rk-baryoのゆるっと日記

元ニート、現アラサーサラリーマンが日常生活、ビジネス、会社、旅などについて語るブログ

デート?での失敗を機に考えたこと

久々にデート?をしてあっけなく振られた話

コロナ禍云々に関わらず、社会人になって以降久しく恋愛と疎遠になっていた私であったが、先日友人に紹介してもらった女性と会ってきた。女性と二人で会うというのが久しぶりすぎて何を話せばよいか分からないままなんとなく流れで会話を進めた。相手はそこそこ楽しんでくれていたようにも見えたが、その後連絡が途絶えてしまった。まあ、正直デートと呼べるような代物ではなかったから仕方ないのかもしれない。

正直結構ショックで2日間ぐらい落ち込んでいたのだが、その原因をあれこれと考えていると、恋愛において今の自分に足りないことがかなり見えてきたし、本質的に大事なことを見失っていたことに気が付いた。出来事としては残念の一言だったのだが、この経験から学べることは大きいと思った。

デートとはお互いに楽しむものです、というようなことが言われていることもあるが、それはお互いに好きで付き合っている状態であればこそのこと。付き合う前の1回目のデートなぞ相手の女性は自分のことなどほぼ何とも思っていないのだから、男性の方からうまくアプローチしてある程度心理的な距離を縮めなければならない。これから恋人になるかもしれない人に対してずっと敬語で丁寧に接していたら、恋人のような距離感や関係になるイメージすら持ってもらえないということだ。

真面目が良いなんて大嘘だ

真面目で優しい人が好きという女の子は多いだろう。でも周りで女をとっかえひっかえしているような男に真面目な奴なんて皆無であり、この言葉を信じて忠実に守る男たちはバカをみることになる。無論私も後者に属する。こういう残酷な事実があると、やはり女性が言うことを真面目に受け止めてはいけないのだと思う、むしろ女性はいつも嘘をついて本心とは反対のことを言っているのではないかとすら思ってしまう。

優しい人が好きというのもよくあるが、優しい人は本当にモテない。恋愛面だけではなく、仕事とかその他の日常生活においても優しい人は常に都合よく搾取される対象となることが多く、嘆かわしい限りである。むしろ、真面目に不真面目になることが大事なのではないだろうか。

人間は強欲な生き物だと痛感

少し内容の方向性が変わるが、この出来事を機に自分自身を改めて見つめ直し、本当に人間というのは欲深い生き物だと痛感している。

私自身、数年前までは仕事とか自分の生活をどうしていくかということで頭がいっぱいで、恋愛とか結婚とかを考える余裕などなかった。自分自身の管理もままならないのに他人の人生を管理するなどもってのほかだと思っていたし、だからせめて自分が何とかこの世の中を生き抜いて慎ましく生活できればそれで人生万々歳だと思っていた。

しかし、転職して少し環境が安定して自分自身に余裕が出てくると、今度は恋愛とか結婚とかその方面について考えたりすることが多くなってくる。元来、結婚願望がないことは今も変わりないが、もし良い相手がいたら・・、とかせめてパートナーぐらいは欲しいなとか、そうしたことをふとした瞬間思ってしまう自分自身が卑しく醜く感じることがある。本来何も後ろめたいことはないはずなのだが、ちょっと前の自分のようにもっと質素に、他人は関係なく自分が生きていくことそのものに対してもっと喜びを感じられるようになりたいと思うし、全てを手に入れて幸せになろうなんておこがましいとすら思ってしまう。

「二兎を追う者は一兎をも得ず」とはよく言ったものだが、今現在健康で生活できて定期的に仕事ができていて収入があり、質素ではあるけど安定して生活できているということにはもっと感謝しなければならないと思う。人間は何かを手に入れるともっともっといろいろと手に入れたくなってしまうのが本能なのだろうが、そこは欲張ってはいけないと思う。慎ましく健康的に生きられればそれでいい、この原点は忘れずにこれからも生活してきたいものだ。

 

