合わない同僚や嫌な上司とは顔を合わせるのですら苦痛なのに、会話をするなんてもってのほかというのが正直な気持ちである。そして大きなPJになればベンダーと下請け・孫請けというSIerカーストに飲み込まれ、他社の人間に気を遣って媚を売りながらPJを回さなければならないという、途方もないやりづらさがある。個人差はあるだろうが、私はこの形態でやらされる仕事にはうんざりだった。

しかし、仕事仲間とのコミュニケーションを避けていると仕事や成果物に対し、次第に管理者側と作り手側の認識のギャップが広がっていき、気が付いた時には取り返しのつかないぐらい大きな溝となってしまうこともあり得る。そんな状況が発生してしまうことを避けるために、嫌な上司やムカつく同僚とも仕事と割り切ってコミュニケーションを積極的にとらないといけないのかなとも思う。今回の事件は、そんな仕事を進める上での当たり前のことを思い出させてくれた。

もしコミュニケーションをとるのがどうしても嫌であれば、その職場は自分がいるべき場所ではないのだろう。今回のように、自分がコミュニケーションを取れないことが回りまわって周りの多くの人に迷惑をかけてしまうことにもつながりかねないし、自分自身も嫌な思いをしたくないのであればやはり環境を変えるしかないのかもしれない。

この事件が起こった背景を私なりに想像するとあながち他人事とも思えず、少しではあるがシステムの作り手に対して同情したり共感する気持ちも湧いてくるのだ。

 

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在宅勤務時の食事内容を工夫する

今週のお題「ごはんのお供」

春先から在宅勤務が増え、昼食については自炊することが多くなった。通常通り会社に出勤していればコンビニで購入するかどこかのお店で外食するの二択であった。しかし、在宅の場合は昼食のためにわざわざ外出するのも面倒なので、自炊するのが最も経済的かつ手っ取り早いと感じる。

麺類のコスパ最強説

最近、私がほぼ毎日食べているのは冷たいラーメンやジャージャー麵のようなものである。少し前まではパスタを茹でて食べることが多かったが、茹でるのにまあまあな時間がかかることや、飽きてきたこともあり最近はなかなか気が進まない。そこで生麺を冷凍しておいて昼休憩になったら冷凍庫から取り出し常温解凍し、その間にお湯を沸かしながら洗濯物を取込む等の家事をする。お湯が沸くころには麺もいい感じに解凍されて、後は沸騰したお湯の中に麺を放り込んで2~3分ほど茹でれば手早くラーメンができるのである。以上は私の在宅勤務時の定番のルーティーンワークとなっている。

また、ラーメンの上に任意で自分の好きなおかずを乗せ、かけるソースなども数種類用意しておけば、毎日少しずつ食事内容に変化を加えてマンネリ化をある程度防ぐこともできる。近頃はスーパーで刺身用のサーモンやマグロを購入し、自分でスライスしてラーメンの上にのせ、海鮮ラーメン的なものを自作するささやかな楽しみも覚えた。

以上は私が日頃行っているラーメンでの一例にはなるが、麺類全般はさっぱりとしておりのど越しも良く価格も手ごろであり工夫次第でアレンジも効くため、自炊のお供として個人的には非常にオススメできる。

個人的にはインスタント食品は週一回程度を目安にしたい

台所に立つのがどうしても億劫という方も一定数おられるとは思う。そんな方々は恐らくカップラーメンとかカップ焼きそばなどの冷凍食品+お惣菜みたいな形でお昼を済ませているのかもしれない。私も毎日の食事に少し変化を入れたいときなどはたまにカップラーメンやマクドナルドを食べたりすることもあるが、それらはたまに食べるからこそ美味しいのであって、日常的に食べるものではないと個人的には考えている。だからインスタント食品は多くても週一回程度しか食べないし、でももちろん美味しいので週一回しかないからこそその時を待つというちょっとした楽しみも味わうことができる。

