rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

わたしのアウトプット方法(タグ)

初めてタグをつけた内容でのブログとなる。

ブログと日記の違い

アウトプット方法と聞いてまず思い浮かぶのはブログそのものである。ブログというのは他の人に読んでもらうからこそ意味があるものであり、自分の心の中だけで留めておきたい内容であれば日記という形で残せば十分である。日記もブログも後で自分で読み返し、その当時自分がどのようなことを考えていたかとか、どんな感情だったかなどをなんとなく思い出すことができるのが共通点である。

ただ、ブログであればその考えを自分以外の誰かに伝え、内容によってはその読み手の考えや行動を変えることにつながる可能性もあるのが魅力である。日記であれば、ブログでは他人には言い辛い本音などを書き留め自分の心の中を整理するという意味が大きいと思う。単純に他の人に向けて公開するからブログの方がメリットが大きいというものではなく、ブログと日記はそもそもの内容や書く目的が異なるため、臨機応変に双方を使い分けていくというのが良い方法だと私は思う。

身に付けた知識を実践することの大切さ

私はSEという仕事柄、少し前からプログラミングの勉強を行っている。当初はプログラミングをどのように勉強すれば良いか全く分からなかったので、ひとまずはProgateというウェブ学習サイトで勉強を続けていた。このサイトでは、レッスンやコースをいくつか受けてから練習問題や演習を行い、実際にレッスンで受けた内容が身についているかどうかを演習で腕試しするという流れで学習が進んでいく。

学習を進める中で分かったことは、実際に自分で考えて手を動かすことの大切さである。レッスンを進めている最中は自分なりにほぼ完ぺきに理解できたと感じることも多かったのだが、いざ演習問題になると全く手が動かなくなってしまい、どこから何に手を付ければ良いのか分からなくなってしまうことが多くあった。自分ではレッスン内容を理解できたつもりでいたが、実際に空の状態から作るイメージが湧かなったということはしっかり理解できていなかったということである。

理論や知識を座学で学んで理解することはもちろん必要で重要なことではあるが、もっと大事なことはそれを自分なりに多少アレンジしてアウトプットできるということだと思った。座学で理論を学んでおしまいというのが悪いわけではない。文学や会計学などの研究においてはほとんどアウトプットを必要としない場合もあり、理論で武装して論文を書いていくというのもよくあることだ。だが、もし何かしらのアウトプットができる分野であるならば、知識を吸収しただけでその内容を理解できたと感じてしまうのはかなり危険な考え方になることもある。だから、何かを吸収したらため込みすぎないうちに定期的にアウトプットするという作業が必要になると思う。

 

adios

痛みを伴わずに恩恵を受けるのは難しい

在宅勤務中心の生活になってから余計なことを考える時間が増えてしまい、なんとなく心につっかえているモヤモヤした気持ちを言葉にしてスッキリさせたいと思っている。無論、モヤモヤしていることなんて山のようにあるのだが、少し考えて言語化できそうなものからどんどんブログに文章として残していきたいと考えている。

冬季賞与支給の見送り疑惑を耳にして思ったこと

実は会社からの夏季賞与支給のタイミングでちらっと聞いていたのだが、夏季賞与は通常通り支給されるが冬季賞与はもしかすると支給されないかもしれない、ということが噂されていた。本来賞与というのは会社の業績が良かった時に特別に支給されるものであり、通常は支給されなくて当然のものである。しかし、毎年ほぼ必ず賞与が支給されることから我々はそれに慣れてしまい、支給されるのが当たり前だと思うようになってしまった。賞与が支給されないともちろん年収の減額に直結するし、お金の使用計画も変わってくるのでサラリーマンにとっては死活問題になることもある。

一方でよく考えてみると、これはある意味で一種のギブアンドテイク的なものかもしれないと思うようになった。今年の3月以降、私の所属する会社では8割以上の社員が月8割以上の日数で在宅勤務を行うようになった。そして会社の顧客企業もまた在宅勤務が増えてきており、今までのようにビジネスがスムーズに進まなくなってきた点は否めない。それは会社の業績低下という形で明確に表れ、我々末端の社員の賞与の減額または返上につながってくる。その代わり、働く労働者である私たちは日々の苦しい満員電車やウザったい同僚や上司と毎日顔を合わせる必要もなくなり、在宅で睡眠時間もたっぷり確保して健康的な生活を送れるようになった(逆に生活リズムが乱れた人も一定数いると予想はできるが)。

