rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

行動こそが全てという真理を実感した出来事

ずっと仕事をしていく中、ここ1年の間で一緒に仕事をしたいタイプの人とそうでない人の違いが自分の中で明確になってきた。そしてよく考えるとこれは日常生活でも当てはまることだと最近実感するようになった。

仕事の進め方について最近思ったこと

私も社会人としてまだ未熟ながら後輩を持つ立場ではある。ある後輩に何か仕事を依頼するために内容を説明し、やれそうかどうかを聞くと「はい。大丈夫だと思います。」と返答がくる。私としてももちろん後輩を信頼しているので、言葉を信じて大丈夫ということで任せておく。

そして数週間経過し、進捗を確認するとほとんど進んでいない。少しは進んでいるのだが、進捗スピードが牛歩並みの遅さである。このような出来事をいくつか繰り返すうちに、指示を出す上司の立場、過去に私をいじめた上司の気持ちが少しだけ分かるような気がした。もちろんいじめは真似しないけれど。

そもそも、私が感じている「やれる」というイメージと後輩が感じていた「やれる」のイメージは全然違う。私は具体的に手順を調べ、自分の中で仮説を立てて検証してあらかたの裏を取ってからはじめてやれそうだと思うが、私より経験が浅い後輩はその時聞いた印象でなんとなく「やれる」と感じてにその感覚を伝えたに過ぎないということだろう。そんな後輩の姿を見ると、ちょっと昔、まったく仕事ができなかった自分が重なる。個々の認識の差、意識の違いというのはやはり果てしないし、完全に埋めることは絶対にできないものだと再認識した。

行動こそが全て

少し話が逸れたが、要は行動こそが正義であり全てを語るということである。いくら口先で「やります!」を連呼したところで、実際に進捗具合に反映されていなければ全く信用できなくなる。言っていることとやってることが違うじゃん、という話になってしまう。口では愛してるとか好きだとか言いながら、全く会ってくれなかったり行動を変えてくれない男ほど信用できないものはないだろう。

私は過去にTOEICで850点を取ったことがあるが、その結果を伝えた後にいけ好かない友人から「でも勉強すれば誰でも取れそうだよね」というニュアンスの言葉を返されて内心ムッとした。確かに、しっかり勉強を継続して試験対策もして受ければ絶対に取れない点数ではないかもしれない。でも私はその一言で今まで継続的にやってきた努力をかなり否定されたように感じたし、何より取ってもいないクセにテメェからそんなこと言われたくねぇよ!というのが本心だった。そういうこと言う権利があるのは同等の点数を取ったことがある人間だけだ。

行動を伴わない言葉ほど信用できないものはない。そんなものは何の参考にもならない。しかし、行動に裏打ちされた言葉の持つ説得力は半端ではない。だから、グダグダと御託を並べるぐらいなら今すぐ行動し、何らかの成果物を作ることだ。それを持ったうえで御託を並べればその説得力は強大なものになり得るだろう。

 

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豊かさとは一体何なのか

豊かさと聞いてどのような印象を思い浮かべるだろうか。

お金をたくさん持っていたり稼いでいたりすること、自分の好きなものに囲まれて生きていくこと、博識であること、など他にも様々な特性を思い浮かべるかもしれない。しかし、この問いに対する私の究極の答えは、「ミニマムな所有物で人生に満足できること」だと考える。

何を以て豊かと考えるか

この話題は以前友人とも議論になった。私自身の考えとしては、ミニマリストを美徳とする考えが根底にある。それは、幼少期にムーミンを見てスナフキンに憧れたことなどが関係しているのかもしれない。その頃から、如何に少ないものや汚れたものでも満足できるかということが豊かさの本質ではないかと思うようになった。高級車をいくら所有していても、正妻以外の美しい側室を何人周りに取り囲もうが、そういう人はより一層多くを所有しようとする。ずっと豊かさを追い求めようとしているあたり、今現状は豊かとは言えないのではないかと。(話には直接関係ないが、好きだったYoutuberが登録者数を増やすごとに金にがめつくなっていく姿は見るに堪えない)