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【お題】今年学びたいこと

基本情報技術者試験

5月以降の試験に向けて今現在勉強を進行中ではあるが、IT業界で働き始めて数年経過し、ようやく基本の基本と言われる基本情報試験を取得しようと考えている。システムエンジニアとして就職する場合、本来であれば学生の頃に取得しておきたいぐらいの資格ではあるが、ようやく重い腰を上げて2カ月ほど前からコツコツと勉強をし始めたという感じである。

今まで3回ぐらい勉強しようとして挫折してということを繰り返してきた。その度に、資格試験には意味がないとかこの資格はあまり役に立たないから必要ないなど、自分に都合の良い理由を並べて勉強することを放棄してきた。しかし、やはり何事も基本に忠実に従うということは非常に大切であると思い、ようやく取得するために本気で勉強しはじめた。いつまでも逃げているわけにはいかない。

ニューノーマルでの人間関係の構築の仕方

ニューノーマル」とは、コロナ禍で人と人とが容易に対面できなくなった現在の状況での過ごし方や生活様式を表す、英語圏で最近よく聞くようになった言葉である。

今年の1月初旬をピークに新規感染者や緩やかに減少してきたが、3月中旬から再度ぶり返し気味であり、やはりコロナ禍での生活様式がしばらく継続しそうな雰囲気があるし、ワクチンが普及して多くの人が集団免疫を獲得したとしても、全ての事柄が完全に以前のように戻ることはないだろう。そう考えると、このようなニューノーマルな時代においてどうやって新しく出会う人と仲良くなっていくかとか、既にある人脈を絶やさずに活かし続けることができるかということをある程度真剣に考える必要があるだろう。

既に自分なりに方法論が確立されている人は問題ないかもしれないが、私の場合は人間関係も希薄なため、たまにzoomやラインで友人と会話すること以外にコミュニケーションをとることが無くなってしまった。また、新しく友達になったり恋人になったりする人に対してどのようにアプローチしていけば良いのか悩んでしまうことが多い。

昨年はその問題に対してあまり真剣に向き合うことができなかったので、今年はもう少し既存の友人との付き合い方や恋人との付き合い方、新しく知り合う人たちとどのように適切な距離感を保つのかを考えていけたら良いと思っている。

体のケアについて

家に居ることが長くなると体がなまってしまう人が大半だと思うが、私はその逆で家の中に色々な筋トレ器具を購入した結果、高強度のトレーニングを行う頻度が増えて関節や腱を痛めてしまうことが増えてしまった。

今まではトレーニング前のストレッチをほとんどやることがなかったが、昨年多くの箇所を痛めたりして満足なトレーニングができなかった経験から、動かす部位についてしっかりと事前に動的ストレッチを行うようにしている。

今年も健康第一を最優先の目標として掲げ、自分の体の疲労度や関節の摩耗度などを見極めて自分の体と対話しながら、あくまで健康的にトレーニングを継続することを目標にしたい。

 

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スマホだけではなくPC操作の能力が必要な理由

スマホの凄いところ

「若者にパソコンが必要な理由」という記事を読んだ。

togetter.com

現代におけるスマートフォンの台頭は目覚ましく、将来的にPCに取って代わる存在となる可能性も感じさせる存在である。具体的には、PCと同様にインターネットが使えることはもちろん、文書作成もできたり、フリップ入力をマスターすればPCタイピングにも劣らない文字入力スピードが得られたりもするので、機能的には十分PCに対抗できる存在となっていると言っても良いだろう。

ホリエモンをはじめとする一部の実業家の人たちも、スマホ一つ持っていれば世界中どこにいても仕事ができると言っているし、実際にスマホの持つ機能をフル活用すればリモートで出来る仕事はほぼ遂行することができそうだと予想できる。時代の流れは想像以上に速く進んでいると感じる。

それでもPCが必要な理由

このようにスマホの技術革新が進む現代においても今のところPCの存在が廃れる気配はまだないし、多くの企業や組織でもPCなしで業務を遂行する段階には達していない。この事実は、現時点でスマホがPCを完全に代替する存在となることが不可能であることの何よりの証拠である。これには大きく2点ほど理由があると考える。