お金を取るか時間を取るか

上記を究極の二択として考えることができるだろう。つまり、賞与(お金)をとるか、時間を取るかということである。できれば両方取りたいのが人情ではあるが、これだけの短期間で状況が急激に変化したため、やはり会社の業績が今まで通りという訳にはなかなかいかないだろう。まだ完全リモートで仕事を全く滞りなく進めていくには少し時間がかかると個人的な感覚でも思う。現段階でそれができる会社も存在するだろうが、そういう会社はもう5年以上前から虎視眈々と準備を進めてきた会社であり、この期間の変化にもそれなりに上手く対応して業績も維持しているのだと思う。

出勤の手間が減って時間が増える分、年収は多少減額されるというのは仕方のないことだと思う。やはりどこかである程度楽をしている分、別の箇所で必ずしわ寄せが出てくるということは理解して受け入れなければならないと感じる。

 

adios

一度身に付けたスキルは簡単に忘れないのであれば

小さい頃に習ったことは不思議と忘れない謎

私は大人になって不思議に思うことが一つある。それは、今現在水泳を習っていたり頻繁に水の中を泳ぐ機会があるわけではないのに、たまにプールに行って泳ぐと普通に泳ぐことができるということである。子供の頃にスイミングスクールに通っていたが、その頃からもう十数年以上経過する。年月がある程度経過したら体は泳ぐことを完全に忘れてしまいそうなものだが現実はそうでもなく、今も水の中に放り込まれて泳げと言われたらそれなりに泳ぐことができる感覚がある。同様にサッカー経験ゼロの人がノーバンリフティングを10回やれと言われたら大抵の人はできないと思うが、私はサッカークラブに所属していたことがあるので、3回ぐらいチャレンジすれば今でもほぼ間違いなくできる。サッカーから離れて数十年経つにも関わらずである。

人間の体や脳は一度記憶した体の動作をよく憶えているものだとつくづく実感する。逆に考えると、一度ある程度覚えてしまえばそのスキルは自分のものとして身に付き、少々の怠慢で喪失するものではないと思われる。おそらく、脳内に一度できた回路はそう簡単には無くならないということかもしれない。中学生の頃に必死になって覚えた英単語や洋楽の歌詞、高校生や大学生の頃にカラオケで歌いまくった曲は今でも聞けばそれなりに思い出すことができるし、歌詞もあまり忘れていないことには本当に驚く。時間をかけて何回も反復して覚えたことはしっかりと記憶に残るという人間の素晴らしい能力だと思う。

脳内回路のストックを作っておく

何事にも当てはまるが、新しいスキルを身に付けるにはそれなりの労力が必要となる。英単語を覚えることやキーボードのブラインドタッチを指で覚えることなど、体を使うことだけではなく頭を使うことでも新しい脳内の回路を作るのは簡単なことではない。今でこそ多少はマシになったが、私もプログラミングの考え方を理解するのに何回も挫折し、自分には向いていないからやめようと思った時もあった。ただ、一度でも回路を作ってしまえばそれは生涯に渡って自分の強力な武器となる。身に付けた後は常に磨き続けていなかったとしても、必要な場面で記憶を呼び出してあげればあっという間に思い出して活用でき、新規で習得していくよりはるかに短い時間や労力で済む。このように考えると、人生のなるべく早いうちにできるだけ多くのスキルを自分の体と頭の中に叩き込んで回路をたくさん作っておくことは非常に大切だと思うし、仕事において先輩や上司が若いうちになるべく勉強しておけ、と口酸っぱく言うことにも納得できる。

新しいことを始めるのに年齢は関係ないと思うが、できるだけ若いうちから始めた方が習得するのは早いだろうし、より身に付きやすいと思う。だから、自分が一番若い今この瞬間から興味のあることややりたいことに対して積極的に取り組む姿勢は大切だと感じている。