しかし私の友人は逆の考え方を持っていた。多くのものを求めようとする姿勢や行動そのものこそが豊かさの象徴である、という意見だった。私にはない考え方だった。そもそも人類が豊かさを追い求めて貪欲に行動してこなければ、ずっと第一次産業で社会活動が止まっていただろうし、現在では当たり前のネットやITの社会が築かれることもなかったと。その意見も一理あると思った。

豊かさの矛盾

このような話をしているうちに、豊かさといっても色々な角度から見ることができることに気が付いた。大きく分けると、心の豊かさと物質的な豊かさがあるような気がする。前者は自分の心の満足度、充実感などを表し、後者は所有物の多さや質の高さなどを表す。しかしこれら2つの豊かさは互いに相容れないものとなり得る。

質素な生活で満足していた人がある日突然大金を手にし、ブランド物を買いこみ、毎夜豪遊するようになったとしたら、その人は果たしてまだ豊かな心を持っていると言えるのだろうか。モノは少なく生活も慎ましかったが心は満たされていた日々、比べてモノが多くどんどん強欲になり心が傲慢になっていく日々。現状維持でなく常に上を目指すことは良いことなのだが、この場合でもそれが当てはまるかどうか。

どちらが豊かな心持っていると言えるか。これでも意見は半々に割れるかもしれないが、私はやっぱりミニマリストの心を忘れずに、日常生活の些細な出来事でも幸せを感じられるような心を持てる人間になりたいと思うのである。

 

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【お題】女性のしたたかさを感じた話

#今週のお題「怖い話」

私の友人が結婚する前、彼の現妻が取っていた行動を今振り返ると、ある意味女性って怖いなと思った話を紹介する。

彼と私の飲み会に飛び入り参加する

彼がまだ独身の頃、私と彼は最低月1回程度は色々な場所に飲みに出歩いていた。しばらくは2人で飲みに出かける状況が続いていたが、彼が現妻と付き合い始めてしばらくし、現妻から私と彼の飲み会に参加したいというリクエストを頻繁に貰うようになった。それ以降、月1回の彼との飲み会には必ず彼の彼女が参加して3人で飲みに行ったり遊んだりする状況が続くこととなった。

彼らの結婚を機に3人での飲み会は終了した

しばらくは3人で遊びに行くことが続いていた。しかし彼らが結婚した後、私と彼の飲みは多少頻度が落ちたものの続いていたのだが、そこに彼の妻が参加することはもうなくなった。もちろん、結婚式~新婚でメチャクチャ忙しくてなかなかそういう気持ちにならなかったとか色々と理由はあったのかもしれない。私がそれを想像することはできるが、真実はもちろん知らない。ただ、今少し振り返ってみると、彼の妻はある程度計算して私と彼の遊びに積極的に参加していたのではないかとも思う。

結婚に向けて既成事実を作るということ

私の友人の彼はとても人格者で誠実で尊敬に値する人間だと思っている。社会人としても真面目で優秀な男だ。私はそんな彼が好きで尊敬できる部分が多くあるからこそ彼と学生時代から仲良くさせてもらっている。もちろん、そんな彼と付き合った女性が彼を結婚相手としてこの上ないと思うのは当然といえば当然かもしれない。

そこで彼女は彼を手放さないように囲い込む作戦に出る。それが私という彼にとっても最も仲良く思える友人に自分の存在を認識させ、彼と彼女の関係性をより強くするための架け橋的な存在として私を利用したのかもしれない。もちろんこれは私のしがない推測でしかないが、今まで起こった事実を振り返る限り、あながち的外れであるとも思えないのである。

おわりに

仮にこの話が真実だったとして、私自身は利用されたことに腹立つ訳でもないし、むしろ仲良い友達として認められて嬉しく思っているぐらいである。親しい友人のお役に立てたのであれば例え脇役であろうと架け橋的存在であろうと全く問題はない。