新たに試してみたいこと

とはいえ、私の場合はほぼ毎日ラーメンという麺が食事のベースとなってしまっているため、多少の飽きは出てきている。そこで最近もう少し昼食のレパートリーに加えてみたいのは海鮮丼や寿司などの生魚を使った料理である。コスト的な面なども色々と検討する必要はあるが、ラーメンや他の麺類以外で何か生魚のうまい使い道がないかどうかを考えてみたいと思っている。

今までは肉が大好きであったが、今は生魚の魅力に気付きつつある。よく考えれば寿司とかは子供の頃から大好きだったので、むしろ気付くのが遅すぎたのではないかと思っている。基本的に脂分が少なく胃もたれしにくくさっぱりしているが、しっかりたんぱく質を摂取できて且つ美味しいというのが生魚の大きな魅力だと思っている。メニューを検討して私生活に少しずつ取り入れていきたい。

 

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人の本音は会っていない時こそ見えるものである

他者の本音を知ることは難しい。普段の生活の様々な場面でこのことを実感するが、特に相手の本音を知りたいと思う場面として恋愛が挙げられるのではないかと思う。私も学生時代の頃は、相手が自分のことをどう思っているか知ることができたらどんなに良いだろうと思うことがしばしばあった。

また、TwitterをはじめとするSNSでは匿名で自由に投稿できるのを良いことに、普段面と向かっては言えないような本音という名の罵詈雑言を吐き散らす輩も多く存在する。

そんな状況を見ながら、人が本音を見せやすい状況が最近になって少しクリアに見えてきた気がしているので、私なりの持論を紹介する。

相手が自分に気があるのかどうかの判断基準

これに対する私の唯一の結論は、他愛無いラインやメールが長続きする、である。

対面のときの心理

人は対面で会っている人が目の前にいるとき、その人を無視することは滅多にない。よっぽど相手が嫌いであれば話は別だが、人が目の前にいればその人と会話の一つや二つするだろうし、できるだけ嫌われないように振る舞うのが自然な態度となる。それは相手が自分に気がある場合でもそうでない場合でも大して変わらない。そのため、対面で会っている時の相手の態度で自分に対する好意を見極めようとするのは、かなり難しいのではないかと思うのである。対面で会っているときは大体の人がそれなりに愛想よく接してくれるだろうから。

対面でないときの心理

しかし、ラインやメールになると状況は変わる。対面の時はニコニコして愛想の良かった人が全く返信してくれなかったりすることが普通にある。結局はこれが相手の本音なのではないかと私は思う。対面しているときはその場で何とか愛想よく取り繕うことができるが、実際に目の前に相手がいないときはそんな忖度は必要なく、いくらでも自分の好きなように扱うことができる。対面で好意的な印象を受けたのに連絡がほとんどないという場合、大抵は相手のことなど何とも思っていない、というのが本音となる。もし相手の中で私の存在が大きいのであれば、会っていないときでも連絡したくなるし、必然的に連絡の頻度が上がると思うのだ。逆にそれがないということは所詮私はその程度の存在でしかないということである。

匿名での誹謗中傷はほぼ全てが本音

相手の顔が見えない、ということは強力な盾となる。SNS上で顔も知らない人たちへの誹謗中傷や無意味なテキストベースでの喧嘩が無くならないのはこれが原因である。

中にはネタとして過激な内容を書き込んでいる人もいるかもしれないが、それ以外の人たちは実は本音ではあれだけの汚れたことを考えているということである。普段面と向かって人には言えないからこそネット空間でそのストレスを他人に向ける、ということだ。

このように考えると、やっぱり人間は意地汚く醜い生き物だなっていうことを実感するし、他人に全幅の信頼を寄せることなんて相当難しいと思ってしまう。ネット空間の発達は、今まで見ることができなかった他の大勢の人々の本音や本性をさらけ出す。見えなかったものが見えるようになるということは、単純に良い面だけではないなと思う。

 

