rk-baryoのゆるっと日記

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わきまえる、わきまえないの論争

約1カ月ほど前に森会長(当時)が女性差別発言をしたことにより、「#わきまえる」「#わきまえない女」などのハッシュタグで自分の意見を主張する人が出てきている。本日の朝日新聞朝刊でこの話題に触れており、読んで色々と思うことがあったので私なりに感想を述べてみたいと思う。

基本的に本音は抑えず主張すべし

森前会長の発言を皮切りに、様々な人がわきまえず意見をすることが大切だと主張するようになったが、私も基本的にはこの意見に賛成である。立場の弱い人が苦しい状況を泣き寝入りする悲しい状況を変えるには、その立場の人たちが自分の意見を伝え、どうして欲しいのかを言わなければ状況が好転することはない。黙っていれば、沈黙=同意と受け取られても文句は言えないだろう。

「わきまえない」とは、その場の空気や雰囲気をあまり気にせずに自分の意見を貫いて主張すべきということである。学生時代にはスクールカーストなどもあり、グループのリーダー的な人が言うことに逆らって自分の意見を主張することは容易ではないだろう。また、サラリーマンであれば上司に向かって物申すというのは一昔前であれば憚られることだったと思う。それでも、ここ最近は個人の自由や権利を重んじる思想が多くの人に理解されるようになり、昔よりは意見を言いやすい環境になってきていると思う。

私の経験では、自分が思っていることは他にも誰かしら思っているという場合は多く、無言の同調圧力に屈せずに自分の考えを明確に言葉にして主張するというスキルはますます重要になっていると感じる。

わきまえないことは必ずしも正ではない

ここまで「わきまえない」ことが大切だと述べてきたが、一方で状況によって必ずしも「わきまえない」ことが正しいとは限らないのが厄介なところである。

人は基本的に組織の中で生きている。もちろん個人の存在や意見は尊重されるべきであるが、それが組織全体の目的や方針と合わなければ個人の意見は破棄され、組織として別の意見が採用されることが多い。個人として意見が異なるのはもちろん構わないと思うが、それが嫌であれば自分の意見と合う別の組織に行ってくれ、というのが組織としての本音だろう。従業員を1万人抱える企業のうち社員一人が何か声を上げたところで、他に同様のことを考えている従業員が少なければ少数意見は黙殺される。それでも組織と反対の意見を貫き通せば、組織にとって目障りな存在として映り、いずれは追放されてしまう。

組織に対して歯向かうことは、少なくとも日本ではとてもリスクが大きいので、声を上げることで自分が組織から追い出されるぐらいの覚悟を持つ必要があるかもしれない。それが嫌であれば時には我慢して「わきまえる」という行為も必要になるだろう。その匙加減は冷静に見極める必要があると思うのだ。

できるだけ大勢で組織に対抗する

声を上げることは確かに大切だが、一人の力では限界がある。だから、何か意見を言ったり物申したりしたいのであれば、同じように考えている仲間を探してできるだけ大人数で組織に対抗することが必要になる。デモ行進でもストライキでもより大人数で行うことで相手も危機感を抱くだろうし、その段階でようやく改革案を具体的に考えるようになることだろう。

 

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