rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

痛みを伴わずに恩恵を受けるのは難しい

在宅勤務中心の生活になってから余計なことを考える時間が増えてしまい、なんとなく心につっかえているモヤモヤした気持ちを言葉にしてスッキリさせたいと思っている。無論、モヤモヤしていることなんて山のようにあるのだが、少し考えて言語化できそうなものからどんどんブログに文章として残していきたいと考えている。

冬季賞与支給の見送り疑惑を耳にして思ったこと

実は会社からの夏季賞与支給のタイミングでちらっと聞いていたのだが、夏季賞与は通常通り支給されるが冬季賞与はもしかすると支給されないかもしれない、ということが噂されていた。本来賞与というのは会社の業績が良かった時に特別に支給されるものであり、通常は支給されなくて当然のものである。しかし、毎年ほぼ必ず賞与が支給されることから我々はそれに慣れてしまい、支給されるのが当たり前だと思うようになってしまった。賞与が支給されないともちろん年収の減額に直結するし、お金の使用計画も変わってくるのでサラリーマンにとっては死活問題になることもある。

一方でよく考えてみると、これはある意味で一種のギブアンドテイク的なものかもしれないと思うようになった。今年の3月以降、私の所属する会社では8割以上の社員が月8割以上の日数で在宅勤務を行うようになった。そして会社の顧客企業もまた在宅勤務が増えてきており、今までのようにビジネスがスムーズに進まなくなってきた点は否めない。それは会社の業績低下という形で明確に表れ、我々末端の社員の賞与の減額または返上につながってくる。その代わり、働く労働者である私たちは日々の苦しい満員電車やウザったい同僚や上司と毎日顔を合わせる必要もなくなり、在宅で睡眠時間もたっぷり確保して健康的な生活を送れるようになった(逆に生活リズムが乱れた人も一定数いると予想はできるが)。

お金を取るか時間を取るか

上記を究極の二択として考えることができるだろう。つまり、賞与(お金)をとるか、時間を取るかということである。できれば両方取りたいのが人情ではあるが、これだけの短期間で状況が急激に変化したため、やはり会社の業績が今まで通りという訳にはなかなかいかないだろう。まだ完全リモートで仕事を全く滞りなく進めていくには少し時間がかかると個人的な感覚でも思う。現段階でそれができる会社も存在するだろうが、そういう会社はもう5年以上前から虎視眈々と準備を進めてきた会社であり、この期間の変化にもそれなりに上手く対応して業績も維持しているのだと思う。

出勤の手間が減って時間が増える分、年収は多少減額されるというのは仕方のないことだと思う。やはりどこかである程度楽をしている分、別の箇所で必ずしわ寄せが出てくるということは理解して受け入れなければならないと感じる。

 

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一度身に付けたスキルは簡単に忘れないのであれば

小さい頃に習ったことは不思議と忘れない謎

私は大人になって不思議に思うことが一つある。それは、今現在水泳を習っていたり頻繁に水の中を泳ぐ機会があるわけではないのに、たまにプールに行って泳ぐと普通に泳ぐことができるということである。子供の頃にスイミングスクールに通っていたが、その頃からもう十数年以上経過する。年月がある程度経過したら体は泳ぐことを完全に忘れてしまいそうなものだが現実はそうでもなく、今も水の中に放り込まれて泳げと言われたらそれなりに泳ぐことができる感覚がある。同様にサッカー経験ゼロの人がノーバンリフティングを10回やれと言われたら大抵の人はできないと思うが、私はサッカークラブに所属していたことがあるので、3回ぐらいチャレンジすれば今でもほぼ間違いなくできる。サッカーから離れて数十年経つにも関わらずである。

人間の体や脳は一度記憶した体の動作をよく憶えているものだとつくづく実感する。逆に考えると、一度ある程度覚えてしまえばそのスキルは自分のものとして身に付き、少々の怠慢で喪失するものではないと思われる。おそらく、脳内に一度できた回路はそう簡単には無くならないということかもしれない。中学生の頃に必死になって覚えた英単語や洋楽の歌詞、高校生や大学生の頃にカラオケで歌いまくった曲は今でも聞けばそれなりに思い出すことができるし、歌詞もあまり忘れていないことには本当に驚く。時間をかけて何回も反復して覚えたことはしっかりと記憶に残るという人間の素晴らしい能力だと思う。

脳内回路のストックを作っておく

何事にも当てはまるが、新しいスキルを身に付けるにはそれなりの労力が必要となる。英単語を覚えることやキーボードのブラインドタッチを指で覚えることなど、体を使うことだけではなく頭を使うことでも新しい脳内の回路を作るのは簡単なことではない。今でこそ多少はマシになったが、私もプログラミングの考え方を理解するのに何回も挫折し、自分には向いていないからやめようと思った時もあった。ただ、一度でも回路を作ってしまえばそれは生涯に渡って自分の強力な武器となる。身に付けた後は常に磨き続けていなかったとしても、必要な場面で記憶を呼び出してあげればあっという間に思い出して活用でき、新規で習得していくよりはるかに短い時間や労力で済む。このように考えると、人生のなるべく早いうちにできるだけ多くのスキルを自分の体と頭の中に叩き込んで回路をたくさん作っておくことは非常に大切だと思うし、仕事において先輩や上司が若いうちになるべく勉強しておけ、と口酸っぱく言うことにも納得できる。

新しいことを始めるのに年齢は関係ないと思うが、できるだけ若いうちから始めた方が習得するのは早いだろうし、より身に付きやすいと思う。だから、自分が一番若い今この瞬間から興味のあることややりたいことに対して積極的に取り組む姿勢は大切だと感じている。