女性の特性に関しては今回の一件を通じて考えさせられることとなった。もちろん世の女性全員がこのような考え方をするわけではないだろうし、そもそもこれが事実かどうかも分からないし、そんなこと確かめようもない。

ただ、今後自分が女性と関わっていく中で様々な考えを引き出す際に参考にしたい出来事とし、ちょっと怖い話として皆さまに共有した上で心の中にしまっておきたい。

 

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男なら社会経験として一度はキャバクラや風俗に行っておくべきか

私が社会人になりたての頃に感じたモヤモヤした気持ちを小話程度に共有する。

モヤモヤの根源

社会人1~3年目ぐらいの頃、先輩や少しませた学生時代の同級生からこんなことを言われることがよくあった。

「社会経験としてキャバクラとか風俗に行っておいて損はない。若いうちは遊んでおいた方が良いぜ。」

なんとなく納得してしまいそうな一言ではあるが、私はどうしてもこの意見に対して腑に落ちない感覚を持っていた。そして気乗りしないという話を伝えると、「お前、いつか犯罪者になるかもしれないぜ。その時は鼻で笑ってやるよ。」みたいな主旨の何の脈絡もない因縁を付けられて戸惑った。

どうしてキャバクラに行っておかないと俺は犯罪者になってしまうのか、意味が分からなかった。多分相手としては自分がもしキャバクラや風俗に行かなければ自分の欲望が抑えられない感覚を持っていたからこそ、私に対しても当然そう感じているに違いない、と推測してこういう類の発言につながったのだと思う。

だが、当然人によって感覚は異なるものであるし、自分がこう思うのだから当然相手も同じように思っているはず、という考えはかなり浅はかで危険なものである。相手の感覚は相手にしか分からないものであり、想像することはできてもそれがあっているとは限らない。この考え方は今後生きていく上で常に大切にしていかなければならないものだと感じた。

で、行くべきなのかそうでないのか

結論としては、行かなくてもよい、となる。私は未だにこれらの類の店に自分から積極的に行ったことはない。それでも全く寂しさや不自由を感じたことはない。

前職の社員旅行でタイのバンコクに行った際に先輩に連れられてなんとなくゴーゴーバーに行ったことはあるが、やはり気分が乗りきらずに途中で抜け出してホテルに戻ってきてしまった。こういう人間もいるのである。

私の数少ない一人の友人は結婚した際、奥さんに一度でいいから風俗に行かせてくれ、と頼んだそうである。きっと彼も誰かの意見に触発されてこんな本心から思ってもいないことを頼んでしまったのであろう。もちろん奥さんには嫌だと言われたそうだ。彼の奥さんも少しがっかりしたことだろう。

仮に結婚してから風俗にハマるようなことがないようにその前に経験しておいたところで、さらにドハマりして依存症になってしまう可能性もある。だったらそんなものはタバコや麻薬やギャンブルなどと同様、最初からやらなければいい、ということに尽きる。もちろん興味があるならやってみてもいい。しかし、興味もないのに「経験として~」などで嫌々やるものではない。

 

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PC(パソコン)を購入する際に重視すること

PCのスペックは超重要

突然ですが、皆さんはPCを所有しているだろうか。

最近はスマホでPCの大半の機能を代替できるためPCを持たないという方も多いようだが、やはりブラインドタッチのキーボードの打鍵速度や画面の大きさからPCは手放せないという方も多いと思う。Youtubeで動画を見る際もスマホとPCでは見やすさが全く異なる。私自身もSEという仕事柄、常にPCと向き合いながら作業をすることが多く、仕事も私生活もPCなしでこなしていくというのは今のところは考えられない。

このように、仕事においても普段の日常においても何かと重宝するPCであるため、その性能(スペック)は極めて重要なものだと私は考える。そこで、私がPCを購入する際にどのような基準で選定しているのかを紹介する。

