rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

死について考えること

死について考えるとき

一人暮らしをするようになってから「死」について時々考えるようになった。実家で暮らしていた時はこのようなことを考えることはなかった。今この場で自分が突然意識を失って倒れて永眠してしまったらどうなるのか、とかそれは孤独死等を含む変死事案に分類されてしまうのか、とか色々なことを考えてしまうことがある。

生きている限り誰もが突然死してしまう可能性があり、年齢が若かろうがそれは例外ではないと思う。可能性は限りなく低いと思うが、今日や明日にも自分自身の肉体から魂が抜けていくことがあるかもしれない。

できるだけ迷惑をかけない死に方とは

一人で生きていれば死後に発見が遅れて孤独死扱いになってしまう可能性は高く、身寄り頼りもないのであればなおさらそうなのだと思う。同居家族がいればそのような悲惨な死に方を防止しやすくなるので、孤独死を避けたいのであればできるだけ誰かと同居したほうが良いのかもしれない。私も一人で苦しみながら死んでいくのはできれば避けたいと思っているし、苦しい時に助けてくれる人が近くにいればどんなに心強いだろうと思う。

だが、自分が孤独死を避けたいがために無理に誰かと同居する必要はないとも思う。誰かと同居することを好まなかったり、独身でいれば大体の人は一人暮らしで人生を終えることになるだろう。それは個人の自由なので問題ないと思うが、残された人の後始末が大変になるような死に方は避けていかなければならないとも感じる。家にモノが多く整理するに苦労するとか、どう見ても不要な古いものばかりため込んでいるような状況は避けたいと思っている。

いざというときに頼れる人を

また、一人暮らしを貫くのであれば、自分の身に何かが起きた時を考えて定期的に連絡を取り合う友人などはいた方が良いと思う。自分の状況を把握している人が誰もいなければ孤立状態になってしまい、やがて訪れる孤独死を避けることはできないだろう。

自分がこれからどのような生活スタイルを築いていくかまだ決まったわけではないが、独身で一人暮らしで生きていくのであれば上記のような視点も考えておかなければならないと感じる。特に私は従妹もおらず身寄りも少なく人間関係も希薄であるため、なおさら意識する必要があると感じている。

 

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コロナウイルスのワクチン接種を渋ってしまう理由

ワクチンに関する報道の不自然さ

連日デルタ株が猛威が振るう中、全国各地でワクチン接種が進行している。私が居住する地域でも数週間前に接種券が届いているが、年齢がそれほど高くないということでなかなか予約が取れない状況が続いており、結局まだ1回目の接種すら終わっていない。日々の報道の中でワクチンに関する様々な情報が飛び交っているが、予約枠の空きを待ちつつ色々な情報を吟味するうちに、自分自身がワクチン接種を早急に行う必要があるのかどうか疑問を抱くようになった。

報道番組はワクチン接種を進めるために接種することのメリットをずらずらと並べているが、副反応について詳しく報道してくれる番組はほとんどないと感じる。メリットだけ享受できてデメリットがないものは世の中にほとんど存在しないと思うが、ワクチンを接種すれば全て解決するかのように煽る報道も見かけるのでより信用できなくなってくる。

一律に接種を行う必要はない

これまでワクチン接種を行った後に死亡している人が1,000人弱いるということらしいし、報告されていない分も含めるとさらに数十倍程度いるのではないかという推測もある。ワクチンを打ったせいで死亡につながったという明確な因果関係を証明するのは困難ではあるが、何かしら関連がありそうだという察しはつく。もちろん、大多数の人はそこまで重くない副反応で済んでいるらしいし、接種するメリットが大きい人も多いと思うのでワクチン接種を進めていくことに反対ではない。