 

adios

ストレスを吹き飛ばすために筋トレをしよう

今週のお題「運動不足」

筋トレはストレスに苦しむ自分を救ってくれた

最近でこそ減ってきたが、これまで筋トレに対して批判的な考え方をする人は多かった。「スポーツ選手でもない一般人が無駄な筋肉をつけるのは無意味だ」とか「ナルシストで気持ち悪い」などの意見を耳にすることが度々あった。そして学生時代は私もそのように感じていたし基本的に筋トレは嫌いで、雨の日はその日の部活動がほぼ地味な筋トレのみで終わってしまうので、サボって帰宅することも多かった。だから筋トレに対して否定的な見方をする人の意見も分かるし、その考えもある意味では間違っていないとも思う。

しかし、社会人になって何気なく始めた筋トレは私を多くのストレスから救ってくれた。上司のパワハラや仕事のプレッシャーなど、サラリーマンになってから多くのストレスにさらされることがあったが、そんな生活の中でも筋トレをすることで多少なりともストレスから解放される瞬間があった。筋トレをしているときは余計なことを考える余力がなくなり、自分自身と徹底的に向き合うことができる。もしあの時筋トレを習慣的にやっていなかったら多分うつ病になったり、最悪の場合は自殺していたかもしれないと今になって思う。少なくとも私にとって筋トレとはただ辛く面倒なものではなく、精神的に落ち込んでいる自分を救ってくれるかけがえのない趣味である。

日常の煩わしさから逃れる時間を作るのが重要

お気づきかもしれないが、大切なのは筋トレをすることそのものではなく日常の悩みや煩わしい物事を忘れる時間を定期的に作ることである。私にとってはそれが筋トレであったというだけであり、ランニングや球技など他のエクササイズでも良いし、運動でなくても自分が時間を忘れるぐらい熱中できるものであればなんでも良いと思っている。ただ、個人的には体も健康に保つという意味で、何かしら体を適度に動かす趣味や習慣を持っておくのはとても大切だと思う。

もし、今大した趣味がないとか時間やお金がかかる趣味に後ろめたい気持ちを持っている方がいるのであれば、私からは新しい趣味に是非筋トレをオススメしたい。そして、筋トレにハマれば自重のトレーニングでは満足できなくなるので、初めからジムに通って色々な器具を使って体を動かすことを体験して欲しいと思う。それを続ける中でだんだん楽しさを見出してハマっていけば継続すればいいし、つまらなかったり自分には向いていないと感じたら退会すればいい。

全員が全員筋トレを好きになるのはもちろん不可能だと思うが、もし今現状に悩んだり生きていくのがちょっと苦しいと感じている人がいるのであれば、何も考えずにジムに行って無心で体を動かして汗を流してほしい。それだけで悩みが解消されたり軽減されるのであればこれほど美味しいことはないと思う。

 

adios

余裕がない時にこそ冷静さを忘れずにいたい

余裕のない時に人の本性が分かる

心に余裕がない時、人間は自分で思ってもいなかった行動をとったり発言をしてしまったりする。仕事で納期が迫り来る中、思うように作業が進まなかったり同僚または部下が期待した動きをしてくれなかった時、思わずキツめの口調で注意してしまう人もいる。または、家庭の煩わしさに疲れて癒しや安らぎを求めた結果、あってはならない不倫関係の泥沼に陥ってしまったり、薬物依存症になってしまったりする。当事者も頭ではそれがいけないことと分かっているのだろうが、世の中においてこれらの事象の発生は後を絶たない。本能は我々が想像している以上に正直ということなのかもしれない。

余裕がないとパフォーマンスが落ちる

だが、様々な状況でこの本能が邪魔になるときがある。それは特に自分のパフォーマンスをしっかり発揮したいときであり、仕事だったり何かの試験などでも当てはまる。冷静に焦らず一つひとつを着実に考えていけば簡単に終わるような作業や問題でも、意識が散漫になって目の前の作業から目をそらしてしまうとあっという間に頭が混乱し、自分で考えもしなかったようなミスを犯してしまうことがある。集中力が落ちると作業が捗らないというのはまさにこれが原因だと私は考えている。

特に私の場合は会社で残業などをしていると、本来ならば30分程度で終わるボリュームの作業に平気で2時間も3時間も費やしたりすることがあった。目の前の作業よりも、「今日終わらなかったらどうしよう」とか「早く終わらせてさっさと寝ないと明日起きられねぇ」とかそんなことばかり考えながら作業をしているのだから、効率が落ちたりミスが増えるのも無理はないだろう。無論、全ての人がこのように焦ってしまうわけではないだろうが、それなりに追い詰められた状況において、人は通常通りのパフォーマンスすらままならないということを痛感した。