基本的には速度重視

結論から言うと、多少値が張ってもデータの書込みと読込み速度が速いPCを選ぶようにしている。具体的にはCPU:core i7以上、ハードディスク:SSD、メモリ:8GB以上を条件にしている。選ぶ際もこの3基準を押さえておけばほぼ間違いないはずだ。

ゲームや重い動画の編集とかを頻繁にやるようなことがなく、基本的にはネットのブラウジングや動画視聴が中心であれば、この程度のスペックがあればストレスなくPCを利用することができると思う。特にSSDハードディスクであれば電源を入れてから10秒程度でPCが起動できるので、慣れるとHDDには戻りづらくなる。ただ、SSDはHDDに比べて容量が小さく寿命も少く値段も高いので、その点を認識しておく必要はある。

ちなみにPCに疎い私の両親は価格だけ見て安いPCを購入したらしいのだが、なかなか起動しなかったり、動画が途中で停止したり、10分以上経ってもブラウザが開かなかったりという低スペックゆえのストレスに悩まされている。ちなみにこのPCのスペックはCPU:celeron、HDD、メモリ4GBであった。この場合はCPUのceleronが良くないのだと思う。快適なPCライフを送るには出費は惜しまずある程度ハイスペックなものを購入すべきという教訓だ。

買い替え時期は?

私が今使っているPCは丁度2年前の夏に購入したものであり、core i5SSD、4GBのスペックある。2年間ほぼ毎日使用し、多くのアプリをインストールしたりプログラミングの環境設定をしたりするうちに若干ではあるがスピードが落ちたり、変なところで一瞬フリーズするような場面も見られるようになった。あと1年ほど使用したら新しいスペックのものに買い替える予定である。

スペックにもよるが、PCの買い替えは通常2~3年程度が普通で5年も使えればかなり長持ちなほうだと個人的には思う。世の中の流れが速いのでPCもどんどん新調していかないとなかなか対応しきれないのが実情でもある。

 

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安部首相を少しだけでも休ませてあげたい

今年の夏休みとは

ブログ強化週間ということで今日はYahoo!の記事から気になるものを取り上げる。

news.yahoo.co.jp

 

皆さまご存知我らが日本国の安倍首相は、例年この時期にお盆休暇を取得し地元の山口県に赴いているのだが、今年は国の状況が状況なだけに満足いく休暇を取得できていないらしいのである。既に5千件以上のヤフコメ民コメントが付いており、目立つのは「今休んでいる場合じゃないだろ」とか「ロクな仕事もせずに休むとは何事か」というような批判的な意見である。

今年のお盆休みは地元に帰省することや旅行などが満足にできない夏となっている。また、都知事が都外への外出をなるべく控えるようにお願いをしている昨今の状況ではやはり外出は難しいだろう。さらに首相となればこの国の緊急事態に常に緊張感を持って対応し続けなければならない責務があるため、このような批判が出ることはある程度理解できる。

大多数のヤフコメ民やtwitter民の考え方がブラック企業そのもの

だがこの記事に関するヤフコメやTwitterで色々な意見を見て思ったのが、非常にブラックな発想を持っている人が多いということ、これじゃあ日本からブラック企業がなくならないわけだ、ということである。

仕事をしっかりすることは確かに重要だ。ましてやそれが一国の首相とでもあろうお方であればその重責は計り知れない。だが、首相一人の一挙手一投足に日本の全てがかかっていると考えるのは少々大袈裟すぎると考える。

今回の新型コロ助への政府の対応に対しては国民から批判が殺到している。私自身も自分が収めた税金を納得できない政策に無駄遣いされるのは非常に腹立たしいと思うようなものもある。ただ、新型コロ助自体が人類にとって未知のウイルスであり、正しい対応の仕方なんて専門の医者ですらはっきりとは分からないような問題なのだ。ましてやそれを経済となるべく両立させていかなければならず、その両輪を担うのは容易な仕事ではない。