ただ、国民全員に一律にワクチン接種を推奨するのは良くないようにも思える。20代や30代の比較的若い世代ではコロナウイルスで死亡する人はほとんどいないが、ワクチン接種後に原因不明の死亡が相次いでいることを考えると、この世代にワクチン接種を積極的に進めるのは良くないと思う。接種しても特に何も影響ない可能性の方が高いとは思うが、インフルエンザのワクチンなどと比較しても副反応のリスクが段違いに高いものを接種する気にはなれないのである。逆に40代以上の重症化リスクが高い人は、副反応を受け入れつつもワクチン接種を受けるメリットがデメリットを上回るというのが個人的な印象である。

接種の是非を自分自身で判断するために

政府としては何としてもコロナウイルスの感染者を抑え込みたいので、ワクチン接種を進めることに躍起になっているのだろう。それは別に悪いことではないし、受けたい人は受ければ良いし、私みたいにもう少し様子を見て先延ばしにするのも一つの判断だろう。

受けるか受けないかは年齢や基礎疾患や持病などの個人の特性によって判断されるべきであり、それについて判断できるのは自分自身しかいない。周りの情報を吟味し、自分自身に当てはめた際にある程度のリスクを負ってでも受けた方が良いと判断すれば受ければいい。逆に家に籠る時間が長かったり他者との接触機会(感染リスク)が少なく、年齢もそこまで高齢でなく健康体で現状過ごせているのであれば、無理して早く接種する必要もないだろう。

ワクチン接種の有無によって差別を受けるようなことがあってはならないと思うし、人間の数だけ選択権とそれぞれの正解がある問題だと思っている。ただ、ワクチン接種有無に関わらず、感染予防の行動は引き続き継続していく必要があるのは間違いない。

 

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一人暮らしに慣れてきて

慣れてきてというと正直まだまだ慣れてきていない面もあるというのが本音なのだが、5月から一人暮らしをし始めてからひと月と少し経過し、少しずつ自分なりの生活リズムが生まれてきた。日々の食事をどのようにやりくりしていくのか、必要な支払いや手続きをどのように行うのか、家の掃除や家電等のメンテナンスをどのように行うのかなど、実家暮らしでは考えることがなかった事象にぶつかり、はじめは戸惑うことが多かったが、ようやく少しずつ慣れてきたというところだ。まだひと月しか経過していないが、自分なりに生活をしていて気付いたことを共有してみる。

日々の何気ない動作が不自由に感じる

まず、実家では難なくこなせていた日々の何気ない動作がとてもやりにくく、不便に感じることが多かった。特に、洗濯物やタオルを干すスペースなどが新居ではほとんどなく、ハンガーとか物干しざおとかを自分でどんどん購入していかないと服が干せないということに気が付いた。

また、私が現在入居している部屋は風呂場の中に洗面台があり、これが非常に使い勝手が悪くてストレスがたまる。今後違う物件に引っ越す際は、風呂場と洗面台が別になっている物件を選ぼうと思っている。

家は広すぎない方が良い

狭い部屋が良いとは言わないが、定期的に部屋の掃除をすることを考えると、自力で掃除やメンテナンスができないような広さの部屋に住むことはあまり現実的ではないと感じる。お金持ちの人は家賃が数十万円もするような広い部屋を好む人が多いようだが、私は仮に金持ちになってもそんなに広い部屋には住めないと感じる。それは、自分で掃除ができないからだ。自分で掃除できないほど広い部屋に住むとなると、家政婦などを雇うことを考えるが、それも色々と面倒だと思う。お金持ちの人たちはみんな家政婦を雇っているのか、それとも自力で掃除しているのか、はたまた掃除などしていないのか。。

道路沿いや線路沿いはやはりうるさいし暑い

初夏から夏にかけての丁度今の時期に当てはまると思うが、私が入居している家も道路沿い&線路沿いで外の音がうるさいと窓を閉め切ることになるので、風通しが悪くなり体感温度も熱く感じる。窓を開ければ常に電車のカタカタ音と車のエンジン音が鳴り響く。仕事のオンライン会議中などはなるべく雑音を入れたくないので、必然的に窓を閉め切ることになり、かなり暑いし既に冷房をそれなりに使うようになっている。

