rk-baryoのゆるっと日記

元ニート、現アラサーサラリーマンが日常生活、ビジネス、会社、旅などについて語るブログ

同僚との距離感や言葉遣いについて思うこと

環境が変わると関係も難しくなる

前回の記事と似たような内容になってしまうが、最近ちょっと考えるようになったのが職場の同僚との適切な距離感の保ち方についてである。会社の同期であれば学生時代からの延長や研修での関係性などから多くの人はタメ口で話をするだろうし、各々が別々の部署に配属され、それまでタメ口での会話が基本だったのがいきなり敬語での会話になるということはないだろう。私も前の会社に所属していた時は何も意識することなく同期とはタメ口で話をしていたし、それが普通のことだと思っていた。また、後輩に対してもほぼタメ口で話をしていたと思う。

だが、転職等で環境が変わると周りの人にタメ口で接することは難しくなると感じる。新卒で一緒に会社に入った仲間に対しては職場の同僚という関係以上に親近感を感じやすく、後輩に対しても明確に後輩と認識することができ、タメ口を使うハードルは下がる。しかし、新しく入った組織では年次的には私が上であっても組織に所属している年数では相手の方が長ったりするので、先輩として接するべきか後輩として接するべきか分からなくなることがある。

敬語ばかりで堅苦し過ぎるのも考えものかもしれない

そのため、転職してからは自分より年次が下の相手に対してもひとまずは無難に敬語で接することを基本スタンスとしてきたのだが、ずっと敬語で接し続けることに対して最近は違和感を感じることも多くなった。私自身が先輩と接するときはもちろん敬語を使うが、先輩は私と接するときに敬語を使うことはあまりないし、もし先輩が私に敬語ばかりで話してくればかなり違和感がある。慣れの問題もあるかもしれないが、先輩から敬語を使われると少し突き放されて牽制されている感じがしてしまうし、フランクな関係での会話を進めづらい雰囲気を感じてしまいそうだ。

「自分がやられて嫌なことは他人にやるな」とはよく言われることで、嫌なこととまではいかないにしろ、自分が先輩にガチガチの敬語で会話されることに対して多少違和感があるのなら、私も後輩に対して少し堅苦しさを無くして接してみようと考え始め、少しずつ実行している。もちろん仕事上の人間関係なので友達のように接するわけにはいかないが、今までのように何もかも敬語でクソ真面目に答えるのではなく、たまにタメ口を交ぜたり冗談を言ってみたりして、少しでも相手に違和感を与えないようなコミュニケーションをとりたいと考え始めている。

 

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小学校でのあだ名禁止のニュースから思ったこと

あだ名禁止で生まれる妙な距離感が気になる

今日少しTwitterを眺めていたら興味深い話題を見つけた。

最近小学校ではクラスメートをあだ名で呼ぶことを禁止しているところもあるらしい。

news.biglobe.ne.jp

 

この記事によると、あだ名を禁止している学校ではさん付けや君付けで相手を呼ぶようにしているということである。理由としては、いじめや差別をなくすことが主な目的であり、確かに丁寧な呼び方をすることで相手を尊敬する気持ちだったり、無駄な争いが起きにくくなる可能性もあり、一理あると思う。

反面、私が小学生の頃でも友達のことを〇〇さんとか××君とか呼ぶことももちろんあったが、それは大して仲良くもない知り合いに対して限定的に行っていたこと。仲良い友達や休み時間や放課後によく一緒に遊ぶ友達に対して○○さんなんて言っていたら、それだけで妙な距離感が生まれてしまうし、遊びの楽しさも半減してしまうような気がする。

私は小学生の頃にサッカークラブに所属していたが、プレー中に「〇〇さんこっちパス!」なんて言っていたらなんだかおかしい感じがするし、相手がそういう言葉遣いをしていたら笑ってしまいそうである。サッカー日本代表ラグビー日本代表が試合中に仲間のことをさん付けで呼んでいる場面を想像すると違和感しかないだろう。そう思うと、さん付けでの呼び方は、チームプレーのスポーツなどにおいては色々な面でパフォーマンスに支障が出そうな気もする。