画面が小さく見づらい

PCとスマホを見比べた時にまず大きな違いとして、デバイスの大きさがある。PCは画面が大きい分文字も大きく見やすいのだが、スマホは持ち運べるものなのでデバイスも画面も小さく、当然表示される文字も小さくなるので文字を読むのがかなりストレスになる。個人的にもスマホで開くExcelとかPowerPointの資料は文字が小さく、ちょっと確認程度に見るぐらいならともかく、じっくり見ながら内容を吟味したり構成を考えたりする作業には向いていないと思う。

周辺機器の充実度の違い

私はあまりスマホで作業することがないので最近のスマホ情勢には疎いのだが、PCに接続できる機器とスマホに接続できる機器のバリエーションが圧倒的に違うことぐらいはなんとなく分かる。PCは古き良きVGAケーブルやHDMIケーブルなどを駆使してマルチディスプレイにして画面分割することもできるし、キーボードやマウスなどのユーザインターフェースを別部品として接続することもできる。またそれらのラインナップも豊富であり選択に困ることはほぼないと言える。

対してスマートフォンでは、キーボードやマウスはPCと似たように外部機器と接続することができるかもしれないが、マルチディスプレイは画面解像度などの問題もあり、スマホをメインに複数のディスプレイに分割するということが可能かどうか分からない。そもそもそれをやるのであればPCを使うのと変わらないのでは?という話になってしまうような気もする。

このように、メインのデバイスに接続できる機器のバリエーションの豊富さやマルチディスプレイの観点などから、PCとスマホでは現状圧倒的にPCの方が使い勝手が良いと思う。

PCが無くなる時代が来るかもしれない

現状ではなんだかんだでPCの方が様々な作業に向いているのは間違いないと思うが、あと5年もすればこの現状は大きく変わっているかもしれない。今の大学生でも卒論をスマホで書いてくる人もいるらしいし、今後は文書作成だけではなくアプリの制作やメールの管理なども全てスマホが代替する日がやってくるかもしれない。PCを使って育ってきた世代にとってそれはかなり難しい変化への対応となりそうだが、近未来にあり得るかもしれないと思いながらこの記事を眺めていた。

 

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手で書いて覚えることの重要性

最近また資格の勉強をしているのだが、勉強する中で気付いたことがある。それは、見たり読んだりするだけではなく、実際にペンで文字を書くと内容を覚えやすいということである。当たり前のことだと思われるかもしれないが、一部の天才を除く我々凡人にとって手で書いて覚えるというのはとても良い勉強法だと思う。

自分に合った勉強方法を模索していた

私が高校生の頃、受験勉強をを共に戦う仲間に一人とても頭のいい友人がいたのだが、彼の勉強法といえば世界史も英語も数学にしても、教科書や問題集を開いて眺めているだけというものであった。そして彼は毎回テストや模擬試験で高得点をたたき出すので、私も彼をまねてテキストを眺めて覚えようと努めた。しかし、結果として成績が向上することはなく思ったような結果が得られなかった。自分では眺めるだけで頭の中に情報を叩き込んでいたイメージだったが、いざテストで似たような問題が出てくると、「あれ?これは見たことある単語だけど何だっけ?」という状態に陥ってしまう。こうなってしまうということは、テキストを眺めるだけでは内容を自分なりに理解できないということの何よりの証拠である。このことに気付かずに過ごした高校3年間の勉強成績は残念なものだったし、目標の大学へ進学することもできなかった。今振り返ると、他人の勉強方法が自分にもあっているとは限らないということをよく表した経験だと思う。

私は大学を経て今になるまで自分に合った勉強方法を確立することができずにいた。眺めても眺めても頭に入っているようで実際は右から左に抜けて行っているようだったし、テストで問題が出てくると肝心な部分を思い出せないことが多かった。しかし、社会人になって数年経った最近になって色々な資格の受験勉強をする過程で、ようやく自分に合った勉強方法が分かってきたような気がしている。それこそが、とにかく書いて覚えるということだ。