家賃はそれなりに安くて手ごろなのだが、冷房を使って電気代が上がったり掃除の手間が増えるぐらいなら、次は家賃を少し上げてでも電気代や手間を節約できるような環境の物件を積極的に考えてみても良いかもしれないと思っている。

食事管理の難しさを知る

食事代をケチっていたわけではないのだが、あまり意識せずに自分が満足できる量だけの食事をしていたら、3週間で体重が2キロちょっと落ちてしまった。実家にいた時と食事量を大きく変えている意識はなかったのだが、家事を自分でやるようになって消費カロリーが上がってしまい、それまでの食事量だと不足するようになったということかもしれない。最近はアバウトにカロリー管理をして、一日に3,000キロカロリーぐらいは摂取するように計算しながら頑張って食べるようにしている。

まとめ

まだ短期間ではあるが、実家から引っ越して一人暮らしをする中で気付いたこと、得られたことが色々あると感じる。時々寂しさや虚しさを感じることもあるが、基本的には自分のペースで楽しく生活できていると思っている。今後も体調管理に気を付けて健康的に生きることに一番注力していきたいと思っている。

 

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いい加減に一人暮らしをしようと思った話

このタイミングで引越しを決めた理由

4月中旬ぐらいから一人暮らしをすべく、準備をしているため最近かなり忙しい。このタイミングで独立しようと思った理由はいくつかあるのだが、結局のところ、一人暮らししたくなったから、という理由に尽きる。

元々3年前ぐらいから早く一人暮らしをしたいとずっと思っていたのだが、仕事で契約切りにあって勢いで退職してしまったことから、一人暮らしどころではなくなってしまった。再就職して少し落ち着いたらまた一人暮らしを考えようと思ってたが、コロナウイルスによって働き方が大きく変わる中、少し情勢を見極めてから移行しようと考えてさらに1年近く過ぎてしまった。

最近は私の所属する会社でもフリーアドレスになって個人のデスクが廃止されるなどのイベントがあり、毎日出社するという従来の働き方に戻る可能性がかなり低いことが決定的になってきた。そこで、テレワーク主体で生活する前提での住居選びをするという方向で決めてしまおうと考えた。

経験として必要だと思った

生まれてこの方長期間実家を出たことがないというのはあまり良くないことなのかもしれないと最近になって思うようになった。実家を出る必要がないというのはとても恵まれていることだと思うが、その環境に自らを甘やかしてしまい、人として堕落しているような気がしていた。

地方から上京してくる人たちは高卒ないしは大卒で都内近辺に安い物件を借り、そこで質素に暮らしていくことで将来に対する希望とか夢とかを膨らませるものだ。その経験の中で自分にとってベストならライフスタイルとか住環境が分かってくるというものだと思う。そのようなことは一人暮らしをしてみないと分からないことであり、やはり人生においてもとても大切なことだと思う。

もちろん、いずれ一人暮らしになるのだからその経験をより早く求める必要がないということもある。それは考え方として全く問題ないと思う。ただ、年齢を重ねていくと生活レベルを落とすことが難しくなり、若い頃のような生活ができなくなるという点も考えておく必要はあると思う。個人的な意見ではあるが、やはり人間は一人暮らしでも結婚しての独立でも良いので、遅くとも30歳までには実家を出た方が良いかもしれないと最近思うようになった。

物件決め~引越しを経ての気づき

今は家電も取り付けていないのでまだ新居には住んでいないのだが、引越しはやることが多くて戸惑っている。物件選びは自分でできるが、荷物運びや家電選び、設置するにあたり注意することなどが多くあり、自分が今まで如何に何も知らず呑気に生きてきたかを痛感する。家電はヤマダ電機のアウトレット店で格安で購入し、予定費用の半分近くで抑えることはできたものの、やはり生活に必要なものを多く揃えるためには時間も労力もお金もかなりかかるということが分かった。