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ハードゲイナーというマイナーな悩みについてゆるく語る

体重とトレーニング・ハードゲイナー

少なくとも我が国日本において世の中の大半の人は、体重が増えたり体型が太くなることに対してネガティブな印象を持っており、できれば避けたいと考えていると思う。極端にいうとデブよりはガリガリの方がまだマシという考えが根本にあり、その気持ちは良く分かる。メディアなどでも痩せるための食事や運動の方法論は掃いて捨てるほど目にするが、筋肉をつけて体重を増やす方法について具体的に紹介しているものは稀である。つまり現在の日本においてその需要が圧倒的に少ないということの裏返しだろう。

だが、私のようにトレーニングをしながら体を作っている人にとって体重を増やせないというのは致命的である。体重を増やさなければ筋肉がつくことはないからだ。筋トレをしても筋肉がつくわけではなく、それと合わせて体重が増えるぐらい食べないと筋肉はつかないのである。また、ただ闇雲に食べるだけでもダメでそれなりに良質な食事でカロリーを稼がなければならない。そして、体重が増えるぐらい食べるというのは我々ハードゲイナーにとっては大変な苦行である。

食べるのが遅いという悩み

ハードゲイナーの人は基本的に食べる量が少なく、食べるのが遅い。私も例外ではない。

とにかく、他の誰かと一緒に食事をとるのが億劫で仕方ない。特に5、6人で一緒に食事に行くと自分以外の全員はさっさと食べ終わってしまうのに、自分だけはまだ半分も完食できていない、なんて状況はザラにある。先に店を出てもらうと会計も面倒になるし、でも待っててもらうのも何だか気まずい。なぜ食事という本来であれば楽しい時間にこんなにストレスを感じなければならないのか、そう思って物心ついた頃からは家族以外の人間と一緒に食事するのを断るようになった。やむを得ず他人と食事することはあるが、基本的には個食の毎日である。

食べるのが遅い人間からすると、どうしてつけ麺大盛りをわずか3分で完食した後に追加で替え玉まで食べられるのかが全く理解できない。自分はその半分ぐらいの量を食べ終えるのに10分以上かかるというのに。

悪いことなのか

ハードゲイナーは悪いことではない。ゆっくり食べるので食べる量が少なくなり、結果的に太りにくいということになるだろう。むしろ健康的ではないか。

一方で、ボディビルやフィジークなどの体を作って見せあうようなスポーツではハードゲイナーは不利になる。理由は前述の通り、食べる量が少ない≒筋肉が成長しづらいためである。また内臓の消化能力も弱く、ちょっと食べすぎたりするとすぐ下痢になったり体調が悪くなったりする。こういうタイプの人間は筋トレとか体づくりについて、食事の観点からはあまり精を出しすぎない方が良く、そういう意味では筋肉をつける才能がないのかもしれない。

それでも私だってそれなりに筋肉をつけているのだから、吉野家の牛丼並盛一杯で満腹になるぐらいの食事量だと少しもの足りなく感じてしまう。もう少し食べられるようになりたいものである。

 

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たまには会社に出社するのも悪くないと感じたこと

まずは何気ない日々の生活に感謝したい

日々生活を送る上で便利だなとかありがたいなと思っていたことに対しても、毎日繰り返しているうちにそれを当たり前だと感じるようになり、そのありがたみを特別だと感じなくなってしまうことは多いと思う。

例えば、健常者は大抵いつも健康で生きる上で何不自由なく生活していると思うが、ひとたび大怪我や大病を患って自由に身動きが取れなくなってはじめて不自由ない生活をありがたいと感じるものである。私は最近特に体調を大きく崩すことも大怪我をすることもなくそれを何とも思わずに生活しているが、色々と生きづらい最近の世の中において、改めて決して不自由ではない自分の状況に感謝しなければならないと感じる。

久しぶりに会社のメンバーと会って感じたこと

先週会社に出社した際に約半年ぶりぐらいに顔を合わせるメンバーがちらほらいた。今は在宅勤務が主流で週に1、2日ぐらい出社するような流れになっているが、個人によって出社日はバラバラであるため、なかなか会うことができないメンバーもいる。先週は珍しくかなりの人数が出社していたため、久しぶりに顔を合わせる人もいたということだ。