当然、首相一人がキチンと仕事をして解決できるような問題ではなく、多方面の色々な方々の協力が必要になる問題だ。そのように多くの人が当事者となって協力しなければならない問題に対し、首相一人がちょっと仕事を休んだぐらいで首相に対して批判が集中するのはおかしい。どれだけ皆首相に期待しているのか。首相とは言え一人の人間であり、なんでも知っているスーパーマンではないのだ。首相が休んでいる間に他の分野の専門家なり政治家が仕事をすれば良いのではないか。

結局はみんな自分のイライラや不安を分かりやすく首相にぶつけたいだけ、それこそ究極の自己中であり相手の気持ちなど何も考えていないことの象徴だと思える。首相が休むことを非難するのであれば首相が一日職務を休むことでどれだけの損失が生じるのか、具体的に数値なりデータを出して合理的に説明することが求められるはずである。それもせずにただ感情論で批判するのは、発想がいじめっ子やブラック企業の上司と同等であるということを自覚しなければならない。

自分が同じ立ち場だったらと想像してみる

国民の多くの人は将来首相になる可能性なんてほぼゼロなので、首相になった自分の気持ちを想像するなんてことはしないだろうし、私も想像したことはあまりない。でも、少しでも安倍首相の気持ちを想像してほしい。2月末からほとんど休みなく働き、プライベートの時間も取れず、毎日毎日国民から誹謗中傷の嵐を受けても誰にも助けを求めたり弱音を吐くこともできず前に進むしかないという状況。よく自殺しないなと思うし、私だったら2週間も精神が持たないだろう。

私は個人的に安倍政権について良いところも悪いところも多くあると思う。確かに、アベノマスク第二派は愚策であると思うけど、現況緊急事態宣言を回避しているあたりはまだ評価できると思う。だが、それと首相を一人の人間として見た場合はまた別問題。首相も我々と同じように感情を持った人間なのですから。

 

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【今週のお題】私がよく聞く夏の歌

今週のお題「夏うた」

2020年も8月12日となり、夏真っ盛りである。今年は街から聞こえる夏の音色が少ないが、そんな時でも夏の歌は気分を高揚させてくれるものである。

当記事では、私が好きな夏歌を厳選して3曲だけ紹介します。興味を持ったらぜひ聞いてみてください。

好きな夏歌

夏祭り:whiteberryJitterin’ Jinn

私が夏歌と聞いて真っ先に思い浮かぶのがこの曲である。「きーみーがいた夏は遠い夢の中ー」という曲だ。ガッツリ世代という訳でもないが、私は物心ついた時からこの曲に馴染みがある。歌い手はwhiteberryということで有名になった曲ではあるが、オリジナルはJitterin’ Jinnというバンドであり、whiteberryがカバーをした結果世間に広く知れ渡ることとなった曲だ。

演奏時間は約4分弱でJitterin’ Jinnバージョンの方が間奏のギターソロの時間が少し長い。ボーカル、ドラム、ギター、ベースのどれをとっても両アーティストの特徴がよく出ており、同じ曲だけど違った曲の味わい方をできるのが大きな特徴だ。

もちろん曲は両方好きだが、個人的にはJitterin’ Jinnバージョンの若干の哀愁を伴う大人っぽい雰囲気が好みではある。ぜひ聞き比べてみてほしい。

whiteberry(カバーバージョン)

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Jitterin’ Jinn

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HOT LIMITT.M.Revolution

T.M.Revolutionこと西川貴教の「YO! SAY! 夏を誰としたくなるぅ」という曲である。自分の中では夏のカラオケでは定番となっている曲であり、歌えばまず盛り上がること間違いなしの一曲だと思う。一般的な知名度もあるし、それなりに歌をアレンジして歌うこともできる。聴いていてもテンションが上がってきて作業効率も上がる気がするので、試してみてほしい。