皆が普通にやっていることをやっていなかったのだから仕方ないとはいえ、引越しに必要な作業を今から10年後にはじめてやるとなると、かなり荷が重いし、遅めではあるが20代後半のうちに決断できて良かったと思っている。

こういうことも一つひとつが自分のための経験だと思って楽しんでいけるようになったらまた人生が一回り楽しくなるのかもしれない。

 

お題「#新生活が捗る逸品」

 

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デート?での失敗を機に考えたこと

久々にデート?をしてあっけなく振られた話

コロナ禍云々に関わらず、社会人になって以降久しく恋愛と疎遠になっていた私であったが、先日友人に紹介してもらった女性と会ってきた。女性と二人で会うというのが久しぶりすぎて何を話せばよいか分からないままなんとなく流れで会話を進めた。相手はそこそこ楽しんでくれていたようにも見えたが、その後連絡が途絶えてしまった。まあ、正直デートと呼べるような代物ではなかったから仕方ないのかもしれない。

正直結構ショックで2日間ぐらい落ち込んでいたのだが、その原因をあれこれと考えていると、恋愛において今の自分に足りないことがかなり見えてきたし、本質的に大事なことを見失っていたことに気が付いた。出来事としては残念の一言だったのだが、この経験から学べることは大きいと思った。

デートとはお互いに楽しむものです、というようなことが言われていることもあるが、それはお互いに好きで付き合っている状態であればこそのこと。付き合う前の1回目のデートなぞ相手の女性は自分のことなどほぼ何とも思っていないのだから、男性の方からうまくアプローチしてある程度心理的な距離を縮めなければならない。これから恋人になるかもしれない人に対してずっと敬語で丁寧に接していたら、恋人のような距離感や関係になるイメージすら持ってもらえないということだ。

真面目が良いなんて大嘘だ

真面目で優しい人が好きという女の子は多いだろう。でも周りで女をとっかえひっかえしているような男に真面目な奴なんて皆無であり、この言葉を信じて忠実に守る男たちはバカをみることになる。無論私も後者に属する。こういう残酷な事実があると、やはり女性が言うことを真面目に受け止めてはいけないのだと思う、むしろ女性はいつも嘘をついて本心とは反対のことを言っているのではないかとすら思ってしまう。

優しい人が好きというのもよくあるが、優しい人は本当にモテない。恋愛面だけではなく、仕事とかその他の日常生活においても優しい人は常に都合よく搾取される対象となることが多く、嘆かわしい限りである。むしろ、真面目に不真面目になることが大事なのではないだろうか。

人間は強欲な生き物だと痛感

少し内容の方向性が変わるが、この出来事を機に自分自身を改めて見つめ直し、本当に人間というのは欲深い生き物だと痛感している。

私自身、数年前までは仕事とか自分の生活をどうしていくかということで頭がいっぱいで、恋愛とか結婚とかを考える余裕などなかった。自分自身の管理もままならないのに他人の人生を管理するなどもってのほかだと思っていたし、だからせめて自分が何とかこの世の中を生き抜いて慎ましく生活できればそれで人生万々歳だと思っていた。

しかし、転職して少し環境が安定して自分自身に余裕が出てくると、今度は恋愛とか結婚とかその方面について考えたりすることが多くなってくる。元来、結婚願望がないことは今も変わりないが、もし良い相手がいたら・・、とかせめてパートナーぐらいは欲しいなとか、そうしたことをふとした瞬間思ってしまう自分自身が卑しく醜く感じることがある。本来何も後ろめたいことはないはずなのだが、ちょっと前の自分のようにもっと質素に、他人は関係なく自分が生きていくことそのものに対してもっと喜びを感じられるようになりたいと思うし、全てを手に入れて幸せになろうなんておこがましいとすら思ってしまう。