パフォーマンスのブレを減らすために

それでも私は、どのような状況でも自分のパフォーマンスの70%以上は出せるようになりたいと思っている。テストで残り時間が3分しかないのに200文字以上の記述問題が3問残っているという絶望的な状況で諦めることは簡単だ。しかし、仕事のように何が何でもそれなりに結果を出さなければならない場合、諦めることしかしてこなかった人間はそこでもうひと踏ん張りできない。そのひと踏ん張りがあれば部分点がもらえて辛うじて合格ラインに届いたかもしれないし、少なくともマイナスになることはなかったはずだ。

どんな状況においてもきっちりと最後まで考え抜く力や、一つ一つの事象を丁寧に確認することができる能力こそ、”今を大切にする”ということであり、人生における多くの場面で役立つソフトスキルの一つなのかもしれないと最近になって思う。個人的にはプレッシャーのかかる状況に置かれるのを好むわけでもないし、単純な精神論で人を育てるやり方にも賛同はできない。だが、もし今後自分がプレッシャーのかかる余裕のない状況に置かれたら、むしろ自分の能力を伸ばすチャンスという意識を持てるぐらいになれば精神的に一歩成長できると思っている。

 

adios

コロナ禍で改めて結婚式の存在意義について考えた

イベントが中止される世の中

ご存知の通り、コロナ禍において私たちの生活は短期間に大きな変化を遂げた。仕事では在宅勤務ができる人は在宅勤務が推奨されるようになり、大規模なライブや演劇などをはじめとするとするイベントは軒並み中止かオンライン配信されるようになった。日常生活においても、これまでほとんど意識することがなかった、人との距離感や会話時の飛沫に神経を削られる日々が続いている。まさに新型コロ助は人々の意識や価値観を根底から変えつつある。

そんな状況で3月以降、結婚式や葬式をキャンセルしたりというゴタゴタが起こっている。コロナ禍においては人が密閉された空間に多く密集するような状況が必然的に避けられてしまうため、このような冠婚葬祭という大切なライフイベントも例外なくその煽りを受けてしまう。そこでそもそも冠婚葬祭をこれまで通り行う必要はあるのかどうかということを改めて考える人も出てきている。中には結婚式や披露宴をオンラインで行うカップルも一定数いるという旨のニュースもしばしば目にするようになった。

結婚式の必要性について友人と話をして思ったこと

先日友人と話す機会があり、そもそも結婚式は必要なのかどうかという話題について軽く議論となった。友人は既に結婚しており、2年ほど前にそこそこ大掛かりな結婚式を挙げていたこともあり、結婚式はできればやった方が良いという意見を持っていた。それは、二人の記念になるからというだけではなく、お世話になった人たちへの恩返しや自分たちなりのこれからへの覚悟やけじめをつけるために必要だ、という考えが根底にあるという。

私は結婚していないし、まだ結婚する予定もないのでなかなか想像しづらいのだが、このような考えは毛頭自分の考えの中にはなかった。お金もかかるし思い出作り程度のイベントであるならば、コロナ禍である昨今においてなおさら結婚式など不要ではないかと思っていた私は、自分なりの信念をしっかり持った友人に対して何も言い返せなかった。やはり経験者の言葉には重みがあると思ったし、経験していない立場の自分が言い返せることなど何もなかった。

彼の意見もやはり正しいと思うし、結局は個人個人の考え方に終着するものだと思った。結婚は一人ではできないので二人で話し合って決めていくべきだと私も思うし、その中で出た結論が二人なりの価値観を生み出していくのだろう。

自分が大切にしたいこと基準で動く

結婚式やその他の冠婚葬祭のみならず、コロナ禍となり改めてその存在意義が問われているイベントや物事が増えている。その中には、強制的に無くしてみたら本当は不要だったものもあるだろうし、やっぱり必要不可欠だったというものもあるはずだ。それは考えなくてもひとり一人が日々生活する中で肌で感じていることだろう。生きる上で自分が本当に大切にしたいことは何か、それを問い続けることで一見存在意義が薄れてしまいそうなイベントが本当に自分に必要かどうかが分かるようになると思った。