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夏色:ゆず

これも鉄板の「この長い長い下り坂を~」というあの曲だ。カラオケではデフォルトでキー-3になっており、男性が原曲で歌うには高難易度の歌である。

そしてこの曲はゆずの記念すべきメジャーシングルデビュー曲でもある。私がまだ小学生~中学生ぐらいの頃によく友達が口ずさんでいたのでなんとなく知っていた曲だ。カラオケで綺麗に歌えればヒーローになれる。

真夏に自転車で坂道を登って下る時にぜひこのメロディーを思い出してほしい。

 

ライブバージョン

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他にもたくさんありますが

以上、3曲を紹介した。他にもよく甲子園でブラバンが演奏している曲は大体有名だし私も好きな曲が多い。紅、ルパン三世宇宙戦艦ヤマト、など挙げていけばキリがない。

また、書いていて思ったが歌のネタを綺麗にブログで表現するのは難しいと感じた。そもそも好きな曲がたくさんありすぎて厳選するのも大変だし、個人の主観が大きく入り込んでしまうので、果たして有益なものになるのだろうかと思うのだ。皆さまも思い思いの夏を過ごされていると思うが、この機会に色々な音楽に触れてみるのも一興かもしれない。

 

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夏休みの虚無感を語る

はじめに

今年の夏休みはどのように過ごされる予定だろうか。

そもそも夏休みもずっと仕事が続くという方もおられるかもしれない。学生諸君はどのようになっているのかあまり把握できていないが、おそらく例年通りの夏休みを過ごしている方は少ないのではないかと予想する。

私自身は8/16まで仕事がOFFの夏休みとなっているのだが、最近は在宅勤務が定着してきたことや夏休みに特段予定がないこともあり、あまりありがたみを感じられない長期休暇となっている。非常に贅沢な悩みなのは承知の上だが。

旅行にも行けない、実家にも帰れない、特に予定がないという人たちはこの夏休みをより有意義に過ごすために何をしたらよいのか。

勉強・趣味

まずはやはりスキルアップのための勉強をすることである。学生を卒業しても人間は日々学び勉強しながら生きていかなければならないと私は考える。もちろん仕事に関する資格の学習などは鉄板ではあるが、英語やライティング、簿記(会計)、法律、簡単なプログラミングやウェブデザインの勉強など、業種業界に関係なく社会人として身に着けておいて損はないものは多くある。

また、自分の趣味を磨いていくのも遊びと勉強の中間のようなものだと私は思っている。私はもう20代後半だが、この年になってピアノの練習を始めた。まだドレミファソラシドとかカエルの歌がやっと弾ける程度の実力しかないが、正しいやり方で継続していけば必ずそれなりに弾けるようになると思っている。また、ピアニストが如何に凄いかということも自分が弾くようになってから実感することができた。これは大きな学びであると思う。

掃除をする

3ヶ月前のゴールデンウイークも自粛生活は続いていた。その頃に掃除をして以来何もしていない場合はそろそろまた埃が溜まってくる時季だと思う。暑くてなかなかやる気が出ないかもしれないが、大掃除っぽいことをしてみるのも気を紛らわすにはちょうど良い。

やる前はだるくて面倒だと思っていたことも、やり始めてしまえばそれなりに没頭できるというのはよくあること。とりあえず体を動かしてみるのも一つのやり方だと思う。もちろん、熱中症対策は万全に。

とにかくボーっとする

後はとにかく何も考えずにゴロゴロすること。ここ数カ月在宅勤務が続いていて割と健康的な生活が送れていると思っていても、意外と毎日余計な情報に気を遣って精神を擦り減らしてしまっていることを自覚できていないこともあり得る。それは在宅勤務ではなくても同様で、このご時世様々なものが知らぬ間に我々の気力や体力を蝕んでいる可能性は大きいと感じる。だから、とりあえず何も考えずに休み、休み明けに向けての充電期間として過ごしても良いのではないかと思う。