「二兎を追う者は一兎をも得ず」とはよく言ったものだが、今現在健康で生活できて定期的に仕事ができていて収入があり、質素ではあるけど安定して生活できているということにはもっと感謝しなければならないと思う。人間は何かを手に入れるともっともっといろいろと手に入れたくなってしまうのが本能なのだろうが、そこは欲張ってはいけないと思う。慎ましく健康的に生きられればそれでいい、この原点は忘れずにこれからも生活してきたいものだ。

 

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わきまえる、わきまえないの論争

約1カ月ほど前に森会長(当時)が女性差別発言をしたことにより、「#わきまえる」「#わきまえない女」などのハッシュタグで自分の意見を主張する人が出てきている。本日の朝日新聞朝刊でこの話題に触れており、読んで色々と思うことがあったので私なりに感想を述べてみたいと思う。

基本的に本音は抑えず主張すべし

森前会長の発言を皮切りに、様々な人がわきまえず意見をすることが大切だと主張するようになったが、私も基本的にはこの意見に賛成である。立場の弱い人が苦しい状況を泣き寝入りする悲しい状況を変えるには、その立場の人たちが自分の意見を伝え、どうして欲しいのかを言わなければ状況が好転することはない。黙っていれば、沈黙=同意と受け取られても文句は言えないだろう。

「わきまえない」とは、その場の空気や雰囲気をあまり気にせずに自分の意見を貫いて主張すべきということである。学生時代にはスクールカーストなどもあり、グループのリーダー的な人が言うことに逆らって自分の意見を主張することは容易ではないだろう。また、サラリーマンであれば上司に向かって物申すというのは一昔前であれば憚られることだったと思う。それでも、ここ最近は個人の自由や権利を重んじる思想が多くの人に理解されるようになり、昔よりは意見を言いやすい環境になってきていると思う。

私の経験では、自分が思っていることは他にも誰かしら思っているという場合は多く、無言の同調圧力に屈せずに自分の考えを明確に言葉にして主張するというスキルはますます重要になっていると感じる。

わきまえないことは必ずしも正ではない

ここまで「わきまえない」ことが大切だと述べてきたが、一方で状況によって必ずしも「わきまえない」ことが正しいとは限らないのが厄介なところである。

人は基本的に組織の中で生きている。もちろん個人の存在や意見は尊重されるべきであるが、それが組織全体の目的や方針と合わなければ個人の意見は破棄され、組織として別の意見が採用されることが多い。個人として意見が異なるのはもちろん構わないと思うが、それが嫌であれば自分の意見と合う別の組織に行ってくれ、というのが組織としての本音だろう。従業員を1万人抱える企業のうち社員一人が何か声を上げたところで、他に同様のことを考えている従業員が少なければ少数意見は黙殺される。それでも組織と反対の意見を貫き通せば、組織にとって目障りな存在として映り、いずれは追放されてしまう。

組織に対して歯向かうことは、少なくとも日本ではとてもリスクが大きいので、声を上げることで自分が組織から追い出されるぐらいの覚悟を持つ必要があるかもしれない。それが嫌であれば時には我慢して「わきまえる」という行為も必要になるだろう。その匙加減は冷静に見極める必要があると思うのだ。

できるだけ大勢で組織に対抗する

声を上げることは確かに大切だが、一人の力では限界がある。だから、何か意見を言ったり物申したりしたいのであれば、同じように考えている仲間を探してできるだけ大人数で組織に対抗することが必要になる。デモ行進でもストライキでもより大人数で行うことで相手も危機感を抱くだろうし、その段階でようやく改革案を具体的に考えるようになることだろう。

 

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理不尽な学校の校則

学校の細かい校則

小学校までは細かい校則が規定されていなかったと記憶しているが、中学から高校にかけてやたら意味不明な校則が増えたような気がしている。先日も髪色の問題で不登校に追い込まれた生徒のニュースがあったが、なぜか中学や高校における校則はかなり厳しく理不尽なものが多いと今になっても思う。