 

adios

在宅勤務時こそ有給休暇が大切である理由

在宅勤務で気を付けたいこと

相変わらず在宅勤務の日々が続いている。私が所属する会社でもいよいよ定期代の支給を停止するのかどうかが選択肢として労働者に与えられ、ほぼ8割以上が定期代支給を停止して在宅勤務にシフトするという事態になっている。

在宅勤務を続ける中で気を付けなければいけないこと、それは働き過ぎである。一見在宅勤務であれば働きすぎという概念からは無縁に思えるかもしれないが、集中して没頭できる自宅という環境は無意識に長時間労働につながりやすいこともあるようである。集中できるから仕事をやりすぎてしまう、家に居ていつでも仕事用のPCを触れるから、つい気になる仕事を片付けるために深夜にPCを開いてしまうという人もいるらしい。私もつい、自宅だからまあいいかと思って妥協して少し残業してしまったり、定時内に片を付けなければならないという意識がどうしても薄れてしまうことはある。

没頭できることや仕事熱心なことは決して悪いことではないが、日常的にそのようなことが続いていくと、自分では認識できない疲労やストレスが知らず知らずのうちに溜まっていき、ある日突然崩壊してしまうということもあるかもしれない。最近は芸能人の自殺が相次いでいるが、コロナ前の世界からの変化があまりにも急激でその変化に心と体が追い付いていかないことは一つの原因だと思う。

こんな時だからこそ生産性をより意識すべし

私が在宅勤務でも特に意識していることは、仕事はなるべく定時で切り上げ、有給休暇もできるだけ定期的に消化することである。それは在宅勤務が主流になる前から自分自身に課してきた課題であり、在宅勤務になったからといって簡単に変えてはいけないとも思っている。

私の周囲の同僚を見ると、積極的に有給休暇を消化している人はあまり多いようには感じない。それだけ私が暇で他の人が業務を多く抱えていて忙しいというのも理由の一つではあるかもしれない。が、有休をとるために仕事を手早く終わらせるという選択肢を高く意識している人はそこまで多くないと見受ける。以前に自己啓発本で読んだが、「生産性=アウトプット÷インプット」であり、アウトプット(成果物の質と量)を増やせば増やすほど生産性は上がるが、同比率でインプット(労働時間)も増えてしまえば生産性としては変わらないということになる。生産性を上げたいのであれば、成果はもちろんその成果を生み出すのに捧げる労力を下げなければならない。

インプットを下げるには休暇を取得して労働時間を減らすのが最も手っ取り早く、労働者は生産性を落とすことなく休めるメリットがある。そして休むことは、実は自分が思っている以上に今自分自身の内面が求めていることかもしれないのだ。

こんなことを考えながら、少し暗くどんよりとしていてちょっと味気ないけれどささやかに幸せな日々を最近は過ごしている。

 

adios

私が良く食べるおやつを紹介する

今週のお題「好きなおやつ」

特に仕事中によく食べるもの

将棋の棋士が対局中に甘いものを食べてエネルギーを補給する必要があるように、我々サラリーマンも仕事中にエネルギーが枯渇するのを防ぐために間食(おやつ)をとる必要があると私は考えている。その中でも私がずっとよく食べているもの、または最近お気に入りのものを紹介してみたい。

ようかん

私は昔から和菓子が大好きである。祖母が良くすあま(寿甘)というお菓子を好んで食べていたのだが、私もこれが大好きであった。しかし、すあまはかなり甘く感じるので、もう少し甘さ控えめのものを食べたいと思い、たどり着いたのがようかんという選択肢だった。特に最近はファミマで小さめのようかんが70円ちょっとで販売されているのでそれを買って食べることが多い。程よくエネルギー補給ができて甘すぎず、そしてこれは和菓子全般に言えることだが脂質が少ないというのが最も良い点だと思っている。