重要なのは言葉ではなく心の持ち方ではないのか

遅くなったが私の持論ではあだ名禁止には賛成できない。それは、表面的な言葉遣いを強制したところで、中身の人間性にはさして変化がないと思うからだ。

確かに、あだ名を禁止にしたら友達に対して変な呼び方をすることはなくなり、あだ名が原因でいじめられる人は少なくなるだろう。また、日常的に丁寧な言葉遣いをすることで心まで綺麗になって人格者に近づけるかもしれない。しかし、そのようにならない可能性もあるし、いじめる側の人間はあだ名であろうが何であろうがターゲットの気に入らない部分をとにかくあら探ししていじめる理由を見つけてくる。あだ名一つがいじめのリスクから除外されたところでほとんど意味がないことになる。

あまり効果が見込めない対策を子供たちに強制させることで友達同士の心の距離が離れてしまうようなことがあるのであれば、それは果たして本当に良い対策といえるのだろうか。私も対案を出すことはできないのだが、なにもかも禁止にすれば解決するという単純なものではないし、禁止することで失う可能性のあるものにも目を向けるべきである。あだ名を禁止するという付け焼刃的な対策ではなく、もっと人の内面に切り込むような対策が必要だと思った。

 

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若いうちに一度ぐらいはまともな恋愛をしておくべき理由

もしもの時の備えという考え方

ひと昔ふた昔前はともかく、現代においては結婚に対して消極的になっている若者が多く、私もそのうちの一人に当てはまるのかもしれない。結婚願望が殆どない人も珍しくない世の中になっているが、絶対に結婚したくないという人はそこまで多くないものである。私も結婚願望はないが、それは特に良い人に巡り合わなかったら、という条件付きであり、心ときめき守りたい存在ができたら考えが変わる可能性は大いにあり得る。ただ、その出会いを積極的に求める活動をしたり、必死に努力するという気までは起きないということである。独身主義の人でも、概ねこのような考え方をしている人が多いのではないだろうか。

心ときめく誰かに出会うことがなければ一生独身のままで人生を終えることになり、ある意味気楽で平和な人生の歩み方となる。私もこのような人生を送ることができれば、少々寂しい気持ちもあるが、ある程度平穏に生活していくことができるのではないかと思っている。しかし、このような人が心の片隅に置いておかなければいけないことがある。それは、偶然にも運命の誰かと出会って結婚願望が強くなってしまった時に、少し不利な立場になるかもしれないということである。

経験値がプラスに働く場合がある

私も含め結婚や恋愛に対して消極的な人種は、恋愛的な人間関係の構築が少々苦手であり、経験値も平均よりは少ない人が多いと想像する。そのようなタイプの人間がいざ運命の相手に出会い、積極的に恋愛関係を築こうとすると挙動不審になってしまったり、要らぬところで相手をがっかりさせて関係がうまくいかなくなることもあるかもしれない。そして自分自身がより高齢になってからそのタイミングを迎えると、失敗することを恐れたり余裕のない立ち振る舞いにつながってしまい、更に相手にマイナスイメージを与えてしまうかもしれない。だが、それまでにある程度の恋愛経験があったり、パートナーとの付き合い方を知っている人は、そんな時にも自然に振る舞うことができ、より相手からの好感度を上げたり、素の自分で居られるので疲れたりすることも少なくなる。その結果相手との関係が長期的にうまくいくようになりそうだ。

「若い頃の苦労は買ってでもしろ」という言葉があり、私はこの言葉が大嫌いである。できることなら苦労しないで楽に生きていきたいし、自分が苦労したからお前も苦労しないと気に入らないという老害的な精神が見え隠れする。しかし、こと恋愛や結婚について考えた時、この言葉を全面的に否定することはできないと感じる。若い頃に失敗した恋愛経験を活かすことで結婚できた人もいるだろうし、相手の気持ちを真剣に考えてみたり、多くのことを学ぶことができる。その過程で傷ついたり辛い思いをしたりして苦労することもあるだろうけど、来たる運命の人に出会った時にその経験が必ず生きてくるということなのだ。

 

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酒飲みの主食にジャガイモをオススメする理由

今週のお題「いも」 

なかなかマニアックなお題が飛んできた。

酒飲みの食事にありがちなこと

特に家で酒をよく飲む人であれば分かると思うが、酒を飲む日はどうしても酒に合わせて食事を考えるという思考回路に陥ってしまい、お皿の数が無駄に増えて準備や洗い物が面倒ということが小さな悩みとなる。