中学では服装がジャージでの生活が基本だったが、上履きの色やジャージの着方から身に付けるものまで細かくチェックされ、少しでも違反していたら学年で最も声の大きい体育教師に説教をされることがお決まりになっていた。そして、校則とは関係ないがとにかく仲間との協力意識や絆を深めることが大切だ!という風に叩き込まれて見事に洗脳されてしまった。これは大きな罠だった。少し愚痴らせてほしいぐらいだ。

高校生になると、先ほど言及した髪色のチェックが特に厳しくなった。中学でも髪色を派手に染めてくる人はいたのだが、それはあからさまなので注意が入るし、それよりも他の部分で注意される人が圧倒的に多かった。私が高校生の頃は進学校であったこともありぶっ飛んだ髪色にしてくる人はほぼいなかったのだが、同級生(女子)で地毛が赤色寄りの茶髪という人がいた。その人は抜き打ちの服装チェックで毎度のように職員室に呼び出しを食らっており、見ていて何とも言えない気の毒な気持ちになった。その人は染めているわけでなく地毛で茶髪ということだったので何も悪くない。それで「黒髪に染めてこい」と言われるのは全く本末転倒で理不尽なことだったと思う。

何が良くて何が悪いのかを考えてみる

大学生になると校則はほぼ存在しなくなる。高校生まで厳格に細部まで管理されていたのがウソのように自由になる。そして社会人になると男は黒髪、女は黒髪か薄めの茶髪というのが暗黙の了解になる。この一連の流れは一体何なんだろうか。例えば社会人になって茶髪にしても良いのであれば、高校でも中学でも茶髪にして何も問題ないのではないか。化粧だって同様だと思うし、髪色とか服装以前にもっと根本の部分で教育しなければいけない大切なことがあるのではないだろうか。

確かに髪色が金髪とかで派手だと第一印象はあまりよくないように見えるかもしれない。社会人であればなおさらでその点については否定しないが、それこそが単なる先入観なのかもしれないとも思う。明確になぜ金髪がダメなのかを説明しろ、と言われたら、単に「印象が悪いから」としか答えられず、なぜ金髪だと印象が悪いのかを説明することが私にはできない。印象が悪いなんてただの個人の主観であり、明確に悪い理由が提示できなければ生徒に対してそれを強要することなどできないと思ってしまう。ルールだからと言えば理屈は通るが、なぜそのルールなのかと問われればまた答えに窮してしまうことだろう。

何が良くて何がいけないことなのかを考えるのは本当に難しいと感じる。

 

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森会長の問題発言について思ったこと

東京五輪組織委員会の森会長が女性差別発言をしたことにより、ここ数日ネット界隈が大炎上している。発言の具体的な内容としては「女性が多い会議は時間がかかる」というものであり、男女平等やジェンダーフリーが重視される昨今の世の中を踏まえれば批判や炎上につながるのは必至の発言である。

この発言を単純な「老害」と片付けてしまえばある意味簡単なのかもしれないが、本当にただそれだけで片付けてしまって良いのだろうか。私は、この発言やそれに伴う周囲の批判や意見を見て思ったことがいくつかあるし、今後教訓にしなければならないことがあると感じている。

思っていても口に出してはいけないことがある

誰しも本音を持っているし、それを語ってスッキリしたい気持ちを持っている。しかし、それが許されるのはせいぜい小学校低学年ぐらいまでで、中学生にもなれば本音と建前をわきまえて他者とコミュニケーションが取れるようにならなければならない。それは、周囲と協調、協力して生きていくために人間という生き物が身に付けた能力であり、他の動物にはない能力といえるだろう。もちろん、本音を隠しすぎて自分がやりたいことや言いたいことが全く言えないのはストレスになるので、ある程度本音をぶつけることも時には大切である。しかし、心の中で思ったことを憚りもせず周りにぶちまけるのは人間らしさに欠けていると言わざるを得ない。