グミ、ハイチュウ、ぷっちょなど

グミも私の中では昔から定番のおやつである。歯ごたえがあり、食べた後に満足感を十分に得られるのがグミ類のお菓子の良いところだと思う。

グミは色々な種類があり、これまでに多くのものを試してきたのだが、その中でも私が最も美味しいと感じたのはタフグミである。

f:id:rk-baryo:20200926110058p:plain

このグミを知ったきっかけは、前職で先輩が良く食べていてたまに分けてもらったことである。以来、自分自身でも頻繁に購入しており、和菓子と並んで私の中でも主力のおやつとなっている。好みは分かれるかもしれないがクセになる美味しさがあると思うので、是非とも食べてみてほしい。コンビニで普通に販売されている。

スルメイカ

間食としては最近食べる機会が減ってしまったのだが、それは嫌いになってしまったのではなく別の理由による。

社会人になりたての頃とかはおやつによくスルメイカを食べていた。だが自分では気づかなかったのだが、ある日当時の上司に「イカ臭い」とか「業務中にイカ食う奴はお前以外見たことない、変わった奴だな」ということを言われた。食べることをやめろと直接言われたわけではないが、確かにスルメイカはそこそこ臭うなということについては同感だったので、それ以来なんとなく職場でスルメイカを食べる気にならず現在に至る。といわけで、今はおやつではなく酒のつまみとしてよく家でスルメイカを食べている。

TPOをわきまえたおやつの楽しみ方

私も例外ではなくポテトチップスやクッキーやビスケットやチョコレートとかは好きなのだが、それらは食べられる状況がある程度限定される。職場で隣の同僚がいきなりポテチの袋を開けてバリバリ食べ始めたら音も臭いも相当気になるだろう。しかし、グミとか和菓子であれば音も臭いもポテチほどの影響は及ぼさない。駅のホームや電車の中で板チョコをバリバリ割って食べ始めるのもいかがなものかと思うし、それよりはグミを2,3個口に放り込んでおいた方がまだ周囲への配慮という点では良いと思う。

家で自分の好きなおやつを何も気にせず食べるというのはとても幸せなことだと思うが、外出中など一定の制約がある状況においても自分なりに美味しく楽しめるおやつを知っておき、常に保持しておくことも大切なことなのかもしれない。

 

adios

残業に対する最近の考え方について

学生から社会人になった時に感じたギャップ

社会人になる前、私は仕事で残業をするのは当然のことだと思っていた。私が大学生の頃既に社会人になっていた先輩に色々話を聞く中、先輩たちはそれなりに残業をしているようだった。または、実際は残業したくないけれどある程度はしょうがないよね、という多少の諦めと、プライベートをある程度捨てて会社のために働く自分カッコいい!というような多少の自慢の雰囲気を感じることもあった。その話を聞き、残業って案外楽しいものなのかもしれない、と何も知らない私はひそかに期待していた。

しかし、実際に自分が社会人になると、残業がどれだけ自分に合わず辛いものかということを思い知らされることになる。私にとっての残業というのは自ら主体的にやるものではなく、強制的に誰かからやらされるものだった。残業代すら支給されないその時間に自分の意志は一ミリも反映されず、ひたすら受動的な作業と上司からの叱責が続いた。

今でこそ稀に自分から能動的に動いて残業をすることもあるのだが、新人~社会人2,3年目ぐらいの時代に残業とパワハラで心も体もボロボロになった時を思い出すと、やはりあまり乗り気はしない。私にとって残業というのは幼少期に植え付けられたトラウマのようなものである。

仕事の振り方について最近思うこと

残業をさせるぐらいの仕事量を振る上司や先輩が悪い!

私はずっとこう思ってきたし、今でもこの考え方の根本は変わらない。しかし、最近後輩に少し仕事を振ったりする機会がある中、定時までに丁度良く終わる量の仕事を振るのは相当難しいと感じている。

まずはその仕事の全体量と進め方の流れや手順を自分で考える必要がある。次にそれを自分で遂行したらどの程度時間がかかるのかを大まかに見積もり、後輩が遂行したら自分とどの程度差が出るのかも予想する。最後に予想した時間が所定内程度に収まる分の仕事を後輩に依頼する。ある程度正確な作業を振ろうと思えば最低でもこのぐらいは考える必要がある。

