貰ったお年玉の行方
子供の頃は親とか親戚からもらうお年玉を毎年正月にとても楽しみにしていた。今すぐに買いたいものがなかった時でも、お年玉の包装紙を見ると何かご褒美を貰えたような気がして嬉しい気持ちになったことをよく覚えている。また、弟よりも少し多い額が入っているのを見ると、兄貴でよかったなと思うこともあった。
そのお年玉であるが、貰った後にいつも親に預けるのが通例となっており、その行き先は親が管理する私の将来のための貯金口座に保管されていたと記憶している。もちろん、お年玉をもらった時に欲しい物があったら買うこともあったが、たいていの場合は貯金口座に移動されてしまうことが多かったと思う。他の家庭でもそうなのかはわからないが、今思うとこれは非常に勿体ないことをしていたと感じてしまう。
大人になると薄れる金額の価値
中学生の頃はともかく、小学生くらいの時は100円玉を拾ったりもらったりするだけでとても幸せな気持ちになった。100円で缶コーヒーや駄菓子を買うことができると思うとワクワクしたし、友達と駄菓子屋に行ったりすることも一つの楽しみであった。
だが、中学や高校に上がると100円では欲しいものが買えなくなってきたり、やりたいことが何一つできない状況になる。部活の用品が買えない、レストランでの食事代が出せない、電車で2駅以上の移動ができない、など行動範囲が広がるにつれより多くのお金が必要であることに気付く。
その時でも100円ではなく、1,000円であればせめてもの救いにはなったし、1,000円あれば色々なことができたように思う。それでも、大学、社会人と年齢を重ねると1,000円単位でも物足りなくなっていき、万単位のお金を持ったり使ったりすることが普通になっていく。小学生の頃、あれだけ喜んで使った100円が大人になっていくにつれどんどん無価値になっていくのは、冷静に考えるとちょっと寂しい気持ちになってしまうものである。
今感じる価値を重視してお年玉を使うべき
巷では今も昔も変わらず、将来のための貯金しましょうなどということがよく言われるし、それが美徳とされる風潮も未だに残っているように思う。もちろん、大人になってお金で苦労したり生活を破綻させることがないように、子供の頃からある程度の貯金習慣を身に付けておくことはとても大切だと思う。事実、私自身もこの習慣を身に付けておいたからこそ今の人生が救われている側面はある。
しかし、子供の頃にもらったお年玉の多くは将来のための貯金しましょう、などという考えはなかなか愚かなものだと思う。お年玉を毎年全額貯金していってそれを成人まで継続したとしても、たまっても50万円ぐらいなのでないだろうか。無論、私の場合はそれよりはるかに少なかった。せいぜい給料の1~2ヶ月分ぐらいの額にしかならず、大人になったら生活費に紛れてなくなってしまうような額であり、お年玉をもらった当時に感じた嬉しさやワクワクといった特別な感情などあったものではない。
そのように他のお金と一緒にいつの間にかなくなってしまうぐらいであれば、大人になる前に自分の買いたいものや価値があると感じることに惜しまずお年玉を使うべきだと思う。例えそれが大人の目から見てどんなに無価値に見えても、子供の意志は尊重すべきだろう。価値があるかどうかを決めるのは子供自身である。
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