物は試しでやってみるのも一興

学生の頃からペンで文字を書くことは嫌いだった。パソコンでタイピングして文書が作成できる時代になぜわざわざ手書きでノートを作るのか、という言い訳をしてペンで文字を書くことを放棄してきた。とにかく文字を書くことが面倒だった。だが、誰かの本で文字を書くことで記憶が定着するという内容を読み、モノは試しと実践してみることにした。テキストの内容を自分なりの言葉で要約したり、書きながら内容を想像する過程でタイピング入力やただ文字を眺めているだけでは得られないような理解度の習熟があるような気がした。面倒だけれども、しっかり言葉と単語の意味を理解するために書くことが必要だと実感することができた。

そのおかげかどうか分からないが、昨年は2つの資格を取得することができたし、今勉強している内容も書きながら覚えることで自分なりにまとめたノートができて、分かりやすくなっているように感じる。手で書くことは正直面倒で地道な作業ではあるが、大して頭の良くない我々のような凡人にとっては良い勉強法だと思ったし、その苦労を惜しまなければある程度の理解度と結果につながって来るのかもしれないと思っている。皆様にも一つの勉強方法として参考にしていただけると幸いだ。

 

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わきまえる、わきまえないの論争

約1カ月ほど前に森会長(当時)が女性差別発言をしたことにより、「#わきまえる」「#わきまえない女」などのハッシュタグで自分の意見を主張する人が出てきている。本日の朝日新聞朝刊でこの話題に触れており、読んで色々と思うことがあったので私なりに感想を述べてみたいと思う。

基本的に本音は抑えず主張すべし

森前会長の発言を皮切りに、様々な人がわきまえず意見をすることが大切だと主張するようになったが、私も基本的にはこの意見に賛成である。立場の弱い人が苦しい状況を泣き寝入りする悲しい状況を変えるには、その立場の人たちが自分の意見を伝え、どうして欲しいのかを言わなければ状況が好転することはない。黙っていれば、沈黙=同意と受け取られても文句は言えないだろう。

「わきまえない」とは、その場の空気や雰囲気をあまり気にせずに自分の意見を貫いて主張すべきということである。学生時代にはスクールカーストなどもあり、グループのリーダー的な人が言うことに逆らって自分の意見を主張することは容易ではないだろう。また、サラリーマンであれば上司に向かって物申すというのは一昔前であれば憚られることだったと思う。それでも、ここ最近は個人の自由や権利を重んじる思想が多くの人に理解されるようになり、昔よりは意見を言いやすい環境になってきていると思う。

私の経験では、自分が思っていることは他にも誰かしら思っているという場合は多く、無言の同調圧力に屈せずに自分の考えを明確に言葉にして主張するというスキルはますます重要になっていると感じる。

わきまえないことは必ずしも正ではない

ここまで「わきまえない」ことが大切だと述べてきたが、一方で状況によって必ずしも「わきまえない」ことが正しいとは限らないのが厄介なところである。

人は基本的に組織の中で生きている。もちろん個人の存在や意見は尊重されるべきであるが、それが組織全体の目的や方針と合わなければ個人の意見は破棄され、組織として別の意見が採用されることが多い。個人として意見が異なるのはもちろん構わないと思うが、それが嫌であれば自分の意見と合う別の組織に行ってくれ、というのが組織としての本音だろう。従業員を1万人抱える企業のうち社員一人が何か声を上げたところで、他に同様のことを考えている従業員が少なければ少数意見は黙殺される。それでも組織と反対の意見を貫き通せば、組織にとって目障りな存在として映り、いずれは追放されてしまう。

組織に対して歯向かうことは、少なくとも日本ではとてもリスクが大きいので、声を上げることで自分が組織から追い出されるぐらいの覚悟を持つ必要があるかもしれない。それが嫌であれば時には我慢して「わきまえる」という行為も必要になるだろう。その匙加減は冷静に見極める必要があると思うのだ。

できるだけ大勢で組織に対抗する

声を上げることは確かに大切だが、一人の力では限界がある。だから、何か意見を言ったり物申したりしたいのであれば、同じように考えている仲間を探してできるだけ大人数で組織に対抗することが必要になる。デモ行進でもストライキでもより大人数で行うことで相手も危機感を抱くだろうし、その段階でようやく改革案を具体的に考えるようになることだろう。

 