ビールやチューハイを飲むのであればつまみの枝豆、キムチ、イカフライなどのおかずが別皿で盛られ、そこに主菜の肉魚類の料理が一皿、さらにサラダや野菜の副菜類が一皿、プラス主食を入れるとかなりの皿数になってしまう。つまみ類をできるだけ一つの皿にまとめることもできるが、酒に合わせた食事を用意するとなると品数が多く必要になるし、準備や後片付けも面倒、また知らず知らずのうちにたくさん食べてしまうので太ってしまうことにもつながりやすくなる。

よく、「酒を飲むと太るんだよね」と言っている人がいるが、正確に言うと酒のせいで太っているのではなく、酒と同時につまみを多く摂取してしまっていることが主な原因なのではないかと思う。例えが適切かどうか分からないが、ラーメンを食べた後に締めでご飯を食べるようなもので、食事の時間も長くなるので必然的に高カロリーを摂取して太るということにつながるのである。

芋系の料理で問題を解決できるのではないか

そんなことを考えつつ、酒飲みのメインの食事内容はどのようなものが一番手間がかからずカロリー過多を避けることができるのかと考えていた。色々な方法がありそうだが、一つの案として芋を主食とした食事内容に切り替えてみることがあると思った。

酒飲みは最初につまみや主菜を食べた後、締めのご飯やラーメンを食べるという流れで食事をすることが多い。主食に到達する前に既にカロリー的には十分に摂取できているのに、追加でご飯やラーメンを食べたくなってしまう。最後にどうしても炭水化物をある程度摂取しないと気が済まないのが酒飲みの性質であり、私もこの気持ちは良く分かる。

であれば、つまみを食べ始める段階で一緒にジャガイモの料理などを食べてみたらどうだろうか。もちろん里芋でも長芋でも芋であれば基本的になんでも良いと思っているのだが、ジャガイモの方がお腹にたまりやすいような気がするし、レシピも豊富であるように思えるのでジャガイモを推したいと思っている。

ご飯や麺類だとつまみ系と一緒に摂取するのに抵抗があるという意見もあると思うが、芋系の料理はつまみ系の延長的な感覚で食べることもできると思うし、その意味で”準主食”のような役割を果たせる貴重な食材だと思う。そして最後に追加でご飯を食べようとするときには既に腹がいっぱいになって締めの炭水化物を避けることにもつながりやすいのではないだろうか。

カロリー摂取も控え目にし、お皿の数も少し減らして酒飲みに支障が出ない程度に楽しめる食事を提供してくれる点で、ジャガイモをはじめとする芋料理が持つ魅力は大きいと私は考えている。

 

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一度上げた生活水準を下げるのは難しいと思った話

人間というのは不思議なもので、時間があればあるだけ仕事の時間を延長してしまう人々が一定数存在する(パーキンソンの法則)。それと同様に手持ちのお金があればあるだけ使ってしまうような人々も存在する。私は決してお金持ちではないので大金を手にした人達の気持ちが想像できても実感できないので、なぜお金を持つと無駄に贅沢をしてお金を浪費してしまうのかよく分からなかった。だが、先日家に新しいテレビを購入した時にその答えの片鱗が見えたような気がする。

テレビを新調した時に考えたこと

先日家のテレビが壊れて電源が入らなくなったので、急遽予備用に保管していたサイズの小さなテレビでしばらく代用しようとした。そう、しばらく少なくとも1カ月程度はこの小さなテレビで過ごし、それで不足があるようなら新しいちょっと大きめのテレビを買おうと思っていた。しかし、結局古い小さいテレビを使ったのはたった1日だけで、すぐに大きい新しいテレビを電器屋で購入することになった。古い小さいテレビは確かにそれまで使っていたテレビよりは小さいテレビであったが、部屋の大きさなどから考えると特に大きく不足するようなサイズではなく、不都合もなかったと思う。でも我々は小さいテレビでは満足できずに前よりもさらに大きなテレビを購入することを即決した。

このことを少し考えていて、稼ぎが良くなって生活水準を上げると後で年収が下がった時に生活水準を下げるのが難しい、というどこかで聞いた話を思い出した。この話を聞いたときはそんなわけないじゃんと鼻で笑う準備をしていた私であったが、今回のテレビ購入騒動がまさにこれに当てはまるのではないかと思った。無論、浪費マンとは程度の差はあるかもしれないが、やっていることの本質は変わらないと思う。