おわりに

人は現在の局面にある程度の余裕を感じたとき、最も将来に対する不安を感じやすいのかもしれないと私は最近になって思う。逆に言うと、今この瞬間に集中し切って過ごしていれば将来のことを考える余裕すらなくなる。それは良いことでもあり悪いことでもあるが、あまりにも将来ばかり憂慮しても生きていてだんだん辛くなってくる。だから、やっぱり今目の前にあることに全力を注ぎ没頭することが自分を救ってくれるのだろうと感じる。

 

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2020年の上半期を振り返り

今週のお題「2020年上半期」

もう一カ月近く過ぎてしまったが、今年の上半期を個人的に振り返る。具体的には正月に立てた今年一年の目標に対する中間報告という形にする。

振り返り

体調不良による有休をゼロにする

今年に入り、1~2月中はそれまで通りほぼ毎日出社していた。昨年末にインフルエンザを患ってからはより一層体調に気を遣うようになり(主に睡眠時間の死守)、1月と2月に体調を崩すことはなく、体調不良で有休消化することはなかった。

3月からは新型コロ助の影響により全面的にほぼ毎日が在宅勤務になり、そもそも体調不良で出社不可という概念が消滅した。一応在宅勤務でも始業と終業連絡をしており、もちろん休む場合は連絡が必要だ。そんな中でも3月から今まで体調不良はほとんどなく、予定していた有休以外は使っていないので、この目標については上半期で何とか達成できたと言っていいだろう。下半期も新型コロ助に罹患しないことはもちろん、この調子で乗り切っていきたい。

資格取得&勉強の継続

まず資格は2月にウェブデザイン技能検定3級を受験し、ギリギリ合格することができた。もちろん資格を取ることも目的なのだが、その過程の勉強で自分の知らない知識を吸収できることはとても有意義だと感じている。現在は8月末に行われる2級の試験に向け、主に休日を勉強の時間に費やす日々である。正直、一発合格できる自信はないのだが、できる準備は全てやってから試験に臨みたい。

ランダムなウェブアプリの制作については、現在は割と長めのスパンで一つのアプリに多くの機能を持たせたり、自分なりに面白くなるようにアプリを自作している。そろそろ、ウェブのUIだけのアプリを作成するのも飽きてきたので、レンタルサーバーを借りてphpと絡めた本格的なアプリの制作をやり始めようかなとも考え始めている。

レーニン

2月まではジムでしっかりトレーニングできていたのだが、3月以降は新型コロ助の影響でジムに行く頻度が減り、4月の緊急事態宣言以降はジムが閉鎖になり満足なトレーニングができなくなった。

そんな状況に耐えかねて、せめて自宅でベンチプレスとスクワットぐらいはやれるようにと、12万円ほどでバーベルラックセットとベンチを購入し、いわゆるホームトレーニーになりかけている現状である。とはいえ、器具がそろってしっかりトレーニングを始められたのが5月半ばぐらいだったのでひと月近くブランクとなってしまった。

目標に対する現状は以下の通りだ(左:目標 右:現状)。

◆ベンチプレス100kg×5回 → 88kg×8回(100kg×2回相当)

◆スクワット130kg×8回 → 105kg×10回(130kg×1~2回相当)

◆10kg加重懸垂×10回 → 加重なしで15回(10kg加重だと5回ぐらい)

改めて書き出してみて気付いたが、今年の終わりまでに左を達成するのはかなり厳しい状況になってきた。特にスクワットは目標と現状にかなり開きがあるため、相当頑張らないと達成は難しいだろう。

ジムに行く頻度は少し抑えつつ、自宅で出来ることもコツコツ頑張っていこうと思う。

下半期に向けて

昨年末から今年のはじめにかけて、まさか世の中全体がこのような状況になるとは到底想像できなかった。在宅勤務中心になることで体調不良になることは格段に少なくなりとてもありがたいことなのだが、やはり閉ざされた空間で長時間過ごしていると、精神的にどうしても憂鬱になってしまうことが多々あるように感じる。ただ、そんな中でもいつもと変わらず外に出てリスクにさらされながら働いている人たちがいるのだから、自分みたいな人間は恵まれていると思わなければならないだろう。

