rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

便利な生活に慣れすぎてしまったが故の反省

世の中には便利なことがいっぱいある。自宅に居ながらにしてインターネット一つあればAmazonで色々なものが購入できるし、会社に出社しなくともテレワークでできる仕事だってある。これは一昔前であれば考えられないような技術革新の賜物であり、同時に世の中が目まぐるしく変化しているということの象徴として捉えることができる。

昨今の自粛生活の中、私もやはり買い物にはAmazonを多用することで身の回りの必要なものを揃え始めた。Amazonの魅力はなんといっても、基本的に注文した翌日には商品が手元に届く(今はモノによるかも)という素晴らしいスピード感である。実はこれはとんでもなく便利なことなのだが、慣れてしまうと何とも思わなくなり、しまいにはそれが当たり前であるかのようなある種の錯覚を引き起こしてしまうようになる。しかし、人間にとって「慣れ」というのは恐ろしいものであると身をもって実感する出来事があった。

Amazonで頼んだ商品が届かない

訳あって複数の商品をほぼ同時に注文することになり、注文から数日で大体のものは早めに手元に届いたのだが、一つだけ明らかに配送されている雰囲気がない商品があった。まあなんだかんだ言って配送はされるだろう、と思って気長に待っていた。

そして配達予定日当日、通常なら必ず来る配達中を知らせるメールが夕方になっても来ていないことに気が付いた。これは何かおかしいと思い問い合わせたところ、どうやら配達が遅れそうとのことが明らかになった。この時点で遅れそうなら先に言ってくれよ、と思ったがまあしゃーないか、と思い直しもう数日待ってみることにした。

しかし配達予定日はどんどん伸びる一方だったので、結局諦めて商品が届いていないのにも関わらず返品することにした。返品処理のやり取りで明らかになったのは、商品が税関で破損して配送できないということであった。私は失敗したな、と思った。

末端で作業をしている人の存在を忘れてはならない

私は商品の到着を待っているとき、どこか心の片隅で「Amazonで注文したんだから絶対届くでしょ」と思っていた。でもこの考え方は、姿の見えない第三者に自らを委ねてしまう行為に似ており非常に危ないと思う。

どんな巨大組織にもその数だけの従業員、もっと言えばひとり一人異なる個性を持った人間が属しているということを忘れてはならない。末端で実際に倉庫の中で手足を動かしながら段ボールに梱包したり、ピッキング作業を行う従業員がいてこそ商品の配達が可能になる。

PCやスマホAmazonアプリで客がボタンをポチっと押した後、従業員なり機械なりがそれだけの作業工程をこなした上で当該商品が手元に届いているということを改めて認識しなければならないと感じた。

便利さの裏側を想像する力を養いたい

こんな些細な出来事で?と思われるかもしれないが、私はこの出来事をきっかけに便利さの裏側はどんな仕組みになっているのかをもう少し想像しなければならないと感じた。また、そのような工程や立場がある程度想像できれば、商品が期日に届かないとか電車が遅延していることなどで過剰にイラついたり、ストレスをため込んだりすることが減らせるのではないかと。

世の中が便利になるのはとても良いことだし、それによって多くの人の人生が豊かになるというのは間違いないことだと思う。ただ、その便利さに慣れてしまったがゆえに少しでもそれが満たされないとき、過剰にイラついて怒りを人にぶつけたり、ストレス発散のはけ口を粗さがしするような行為が頻発する世の中にはなって欲しくない。そして、多少なりともイラついてしまった自分自身もその点を反省する必要があると感じている。

 

adios