そもそも、昔はブラウン管というちっこくて見にくいくせにやたら重くて場所をとるテレビであったが、それでも持っているだけで重宝されたりささやかな幸せを感じることができたものだ。今やテレビは薄型軽量大画面の三拍子が揃い、昔に比べると同じテレビとは思えないほど進化してきている。そしてこの時代に生きる私たちはこれを当然のことのように享受し、更なる贅沢を求め続けているのである。自分が言えることではないが、人間とはなんと傲慢な生き物なのだろうと思ってしまう。

支出に対する客観的な視点を持てるようにしたい

話を戻すと、やはり多少お金に余裕があれば色々なより良いものが欲しくなるものだと今回の出来事で実感した。だから、仮に自分が大金を手にしたら今は想像もできないようなものやことをお金で買うようなことを考えてしまうかもしれない。日々食べることに困るような貧困層の人たちは家のテレビが古くて見づらくても新調しないだろうし、そんなことは考えもしないだろう。

年収が上がって生活水準を上げるのは別に問題ないだろう。だが、その生活水準が当たり前だと感じてしまうと、後々失業したり転職して年収がガタ落ちした時に対応できなくなる。だから、自分の生活水準がどの程度なのかをある程度把握し、自分の収入に見合ったものなのかを客観的に判断する力が重要であると、今回の一件を通じて考えさせられた。

 

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漆黒企業よりも灰色企業の方が危険な理由(ブラック企業)

近年におけるブラック企業の変遷

サラリーマンなら誰しもブラック企業に入社して心身共々疲弊してしまう状況だけは避けたいものである。よくIT業界にはブラック企業が多いと言われることがあったが、それも5年前ぐらいまでのこと。IT業界に対しては悪い噂ばかりされることが多かったので、ここ数年は多くの企業がフレックス制を採用したりみなし残業を止めたり、ブラック企業の要素になり得るものを潰すことに注力している。そしてこれは個々の会社単位だけではなく業界全体として特に力を入れて取り組んでいるように思える。

今はパワハラやセクハラをはじめとするハラスメント等に対する罰則が大きくなり、企業側もあからさまに従業員を酷使することが難しくなっている。そのため、電〇やワ〇ミのように一時期社会現象になるほどの騒動を引き起こすような事件は最近あまり発生していないように見受けられる。これは一見喜ばしいことである。

しかし、そんな中増えてきたのが、あからさまではないけれどネチネチと従業員を追い込んでいく体質の企業である。前述のあからさまなブラック企業を「漆黒企業」と例えれば、こちらは「灰色企業」と呼ぶことができ、まさに法律のグレーゾーンを攻めるブラック企業のことである。そして残念なことに、この灰色企業は漆黒企業以上に質が悪く、放っておけば茹でガエル現象に陥ってしまうと私は思っている。

灰色企業が危険な理由

灰色企業は労働者視点から見るとそこまで悪く見えない点で非常に質が悪い。

私が以前所属していた会社などはまさに灰色企業の典型であった。仕事量はそこそこ多いし上司や先輩でたまに面倒くさい人もいるけど、8割以上の人はしっかり相談に乗ってくれる優しい人たちだった。また、残業はみなし残業だけど給料もそこまで悪くなかった。客先常駐でやりずらい仕事もあるが、おかしな労働をさせられることもない。だから、少し違和感がある状況でも「社会人なんてこんなもん」と変に自分を納得させて嫌な仕事をやり続けた。いつしか私は定時後最低でも1時間は事業所に居残ることや、残業代がやった時間分支給されないことが当然のことだと思うようになった。

しかし、これは前職の会社内だけでの常識であり、一般的に良いとされる考え方とは程遠い。それでもその環境にしばらくいれば多少辛くても理不尽でも殆ど何とも思わなくなる。人間は環境に順応できる生き物だが、この性質を見事に灰色企業に利用されてしまっているのである。仮に漆黒企業であればパワハラや残業時間の度が過ぎたものになるので、いくら順応しようとしても順応しきれずにすぐに辞めるなどの選択ができると思う。(順応できないと思ったら諦めるべし。こういう状況で無理に粘るのは良くない)

自分が所属する会社や組織がこのような現象に陥っていないかどうか再度見直してみると良いかもしれない。そして、おかしいことはおかしいと主張し、主張が通らずどうしても納得できないのであればその環境からは逃げるしかない。環境に適応する能力があることは本来良いことではあるが、灰色企業のような存在に搾取されてしまうことを考慮すると、過度な適応力の高さも考えものである。

 