思いを持つことは個人の自由であり、何を考えているかなど本人以外に分かることはまずありえない。だからどんな思いや考えを持っていようとそれは個人の自由であるが、それをどう表現して相手に伝えるかという側面まで考えてから発言することこそが、人間同士のコミュニケーションの本質である。うっかり本音を口走ってしまうことは誰にでもあると思うが、その言葉を聞いた他者どのような思いを抱くのか、一呼吸おいて想像してから発言するというのが大切なのである。年齢を重ねるごとに感情を制御するのが難しくなるというが、絶対にこのことは忘れてはならないと改めて思い直した。

言葉の重みは人をつくる

森会長からすれば、思わず自分の本音が口から漏れてしまったという形であったのだろう。この発言が出たことにより、森会長自身が女性に対して少なくとも何らかの偏見を持っていることが明らかになってしまった。森会長が実際にどのように思っているのかはさておき、このような発言がなければ本音で女性を差別していたとしてもそれが周りに伝わることはなく、悪い印象につながることは避けられた。しかし、本音が漏れたこの言葉一つでその人間の醜さが表に出てきて、一気に悪い印象になってしまう。

特に有名人や政治家は思っていることがふと言葉として漏れてしまうだけで、自分のキャリアや人生そのものに対しても悪影響を及ぼす程のものになる。人間という動物にとってそれだけ言葉というのは重要であり、言葉一つで人の命を救うこともできるが、逆に自分や誰かの人生を棒に振ってしまうこともある。

自分が普段使っている言葉や発言を振り返り、悪い方向に働いていないかどうかさらに注意しながら発言する必要があると、今回の一件を見ながら思うのである。

 

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男女間の友情を成立させるのは難しい

人類が生きる上で永遠のテーマになりそうなものの一つに「男女間の友情は存在するのか」というものがある。私はこの問題についてずっと答えは「ノー」だと思っていたのだが、そう簡単に言い切れるものでもないと最近思い直し始めた。もちろん、今でも男女間の友情は限りなくゼロに等しいと考えているが、それでも完全なゼロではないかもしれないと思うようになったということである。ある特定の条件や関係下でのみならば真の意味での男女の友情は存在するのかもしれないということだ。

異性愛でない場合

まず両者が同性愛者だった場合、男女間の友情はあり得ると思う。異性愛の男が男を抱くことができないように、同性愛の男は女を抱こうとは思わないし、気持ち悪いとすら感じるのでないだろうか。異性愛の身からは信じられないような感覚かもしれないが、多分同性愛者はこのように感じているのではないだろうか。

そのような男は女に対して極めて自然に振る舞うことができるだろうし、女もそんな男を信頼して友情を育むことが可能になる。どちらか片方が異性愛者であれば相手に恋愛感情を持ってしまうのは必至であるので、やはり両者とも同性愛でなければ真の意味での友情は生まれないと思う。

関係を持った後であれば友情はあり得る

次にお互いに関係を持った後というのがあると思う。男は基本的に性欲を抜きにして女を見ることはできない。それは男がダメな生きものだからという訳ではなく、生物としての本能なのでどうしようもないことなのである。だから、魅力的な女に対して友達になりたいなどとは微塵も考えておらず、自分のパートナーにしたいと考えるのであり、そこに友情などという概念は全くない。

私は男なので女がどう考えているのか正確なところは分からないが、男女の友情はあり得ると豪語する女ほど上記のような男視点をあまり持っていないような気がする。そして言い寄られたら「そんなつもりじゃなかった」となるお決まりのパターン。断るのは構わないが、男とはそういう生き物なのだと理解した上で接してほしいと思う。

ただ、お互いにパートナーとして認め合った後であれば、男女関係は恋から愛になりやがて友情のような形になっていくのではないかと思う。結婚〇十数年とかの夫婦を見ると良く分かるが、恋愛初期のようなラブラブを維持している人たちはゼロではないが、極めて稀である。それは日々一緒に過ごす中で関係が友情方面にシフトしているということを示しているのでないだろうか。