久々に会話をしているうちにコロナ禍以前の雰囲気とか自分の中の感覚を少し思い出し、懐かしい気持ちになった。雑談やちょっとした業務連絡をする中で、職場とは言え人と何かしら会話をしたりコミュニケーションを取ることはとても大切なことだし自分にとって必要なことだと心から感じることができた。在宅勤務でウェブ会議を行う機会は頻繁にあるのだが、やはりリアルでのコミュニケーションに勝るものはないという実感を得た。

出社あってこそ在宅勤務のありがたみが深くなる

そして同時に思ったのが、やっぱり在宅勤務って良いなということである。全く出社をせずに在宅勤務ばかりしていると他者とまともな会話をしないせいでだんだん心が荒んでくるし、次第に体がだらけモードになって無気力になってくる。そりゃあ在宅であれば睡眠時間も長く確保できるし移動や服装や雑音のストレスもなくて快適ではある。だが、定期的に出社をして自身を適度なストレスにさらすことでメリハリのある生活につながり、より在宅勤務にも身が入るというものなのかもしれないと最近は思っている。

現在世の中の状況はカオスに近い。そんな中で出社せずして仕事に支障が出ないのであれば可能な限り出社しない方が良いだろう。それはどうしても出社しなければならない自分以外の人々が受けるリスクを可能な限り減らすためだ。ただ、あくまでも自分自身の心と体の健康のため、メリハリのある日常を求めるのであれば適度に出社するなりして自分をストレスにさらすことで、より張りのある日常生活を送ることができるのではないだろうか。

 

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防災週間に考えたいこと

災害に対する心構え

今週のお題「もしもの備え」

お題を見るまで忘れていたが、今週は防災週間ということである。新型コロ助の影響をはじめ、現在は台風が接近していたり、不定期に地震がやってきたりと何かと安心できない日々が続く。これらの事象を100%回避することはできないため、ただ単に恐れて萎縮してしまうというのはあまり得策ではない。であるならば、仮に発生してしまった場合に備えて被害が最小限で済むように万全の準備を期しておくことが何より合理的な行動となるだろう。

防災用品の見直しを

平和な日常が続いているとすっかり忘れてしまいがちになるが、最低年に一度この季節に防災用品の見直しをすべきタイミングである。どこの家庭でも防災グッズを保有しているとは限らないと思うが、何かしらの備えをしている家庭は多いと想像する。そして備えそのものをしたらおしまいではなく、備えに対して定期的にメンテナンスをしているか否かが、いざ災害発生時に役立つかどうかの分かれ道になる。

正直私自身もいつの日からか殆どメンテナンスしていないため、これから備品の確認をいていきたいと思う。個人的には以下の観点を押さえておけば最低限OKという認識だ。

・モバイルバッテリーの充電残量は切れていないか

スマホとモバイルバッテリーの接続端子は合っているか

・水の賞味期限が切れていたり量が著しく減っていないか

・保存食の賞味期限が切れていないか

・懐中電灯はつくか、予備用の電池があるか

・携帯トイレはあるか

メンテナンスのスパンとしては大体3ヶ月~半年に1回ぐらいが良いのではないだろうか。特に明確な理由があるわけではないが、電池切れなどを考えるとこのぐらいなのかなと思う。

水の賞味期限について

水の賞味期限が切れたらすぐに買い替えているという方もおられるかもしれない。だが、水は賞味期限が切れても品質的にあまり問題ないそうである。水の賞味期限は購入時を基準に一定量以上が蒸発してなくなってしまう場合の指標であり、品質には問題ないということらしい。

詳しくは個々で情報の真偽を調べてみてほしいのだが、私自身も感覚的に水に品質の賞味期限があるようには思えないため、期限が過ぎたものでも2~3年ぐらいはそのままにしておくことが多い。そしてそれらを飲んでも今のところ体に大きな不調は起こっていないため問題なさそうである。そのため、むやみやたらに賞味期限に対して神経質になる必要も無さそうだ。とはいえ、気になるという方は多くいると思うのであくまで個人の判断に基づいた方がよさそうではある。皆さんはどう考えるだろうか。

 

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