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大手の社内SEは勝ち組なのか(タグお題)

転職エージェントで言われたこと

以前転職する際に転職エージェントを利用していたのだが、担当してくれたエージェントに以下の主旨の助言を受けたことがある。

「サラリーマンエンジニアとしての最終的なゴールはやっぱり大企業の社内SEですかね。30台の働き盛りまでは大手ベンダーでPM(プロジェクトマネージャ)、PL(プロジェクトリーダー)として働き、対顧客案件でしっかりと実力をつけ、少し疲れてきたら隠居じゃないですけど社内SEとしてまったりと過ごす。このようなキャリアの歩みがエンジニアとしては理想的だと私は思いますね。」

これに対して私もそうだと思う反面、このキャリアプランだけを目指してやっていくのも難しいかなとも思っている。このようなキャリアプランは多くのサラリーマンSEが目指すものであるかもしれないが、最終的なゴールとして見据える社内SEというのはギャンブル的な要素を多く含む職種であると思うからである。

私は転職するにあたり対顧客の仕事を完全に辞めて社内SE一本これからキャリアを歩んでいきたいと考えていた。外部顧客の案件は基本的に納期が厳しくプロジェクトがタイトである。そのため、残業や休出などの時間外労働が多くプライベートを充実させることが難しいと感じていたからである。そういう意味では社内SEでまったりと働くというのは一つ自分の想像とエージェントの意見が一致していたということになる。

ゆるく働けるという点で社内SEにはメリットしかないように感じていた私であったが、当然メリットの裏にはデメリットがある。その代表的なものが、環境によって人間関係に大きくはたり外れがある点であり、それも同じエージェントが教えてくれたことでもある。

社内SEのデメリットになり得る点

社内SEというのは一つの会社の中で同じ情報システム部門で働く人々で構成されるため、様々な面で閉鎖的になりがちである。狭い組織や人間関係の中では陰湿ないじめやパワハラが起こりやすい条件が多く、被害に遭っても同じ組織の人間しかいないということで誰かに相談することも難しい側面がある。

また仕事内容が楽かと言われれば決してそうとも限らず、他部門の理不尽な輩から無理難題を押し付けられたり、ITリテラシーの低い有象無象と対峙していかなければならないという面倒くささもあるだろう。そのような状況下で純粋に自分の好きな技術スキルを伸ばしたり、新しいスキルを身に付けようとしても多くの制約や足を引っ張る要素が多くなる。もちろんこれは社内SEでなくても当てはまることでもあるが、社内SEになるとそのリスクはより高くなるし、大手の社内SEであってもリスクはかなりあると思う。

私の担当だったエージェントが教えてくれたことにはもちろん一理あるとは思うし、私自身も社内SEにポジティブな面はいくつか感じている。しかし、これからエンジニアとしてキャリアを重ねていく中で、上記のようなことを把握したうえで社内SEという選択肢について考えていかなければならないと思っている。

 

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婚活や結婚に対して私が前向きになれない理由

最近とある婚活系のyoutubeチャンネルをいくつか見た。今や婚活系のyoutubeチャンネルは相当数存在し、多くは相手に対する理想を上げすぎる女性側に問題があるという立場で話を展開しているものが多いように見受ける。私も数年前に結婚を考えて街コンに1,2回参加したことがあるが、動画で挙げられているような点に嫌気が差して出会い系のイベントには二度と参加しないと決心した。そしてこれらチャンネルを見ると、ますます婚活に対する嫌悪感が増大してくるし、結婚に対してどうしても前向きに考えられなくなってくる。

出会い系イベントは男女平等ではない

街コンに参加して驚いたのは、まず参加費用が男女でべらぼうに異なること。男女の参加費が同額であることは極めて稀で、酷い場合は男性5,000円、女性1,000円というイベントもあった。確かに、年収的に言えば男性の方が高い傾向はあるかもしれないが、それでも同年代の男女で5倍以上年収に差があることなどあり得ない。せめて男性5,000円、女性3,000円ぐらいにしてくれればまだ不公平感は薄くなるが、それでも男女平等でないことに変わりはない。男性は高額の参加費を払っているからある程度真剣になるが、女性はタダ同然の参加費なので全く真剣にならない。これでは女性がふんぞり返った態度をとってしまうのもの仕方がないと思うし、恋活や婚活という意味ではイベントの価値はないだろう。