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理不尽な学校の校則

学校の細かい校則

小学校までは細かい校則が規定されていなかったと記憶しているが、中学から高校にかけてやたら意味不明な校則が増えたような気がしている。先日も髪色の問題で不登校に追い込まれた生徒のニュースがあったが、なぜか中学や高校における校則はかなり厳しく理不尽なものが多いと今になっても思う。

中学では服装がジャージでの生活が基本だったが、上履きの色やジャージの着方から身に付けるものまで細かくチェックされ、少しでも違反していたら学年で最も声の大きい体育教師に説教をされることがお決まりになっていた。そして、校則とは関係ないがとにかく仲間との協力意識や絆を深めることが大切だ!という風に叩き込まれて見事に洗脳されてしまった。これは大きな罠だった。少し愚痴らせてほしいぐらいだ。

高校生になると、先ほど言及した髪色のチェックが特に厳しくなった。中学でも髪色を派手に染めてくる人はいたのだが、それはあからさまなので注意が入るし、それよりも他の部分で注意される人が圧倒的に多かった。私が高校生の頃は進学校であったこともありぶっ飛んだ髪色にしてくる人はほぼいなかったのだが、同級生(女子)で地毛が赤色寄りの茶髪という人がいた。その人は抜き打ちの服装チェックで毎度のように職員室に呼び出しを食らっており、見ていて何とも言えない気の毒な気持ちになった。その人は染めているわけでなく地毛で茶髪ということだったので何も悪くない。それで「黒髪に染めてこい」と言われるのは全く本末転倒で理不尽なことだったと思う。

何が良くて何が悪いのかを考えてみる

大学生になると校則はほぼ存在しなくなる。高校生まで厳格に細部まで管理されていたのがウソのように自由になる。そして社会人になると男は黒髪、女は黒髪か薄めの茶髪というのが暗黙の了解になる。この一連の流れは一体何なんだろうか。例えば社会人になって茶髪にしても良いのであれば、高校でも中学でも茶髪にして何も問題ないのではないか。化粧だって同様だと思うし、髪色とか服装以前にもっと根本の部分で教育しなければいけない大切なことがあるのではないだろうか。

確かに髪色が金髪とかで派手だと第一印象はあまりよくないように見えるかもしれない。社会人であればなおさらでその点については否定しないが、それこそが単なる先入観なのかもしれないとも思う。明確になぜ金髪がダメなのかを説明しろ、と言われたら、単に「印象が悪いから」としか答えられず、なぜ金髪だと印象が悪いのかを説明することが私にはできない。印象が悪いなんてただの個人の主観であり、明確に悪い理由が提示できなければ生徒に対してそれを強要することなどできないと思ってしまう。ルールだからと言えば理屈は通るが、なぜそのルールなのかと問われればまた答えに窮してしまうことだろう。

何が良くて何がいけないことなのかを考えるのは本当に難しいと感じる。

 

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コロナウイルスの蔓延から一年経過して

2月も中旬となり、あっという間に季節が過ぎ去っていく。気が付けばもう春が目の前に来ている状況となった。時の流れはいつでも早い。

昨年のこの時期にどのように過ごしていたか思い出すと、そこそこの不安を抱えながら生活していたような気はするが、あまり詳細には思い出せないのが正直なところだ。この一年は生活面でかなりの変化があってそれに伴うデメリットはたくさんあったがメリットも少なからずあったのではないかと思う。

良かったこと

在宅勤務で体が楽になった

これは一番大きいかもしれない。毎日の時間の大半を占めているのが仕事であり、その仕事をする環境が通勤から在宅に変わったことで、より多く睡眠時間が確保できるようになった。それまでは毎日少しずつ睡眠負債をため込んで週末に少しずつ返し、でも返しきれないような日々を送っていたので、在宅勤務中心になって睡眠が毎日しっかり確保できるようになったことは健康面で非常に大きな利点となっている。

自分に必要なものが分かるようになった

不要不急なエンターテインメントが排除される中、自分に本当に必要な娯楽や趣味が明確になった。例えばコロナ流行前までは旅行が趣味であったが、蔓延してから全く旅行に行っていない。旅行に行かないことで感じるストレスもほとんど感じないし、身の回りに神経を遣いながら旅行するぐらいであればしない方が良いとすら思ってしまう。