下半期も基本的にやることは変わらないが、まず新型コロ助に罹患しないことを第一に気を付け、日々生活を送っていくことができることに感謝しながら仕事やトレーニングや勉強をやっていきたい。

 

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便利な生活に慣れすぎてしまったが故の反省

世の中には便利なことがいっぱいある。自宅に居ながらにしてインターネット一つあればAmazonで色々なものが購入できるし、会社に出社しなくともテレワークでできる仕事だってある。これは一昔前であれば考えられないような技術革新の賜物であり、同時に世の中が目まぐるしく変化しているということの象徴として捉えることができる。

昨今の自粛生活の中、私もやはり買い物にはAmazonを多用することで身の回りの必要なものを揃え始めた。Amazonの魅力はなんといっても、基本的に注文した翌日には商品が手元に届く(今はモノによるかも)という素晴らしいスピード感である。実はこれはとんでもなく便利なことなのだが、慣れてしまうと何とも思わなくなり、しまいにはそれが当たり前であるかのようなある種の錯覚を引き起こしてしまうようになる。しかし、人間にとって「慣れ」というのは恐ろしいものであると身をもって実感する出来事があった。

Amazonで頼んだ商品が届かない

訳あって複数の商品をほぼ同時に注文することになり、注文から数日で大体のものは早めに手元に届いたのだが、一つだけ明らかに配送されている雰囲気がない商品があった。まあなんだかんだ言って配送はされるだろう、と思って気長に待っていた。

そして配達予定日当日、通常なら必ず来る配達中を知らせるメールが夕方になっても来ていないことに気が付いた。これは何かおかしいと思い問い合わせたところ、どうやら配達が遅れそうとのことが明らかになった。この時点で遅れそうなら先に言ってくれよ、と思ったがまあしゃーないか、と思い直しもう数日待ってみることにした。

しかし配達予定日はどんどん伸びる一方だったので、結局諦めて商品が届いていないのにも関わらず返品することにした。返品処理のやり取りで明らかになったのは、商品が税関で破損して配送できないということであった。私は失敗したな、と思った。

末端で作業をしている人の存在を忘れてはならない

私は商品の到着を待っているとき、どこか心の片隅で「Amazonで注文したんだから絶対届くでしょ」と思っていた。でもこの考え方は、姿の見えない第三者に自らを委ねてしまう行為に似ており非常に危ないと思う。

どんな巨大組織にもその数だけの従業員、もっと言えばひとり一人異なる個性を持った人間が属しているということを忘れてはならない。末端で実際に倉庫の中で手足を動かしながら段ボールに梱包したり、ピッキング作業を行う従業員がいてこそ商品の配達が可能になる。

PCやスマホAmazonアプリで客がボタンをポチっと押した後、従業員なり機械なりがそれだけの作業工程をこなした上で当該商品が手元に届いているということを改めて認識しなければならないと感じた。

便利さの裏側を想像する力を養いたい

こんな些細な出来事で?と思われるかもしれないが、私はこの出来事をきっかけに便利さの裏側はどんな仕組みになっているのかをもう少し想像しなければならないと感じた。また、そのような工程や立場がある程度想像できれば、商品が期日に届かないとか電車が遅延していることなどで過剰にイラついたり、ストレスをため込んだりすることが減らせるのではないかと。

世の中が便利になるのはとても良いことだし、それによって多くの人の人生が豊かになるというのは間違いないことだと思う。ただ、その便利さに慣れてしまったがゆえに少しでもそれが満たされないとき、過剰にイラついて怒りを人にぶつけたり、ストレス発散のはけ口を粗さがしするような行為が頻発する世の中にはなって欲しくない。そして、多少なりともイラついてしまった自分自身もその点を反省する必要があると感じている。

 

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