ここまで参加費に男女差を付けなければ開催できないイベントならば、そんなイベントは無くなってしまえばいい、と個人的には思う。そして私はこのような不平等なイベントには二度と参加しないと決めている。

イベントに参加することで自分の価値を下げている

結婚や恋人探しをするために婚活パーティや街コンに参加するのだが、ここにはある種の矛盾が潜んでいるように思える。それは、出会いの場では自分の魅力を高めておかなければならないが、このような場に参加することで自分の魅力を下げてしまっているということである。

当たり前ではあるが、普通に生きていく中で恋人や配偶者を獲得できれば婚活イベントに参加する必要はない。魅力的な人は婚活イベントに参加せずとも配偶者を獲得できるので、魅力的な人はイベントにはほとんどいない。言葉は悪いが売れ残りが集まるのがこのようなイベントであり、そのことはほとんど参加者が口に出さずとも無意識に感じているはずだ。だから、婚活イベントの場ではどうしても相手のことを売れ残りであるというフィルタを通した色眼鏡で見てしまう。だから普通に関わっていたらうまくいっていたかもしれない2人でも、婚活パーティではうまくいかないという不思議な現象が起こる。

こう考えると、何度も何度も婚活パーティに参加し続けることで自分の価値も気付かぬうちに擦り減り、取り返しのつかないレベルまで落ちぶれることになるかもしれない。私はそのことに気付き、出会い系アプリも含めて全てシャットアウトすることにした。

結婚をする必要はあるのか

私の回答としては、少なくとも現代において結婚は必要ではないし、無理してするものでもないと思っている。親に結婚をせかされてうんざりしているという同年代の方々ももしかするといらっしゃるかもしれない。私は親にせかされることはないが、さりげなく探られることはある。でも私は現時点では結婚をするつもりは全くない。それで親がもし結婚しろとせかしてくるようなことがあれば、「じゃあ相手を見つけて紹介してくれ。俺がやりたくないことを無理やりさせるならそれが筋だろう。」と切り返すつもりである。

だが、もしこの人のためだったら自分は死んでも良いと思えるような人に巡り合えたら自然に結婚を考えるだろうし、逆に言うとそのぐらいの覚悟がないと結婚なんて自分にはできないと思っている。

 

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大学に通う意味を考えた

現在とある大学生が主人公である青春小説的なものを読んでいて、まだ十分の三ぐらいしか読んでいないのだが、ふと大学の存在とは何なのだろうかと疑問に思った。

社会人になって働くことを一つゴールとしたい人にとって、大学とはほとんど必要ないものかもしれない。今の時代は独学で色々なスキルを身に付けることができ、それに大学の講義が勝るとも思えない。真面目に授業を受けている人は多くても半分ぐらい。それ以外の人は試験前だけ友達にノートを見せてもらってそれを丸暗記して試験に臨んだり、本来の学習に必要とされることとは程遠いことをやっている。それでもなんだかんだみんな就職できる。私は、大学も学校である以上は勉強するための場所であり、授業に出て真面目に勉強をすることこそがあるべき姿だとは思う。

だが、それ以外にも大学には以下のような重要な役割があると私は考えた。

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①一生付き合える友人や将来の配偶者候補と出会える最後の機会

②これから一生できないであろうことを実行する機会

③①②を踏まえて人間的に成長する機会

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一つずつ見ていく。

友人や配偶者候補と出会える場所

①について、今も付き合いのある友人の一人は大学1年生の頃に知り合った。どのようにして仲良くなったかあまり覚えていないのだが、気付けばよく一緒に行動していたし、放課後にしょっちゅう遊んだりするようになった。一緒に授業受けたり遊んだりする中で、彼と一緒にいるとありのままの自分で居られるだけではなく、多くの部分で尊敬できる点を発見した。

配偶者について私は経験していないので確かなことは言えないが、やはり社会人になると恋人候補との出会いは激減するため、その前に相手を探しておこうということだ。これは間違っていないと思うし、私ももし大学時代に良い相手と出会っていれば今頃は結婚していて、異なる価値観を持って生活をしていたかもしれない。