このように、コロナ流行前までなんとなく継続していたがその後疎遠になってしまったことが皆様にもあるのではないだろうか。本当に必要であればどんな手段を使ってでもそれを継続しようとするものであり、そこまで拘りがないのであればそれは自分には必要ないものということだろう。

家に籠って生活することに罪悪感が無くなった

旅行が好きとは言ったものの、基本的にはいつも家でゆったりしながら過ごすのが好きだった。だから、知り合いとか周りの人間が外で楽しそうに遊んでいるのを見たりすると、家に籠りっぱなしの自分に嫌気が差したり、外で遊んでいる人たちを羨ましいと思うこともたまにあった。だが、自粛期間を経てこの考え方が完全になくなった。むしろ、外に出ずに家に籠っている方が安全であるし、それだけで社会貢献につながるのだと思った。引きこもる自分を正当化する大きな動機付けになったことは間違いない。

悪かったこと

人との会話が減った

職場をはじめ外に出ることがめっきり無くなってしまったので、対面で人と会話をする機会が殆どなくなってしまった。電話やzoomでやり取りすることはあるのだが、顔が見えなかったり厳密にはリアルタイムのやり取りでないコミュニケーションのやりづらさや難しさを感じる。丸一日ほとんど他人と会話しない日もあり、そんな時は自分の声が出なくなっているのでないかと心配して無理して独り言を呟いて自分の存在を確認することもある。

なんとなく気分が前向きにならない

漠然とだが気分が前向きにならない日々が増えたような気がする。日々のニュースやメディアの報道などで入って来るのは八割以上がネガティブな内容のものであるし、一人で悶々と考えていても解決につながらない問題も多くあるのが原因なのだろうか。そんな時、職場の人とちょっと会話をするとなぜがかなり気が楽になったりすることもあり、やはり会話することは自分にも必要だと感じたこともある。

感染の恐怖に対するストレス

何をするにも今まで全く気にも留めなったことに気を遣わなければいけないストレスを感じる。前述の旅行にしてもそうだが、触るもの全てに対してウイルスの存在を意識しなければいけない世の中とは一体何なのだろうか。そんなことに気を取られていたら楽しい気分で旅行などとてもできない。手を洗いましょうとかうがいをきっちりしましょうとか、子供の頃から口ずっぱく教えられてきて潜在意識の中に刷り込まれてはいたが、正直大人になってからこれほどまでに神経質になるとは想像していなかった。手洗いや消毒をする度に私のHPがどんどん削られていく気がしてならない。

前向きに生きたい

改めて、なかなか明るい未来が見えない日が続いている。生活するうえで後ろ向きになってしまうことも多いが、気持ちだけは少しでも前を向いて明るい側面を見出せるように生活していきたいと思っている。消毒や手洗いはストレスではあるが、その分他の病気にもかかりにくくなるかもしれないという希望も持ちつつ、気持ちを新たに生活していきたいと思っている。

お題「#この1年の変化

 

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森会長の問題発言について思ったこと

東京五輪組織委員会の森会長が女性差別発言をしたことにより、ここ数日ネット界隈が大炎上している。発言の具体的な内容としては「女性が多い会議は時間がかかる」というものであり、男女平等やジェンダーフリーが重視される昨今の世の中を踏まえれば批判や炎上につながるのは必至の発言である。

この発言を単純な「老害」と片付けてしまえばある意味簡単なのかもしれないが、本当にただそれだけで片付けてしまって良いのだろうか。私は、この発言やそれに伴う周囲の批判や意見を見て思ったことがいくつかあるし、今後教訓にしなければならないことがあると感じている。

思っていても口に出してはいけないことがある

誰しも本音を持っているし、それを語ってスッキリしたい気持ちを持っている。しかし、それが許されるのはせいぜい小学校低学年ぐらいまでで、中学生にもなれば本音と建前をわきまえて他者とコミュニケーションが取れるようにならなければならない。それは、周囲と協調、協力して生きていくために人間という生き物が身に付けた能力であり、他の動物にはない能力といえるだろう。もちろん、本音を隠しすぎて自分がやりたいことや言いたいことが全く言えないのはストレスになるので、ある程度本音をぶつけることも時には大切である。しかし、心の中で思ったことを憚りもせず周りにぶちまけるのは人間らしさに欠けていると言わざるを得ない。