面倒を見る後輩が1人や2人程度なら問題ないが、10人分の業務を配分するとなるとこんな面倒なことはやっていられない。よって仕事の振り方もかなり大雑把になるだろう。仕事を受ける側のスキルにもよるが、やはり配分ミスはどうしても起こってしまうだろうし、多すぎれば残業や休日出勤が避けられなくなる。仕事を振る側の人間が相当優秀でなければ、適切な配分で仕事を割り振ることなど不可能だと思う。

だから、丁度良い量の仕事を振るのは難しく、どうしても多めに振ってしまうからやはり残業はなかなか無くならない。

残業を受け入れるならば

であるならば、日本で働く限りある程度の残業というのは今後覚悟していかなければならないのかもしれない。その時、できるだけ過去の嫌な思い出が蘇らないようにするには、意識して能動的に動くしかない。

時間外の勤務時間に人から指示されたことをやるだけではただの奴隷とほとんど変わらない。”やらされている”から”やっている”という意識を持たなければやっていられないものだろう。その意味では、冒頭に述べた社会人の先輩のように「残業する自分ってカッコいい!」と思うのも一つの正解なのかもしれない。この考え方は手放しに褒められたことではないと思うが、嫌なことをポジティブに捉えて能動的に行動していくという意味ではとても良いマインドだとも思う。

 

adios

友達の数は多い方が良いのか

友達100人という幻想を抱いた幼少期

私はまだ幼稚園通いだった頃、「1年生になったらー友達100人できるかな」という歌を聴き、小学生になったら100人以上友達を作ろうと意気込んでいた時期があった。一日に一人ずつ声をかけて友達になっていけば、一年もすれば達成できる目標だと思っていた。そして私は入学式当日から色々な人に声をかけて仲良くなっていった。当時は学校で会って上辺でそれなりに仲良くしていればずっと友達でいられると思っていた。

しかし、高学年になるにつれてそれまで仲良くしていた人でも急に話しづらくなってくる人が一定数いることに気が付いた。私はこの頃から、この人とはなんとなく合わないな、とか一緒にいて落ち着く人とそうでない人が少しずつ明確になっていったような気がする。そして友達100人を作ってもその関係を継続していくのは容易でないことにも気付きつつあった。徐々に疎遠になる人が多くなり、私も関係を維持するのが面倒になって自分の世界に没頭するようになった。そして、その方が落ち着くし自分に合っていると感じた。

個人的には友達は量より質を重視したい

時は流れ私も社会人となり、現在友達といえる存在は2,3人ぐらいしかいないのが現状である。一人は小学校からの幼馴染で二人は大学時代に知り合った友人である。彼らと頻繁にやり取りもしないし、月に一回食事に行くなどということも今となってはなくなった。それでもたまに会って話をすれば、いつもと同じように心地良く会話することができるし、一緒にいて無駄に気を遣うこともなく疲れることもない。少なくとも私はそう感じている。

個人差はもちろんあると思うが、私みたいにあまり群れることを好まない人間は何十人も友達を作る必要はないと感じている。もちろん「友達100人」を達成して今もそれを維持し続けているという人もいるだろうが、100人全員と気が合うというのはなかなか難しいと思うし、中には一緒にいてあまり心地良くないと感じる人もいるのではないだろうか。その関係を果たして友達といえるのか。また、常に関係を維持するための「メンテナンスコスト」も尋常ではない。友達のために自分を捧げるのが楽しいという方は良いかもしれないが、少なくとも私にはその考え方は合っていない。だから私にとって大事なのは友達の量より質であり、気の合う仲間が1,2人いればそれで十分だ。

昔思っていたのは友達ではなく知り合いだった

今になって改めて友達について考えてみると、幼少期に考えていた友達というのは全て「知り合い」を想像していたのだと思う。当時は顔見知りでたまに表面的な話をする仲でも友達になれると思っていたが、今ではそのような関係はただの知り合いとしてしか考えない。本当の友達というのは、互いに相手のことを尊敬し合える関係であり、時にはお互いのことを思ってダメなところや悪い点を指摘できるぐらいの仲でなければ友達とは言えないと思う。

これはカップルでも夫婦でも当てはまるかもしれないが、良い友達との関係はつかず離れずの距離感が理想的だと思っている。どの程度プライベートな会話ができるのか、その距離感や居心地の良さというのが相手との相性であり、それは自分と相手で相互に関係を続ける中で育み、見つけていくしかないものである。

 

adios