大学生にもなれば年齢的にはもう大人であり、自分の考え方や自我もほぼ固まっているため、そこで意気投合した人とは後にも関係を継続しやすいということは言えるだろう。

一生できないことをするチャンス

社会人はお金はあっても時間がなく、大学生は時間はあってもお金がない、人生というのは全てのことが同時に上手くいかないよう本当によく設計されているとつくづく思う。

一生できないこととは言いすぎかもしれないが、大学時代は普段できないことを思いっきりやれる一生で数少ないチャンスの期間である。私の大学時代の知り合いは3年生の終わりぐらいから就活そっちのけでアメリカ横断の旅に何人かで出かけて行った。その後の詳細は知らないのだが、彼が無事就職もできたということは風の噂で知った。時期やお金のことは考える必要があるが、体力と時間がある大学生のうちにとにかく何でもやってみるという精神は大事だと思うし、勉強と同じぐらい大学生活において意義のあることではないだろうか。

人間的な成長を育む

上記に述べたことだけではないが、高校までとは異なり、大学生になると行動範囲が大幅に広くなる。それだけ経験できることも増えるし、その過程で色々なことを考えて精神的にも成長する機会は多くあると思う。

私は大学生の頃、割と真面目に勉強していたつもりで、あまり突飛なことやリスクを冒すようなことには手を出す勇気がなかった。それよりもとにかく無事に就職することばかり考えてしまったので、割と味気ない大学生活だったと思う。そのため遊びに精を出している人や学業を疎かにしている人の気持ちは良く分からなかったのだが、実は彼らの方がより多くのことを経験して人間的に成長できているかもしれないとも思う。勉強はもちろん大事だが、大学に通う意義も目的も人それぞれだなと今になって思うのだ。

 

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1年間定期的に勉強を続けて現在感じること

仕事で分かることが少し増えた

昨年から本格的にプログラミング技術の勉強をし始めてから1年と少し経過している。勉強といっても座学的なものは資格試験の勉強がメインであった。それ以外の時間はほとんど動画を見ながら手を動かして何かを作ることや、自分で考えてイメージした動きになるように作ることをやってきた。まだ経過して一年ぐらいしか経っていないのだが、少しずつ仕事においてもプラスの影響が出てきたと感じている。

まず、色々な人と会話をしていて分からないことが減ったように感じる。ウェブデザインの資格勉強の過程で基本的な単語などを学習できたことが大きな要因だと思うが、それ以外にも自分で疑問に思って調べたことや考えたことなどが糧になっていると思う。勉強していなかった場合の自分と比較することができないので本当に勉強のおかげなのかと言われると分からないが、少なくとも以前よりは分からないことが減っている。そのおかげであれ程苦痛に感じていた仕事を前向きに捉えることができるようになってきたし、仕事の楽しみも少し分かってきたような気がしている。

今は仕事を辞めなくて良かったと思っている

新卒や2,3年目の頃、システムエンジニアという職業は自分には全く向いていないと思っていたし、就活の業界選びは完全に失敗したと思っていた。だから何度も辞めようと思ったし、実際に前の会社を辞めた時にはもうシステム開発の仕事だけは御免だと思っていた。

しかし、今はあの時本当に辞めてしまわなくて良かったと思えるし、就活時の自分の選択は間違いではなかったと思える。自分みたいな内向的で一人で没頭できる作業が好きな人間にとっては開発とか技術職が向いていると漠然と思っていた。そして実際に社会人になって想像よりはるかに多く求められる能力があることを知って絶望した。だがそれはこの仕事の一つの側面しか見えていなかったということ。開き直って自分の職業に真摯に向き合い、苦手だと思い込んでいた分野についても勉強を重ねるうちに分かることが少しずつ増えていき、この仕事の楽しさが少しずつ分かるようになってきた。まだまだ得意というには程遠い状態ではあるが。

自分自身に問いかけたいこと

新卒で会社を辞めてこぼれ落ちてしまう人は少なくないと思う。入社したけれど1カ月も経たないうちに退職したり、自分の仕事や会社に絶望してしまう人も多いと思う。私もそうで、4年前はもう自分はサラリーマンには向いてなくて人生が半分詰んでしまったと思っていた。しかしそう思った時に自分に対してこう問いかけてほしい、「これまで自分は仕事に真摯に向き合うために勉強や努力をしてきたのか?努力の方向ややり方は正しかったと自信を持って言い切れるのか?」と。もし仕事に対して努力する気になれない、とかやる気が起きないのであればそれはその仕事が自分に向いていないか、職場や働き方が自分に合っていないからのどちらかである。

私もこれからまだ様々な困難に直面することがあると思うが、勉強をする過程で思ったことや感じたことを忘れず、乗り越えていきたいと思っている。

 

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