思いを持つことは個人の自由であり、何を考えているかなど本人以外に分かることはまずありえない。だからどんな思いや考えを持っていようとそれは個人の自由であるが、それをどう表現して相手に伝えるかという側面まで考えてから発言することこそが、人間同士のコミュニケーションの本質である。うっかり本音を口走ってしまうことは誰にでもあると思うが、その言葉を聞いた他者どのような思いを抱くのか、一呼吸おいて想像してから発言するというのが大切なのである。年齢を重ねるごとに感情を制御するのが難しくなるというが、絶対にこのことは忘れてはならないと改めて思い直した。

言葉の重みは人をつくる

森会長からすれば、思わず自分の本音が口から漏れてしまったという形であったのだろう。この発言が出たことにより、森会長自身が女性に対して少なくとも何らかの偏見を持っていることが明らかになってしまった。森会長が実際にどのように思っているのかはさておき、このような発言がなければ本音で女性を差別していたとしてもそれが周りに伝わることはなく、悪い印象につながることは避けられた。しかし、本音が漏れたこの言葉一つでその人間の醜さが表に出てきて、一気に悪い印象になってしまう。

特に有名人や政治家は思っていることがふと言葉として漏れてしまうだけで、自分のキャリアや人生そのものに対しても悪影響を及ぼす程のものになる。人間という動物にとってそれだけ言葉というのは重要であり、言葉一つで人の命を救うこともできるが、逆に自分や誰かの人生を棒に振ってしまうこともある。

自分が普段使っている言葉や発言を振り返り、悪い方向に働いていないかどうかさらに注意しながら発言する必要があると、今回の一件を見ながら思うのである。

 

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男女間の友情を成立させるのは難しい

人類が生きる上で永遠のテーマになりそうなものの一つに「男女間の友情は存在するのか」というものがある。私はこの問題についてずっと答えは「ノー」だと思っていたのだが、そう簡単に言い切れるものでもないと最近思い直し始めた。もちろん、今でも男女間の友情は限りなくゼロに等しいと考えているが、それでも完全なゼロではないかもしれないと思うようになったということである。ある特定の条件や関係下でのみならば真の意味での男女の友情は存在するのかもしれないということだ。

異性愛でない場合

まず両者が同性愛者だった場合、男女間の友情はあり得ると思う。異性愛の男が男を抱くことができないように、同性愛の男は女を抱こうとは思わないし、気持ち悪いとすら感じるのでないだろうか。異性愛の身からは信じられないような感覚かもしれないが、多分同性愛者はこのように感じているのではないだろうか。

そのような男は女に対して極めて自然に振る舞うことができるだろうし、女もそんな男を信頼して友情を育むことが可能になる。どちらか片方が異性愛者であれば相手に恋愛感情を持ってしまうのは必至であるので、やはり両者とも同性愛でなければ真の意味での友情は生まれないと思う。

関係を持った後であれば友情はあり得る

次にお互いに関係を持った後というのがあると思う。男は基本的に性欲を抜きにして女を見ることはできない。それは男がダメな生きものだからという訳ではなく、生物としての本能なのでどうしようもないことなのである。だから、魅力的な女に対して友達になりたいなどとは微塵も考えておらず、自分のパートナーにしたいと考えるのであり、そこに友情などという概念は全くない。

私は男なので女がどう考えているのか正確なところは分からないが、男女の友情はあり得ると豪語する女ほど上記のような男視点をあまり持っていないような気がする。そして言い寄られたら「そんなつもりじゃなかった」となるお決まりのパターン。断るのは構わないが、男とはそういう生き物なのだと理解した上で接してほしいと思う。