恋愛も素晴らしいと思うが、その恋愛をした人と真の友情関係を結んで生活していけるのはこの上なく幸せなことだと思う。本当の意味での男女の友情は夫婦関係やそれに近しい関係になって数年してやっと手に入るぐらい貴重でレアなものなのではないだろうか。

友情があると豪語する人たちの思う友情は薄っぺらい

それでも、「おれは妻がいるけど女友達とも仲が良い」とか「あたしはなんでも相談できる男友達がいる」といって男女間の友情を肯定したがる人もいる。彼らの言うその友達が友情でないとまでは言わないが、それは果たして本当の友情なのだろうか。その人が他の誰かと一緒になったりしたとき、心の底から喜べるのか。損得勘定なしに彼らの存在を全面で受け入れ、心から祝福することができるのか。少しお互いの状況が変わって自分に不利益が出るようなことがあれば、すぐに音信不通になってしまうようなことはないだろうか。

上記のような考えを抜きにして語る友情は薄っぺらく脆いものであり、ちょっとした痴情のもつれで簡単に壊れてしまうものだと思う。いくら多くの友達がいるとしても、一つ一つが薄っぺらいのであればそれは少々寂しいものである。

 

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罰則を設けることも必要かもしれないけれど

特措法の改正

コロナウイルスによって特措法などの改正が行われている。

www.nikkei.com

 

感染者が入院を拒否したり飲食店が時短要請に従わない場合は命令することができ、それでも従わなければ罰金などの刑事罰を科すことが可能になるという。

感染が拡大する状況であり、私権を制限することもある程度やむを得ない状況であるとは思うが、この話題についてあまりスッキリしない気持ちになるのはなぜだろう。

罰則と補償がセットのロックダウン

感染拡大期、よくこんな声が聴かれた。「緊急事態宣言出しても強制力がないのは意味がない」「短期間ロックダウンして一気に封じ込めろ」「夏ごろにさっさと特措法改正しとくんだったな」。

去年の春ごろからよく聞くようになった言葉に「ロックダウン」がある。訳すと街封鎖というような意味らしい。自粛を促して判断を個々人に任せるのではなく、命令して休んでもらう代わりに補償もするというのが欧米が行っていたロックダウンである。

簡単に言うと、「補償はするから休め」ということであるので分かりやすい。個人を重んじる欧米諸国で自粛というあいまいな要請に従う人が多くいるとは思えず、命令によって罰則と補償を設ける必要があるということだ。

罰則は必要かもしれないが、補償もして欲しい

現在も緊急事態宣言真っ只中ではあるが、正直あまり実感がない。ほぼ毎日ずっと家に居るからかもしれないが、どうやら外出している人もそれなりにいるみたいだし、昨年の春みたいに全国民が一致団結して外出自粛するということはもうできないのだろうと感じる。お願いレベルで対応できないのであれば法律を改正して強制力を持たせる必要があるというのも一理あると思う。

だがお店を経営している人達はそんなことは言っていられない。毎日の売上が生活の命綱になっているだろうし、お客が来なければ売上が上がらず生活していくことができない。自粛に応じた事業者に対しては支援するという内容もあるが、厳密にいうとそれは補償とは異なり、補償と比較すると心もとない。やはり補償が求められるのは当然のことだ。

終わりにすこし

あとは単純にこの法律を改正するのが遅すぎたということ。もう一年ぐらい経過しているのに、最近やっと改正に踏み切ったということである。もっと早く議論して改正することはできたと思う。

政府は我々一般市民が想像もできないぐらい膨大な課題を抱えていて、捌いていくのにも時間がかかるのだろう。だから我々は政府に対してそこまで偉そうなことは言えないのだが、もう少し準備できることとかがいくつかあったのではないかとも思う。

経済と上級国民を大切にする姿勢も良いが、その他大勢の国民の声にももっと耳を傾けてほしいと感じる。でなければ投票したい政党が無くなってしまう。

 

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