ただ、お互いにパートナーとして認め合った後であれば、男女関係は恋から愛になりやがて友情のような形になっていくのではないかと思う。結婚〇十数年とかの夫婦を見ると良く分かるが、恋愛初期のようなラブラブを維持している人たちはゼロではないが、極めて稀である。それは日々一緒に過ごす中で関係が友情方面にシフトしているということを示しているのでないだろうか。

恋愛も素晴らしいと思うが、その恋愛をした人と真の友情関係を結んで生活していけるのはこの上なく幸せなことだと思う。本当の意味での男女の友情は夫婦関係やそれに近しい関係になって数年してやっと手に入るぐらい貴重でレアなものなのではないだろうか。

友情があると豪語する人たちの思う友情は薄っぺらい

それでも、「おれは妻がいるけど女友達とも仲が良い」とか「あたしはなんでも相談できる男友達がいる」といって男女間の友情を肯定したがる人もいる。彼らの言うその友達が友情でないとまでは言わないが、それは果たして本当の友情なのだろうか。その人が他の誰かと一緒になったりしたとき、心の底から喜べるのか。損得勘定なしに彼らの存在を全面で受け入れ、心から祝福することができるのか。少しお互いの状況が変わって自分に不利益が出るようなことがあれば、すぐに音信不通になってしまうようなことはないだろうか。

上記のような考えを抜きにして語る友情は薄っぺらく脆いものであり、ちょっとした痴情のもつれで簡単に壊れてしまうものだと思う。いくら多くの友達がいるとしても、一つ一つが薄っぺらいのであればそれは少々寂しいものである。

 

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罰則を設けることも必要かもしれないけれど

特措法の改正

コロナウイルスによって特措法などの改正が行われている。

www.nikkei.com

 

感染者が入院を拒否したり飲食店が時短要請に従わない場合は命令することができ、それでも従わなければ罰金などの刑事罰を科すことが可能になるという。

感染が拡大する状況であり、私権を制限することもある程度やむを得ない状況であるとは思うが、この話題についてあまりスッキリしない気持ちになるのはなぜだろう。

罰則と補償がセットのロックダウン

感染拡大期、よくこんな声が聴かれた。「緊急事態宣言出しても強制力がないのは意味がない」「短期間ロックダウンして一気に封じ込めろ」「夏ごろにさっさと特措法改正しとくんだったな」。

去年の春ごろからよく聞くようになった言葉に「ロックダウン」がある。訳すと街封鎖というような意味らしい。自粛を促して判断を個々人に任せるのではなく、命令して休んでもらう代わりに補償もするというのが欧米が行っていたロックダウンである。

簡単に言うと、「補償はするから休め」ということであるので分かりやすい。個人を重んじる欧米諸国で自粛というあいまいな要請に従う人が多くいるとは思えず、命令によって罰則と補償を設ける必要があるということだ。

罰則は必要かもしれないが、補償もして欲しい

現在も緊急事態宣言真っ只中ではあるが、正直あまり実感がない。ほぼ毎日ずっと家に居るからかもしれないが、どうやら外出している人もそれなりにいるみたいだし、昨年の春みたいに全国民が一致団結して外出自粛するということはもうできないのだろうと感じる。お願いレベルで対応できないのであれば法律を改正して強制力を持たせる必要があるというのも一理あると思う。

だがお店を経営している人達はそんなことは言っていられない。毎日の売上が生活の命綱になっているだろうし、お客が来なければ売上が上がらず生活していくことができない。自粛に応じた事業者に対しては支援するという内容もあるが、厳密にいうとそれは補償とは異なり、補償と比較すると心もとない。やはり補償が求められるのは当然のことだ。

終わりにすこし

あとは単純にこの法律を改正するのが遅すぎたということ。もう一年ぐらい経過しているのに、最近やっと改正に踏み切ったということである。もっと早く議論して改正することはできたと思う。

政府は我々一般市民が想像もできないぐらい膨大な課題を抱えていて、捌いていくのにも時間がかかるのだろう。だから我々は政府に対してそこまで偉そうなことは言えないのだが、もう少し準備できることとかがいくつかあったのではないかとも思う。

経済と上級国民を大切にする姿勢も良いが、その他大勢の国民の声にももっと耳を傾けてほしいと感じる。でなければ投票したい政党が無くなってしまう。

 

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