 

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余裕がない時にこそ冷静さを忘れずにいたい

余裕のない時に人の本性が分かる

心に余裕がない時、人間は自分で思ってもいなかった行動をとったり発言をしてしまったりする。仕事で納期が迫り来る中、思うように作業が進まなかったり同僚または部下が期待した動きをしてくれなかった時、思わずキツめの口調で注意してしまう人もいる。または、家庭の煩わしさに疲れて癒しや安らぎを求めた結果、あってはならない不倫関係の泥沼に陥ってしまったり、薬物依存症になってしまったりする。当事者も頭ではそれがいけないことと分かっているのだろうが、世の中においてこれらの事象の発生は後を絶たない。本能は我々が想像している以上に正直ということなのかもしれない。

余裕がないとパフォーマンスが落ちる

だが、様々な状況でこの本能が邪魔になるときがある。それは特に自分のパフォーマンスをしっかり発揮したいときであり、仕事だったり何かの試験などでも当てはまる。冷静に焦らず一つひとつを着実に考えていけば簡単に終わるような作業や問題でも、意識が散漫になって目の前の作業から目をそらしてしまうとあっという間に頭が混乱し、自分で考えもしなかったようなミスを犯してしまうことがある。集中力が落ちると作業が捗らないというのはまさにこれが原因だと私は考えている。

特に私の場合は会社で残業などをしていると、本来ならば30分程度で終わるボリュームの作業に平気で2時間も3時間も費やしたりすることがあった。目の前の作業よりも、「今日終わらなかったらどうしよう」とか「早く終わらせてさっさと寝ないと明日起きられねぇ」とかそんなことばかり考えながら作業をしているのだから、効率が落ちたりミスが増えるのも無理はないだろう。無論、全ての人がこのように焦ってしまうわけではないだろうが、それなりに追い詰められた状況において、人は通常通りのパフォーマンスすらままならないということを痛感した。

パフォーマンスのブレを減らすために

それでも私は、どのような状況でも自分のパフォーマンスの70%以上は出せるようになりたいと思っている。テストで残り時間が3分しかないのに200文字以上の記述問題が3問残っているという絶望的な状況で諦めることは簡単だ。しかし、仕事のように何が何でもそれなりに結果を出さなければならない場合、諦めることしかしてこなかった人間はそこでもうひと踏ん張りできない。そのひと踏ん張りがあれば部分点がもらえて辛うじて合格ラインに届いたかもしれないし、少なくともマイナスになることはなかったはずだ。

どんな状況においてもきっちりと最後まで考え抜く力や、一つ一つの事象を丁寧に確認することができる能力こそ、”今を大切にする”ということであり、人生における多くの場面で役立つソフトスキルの一つなのかもしれないと最近になって思う。個人的にはプレッシャーのかかる状況に置かれるのを好むわけでもないし、単純な精神論で人を育てるやり方にも賛同はできない。だが、もし今後自分がプレッシャーのかかる余裕のない状況に置かれたら、むしろ自分の能力を伸ばすチャンスという意識を持てるぐらいになれば精神的に一歩成長できると思っている。

 

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在宅勤務時こそ有給休暇が大切である理由

在宅勤務で気を付けたいこと

相変わらず在宅勤務の日々が続いている。私が所属する会社でもいよいよ定期代の支給を停止するのかどうかが選択肢として労働者に与えられ、ほぼ8割以上が定期代支給を停止して在宅勤務にシフトするという事態になっている。

在宅勤務を続ける中で気を付けなければいけないこと、それは働き過ぎである。一見在宅勤務であれば働きすぎという概念からは無縁に思えるかもしれないが、集中して没頭できる自宅という環境は無意識に長時間労働につながりやすいこともあるようである。集中できるから仕事をやりすぎてしまう、家に居ていつでも仕事用のPCを触れるから、つい気になる仕事を片付けるために深夜にPCを開いてしまうという人もいるらしい。私もつい、自宅だからまあいいかと思って妥協して少し残業してしまったり、定時内に片を付けなければならないという意識がどうしても薄れてしまうことはある。

没頭できることや仕事熱心なことは決して悪いことではないが、日常的にそのようなことが続いていくと、自分では認識できない疲労やストレスが知らず知らずのうちに溜まっていき、ある日突然崩壊してしまうということもあるかもしれない。最近は芸能人の自殺が相次いでいるが、コロナ前の世界からの変化があまりにも急激でその変化に心と体が追い付いていかないことは一つの原因だと思う。

こんな時だからこそ生産性をより意識すべし

私が在宅勤務でも特に意識していることは、仕事はなるべく定時で切り上げ、有給休暇もできるだけ定期的に消化することである。それは在宅勤務が主流になる前から自分自身に課してきた課題であり、在宅勤務になったからといって簡単に変えてはいけないとも思っている。

私の周囲の同僚を見ると、積極的に有給休暇を消化している人はあまり多いようには感じない。それだけ私が暇で他の人が業務を多く抱えていて忙しいというのも理由の一つではあるかもしれない。が、有休をとるために仕事を手早く終わらせるという選択肢を高く意識している人はそこまで多くないと見受ける。以前に自己啓発本で読んだが、「生産性=アウトプット÷インプット」であり、アウトプット(成果物の質と量)を増やせば増やすほど生産性は上がるが、同比率でインプット(労働時間)も増えてしまえば生産性としては変わらないということになる。生産性を上げたいのであれば、成果はもちろんその成果を生み出すのに捧げる労力を下げなければならない。

インプットを下げるには休暇を取得して労働時間を減らすのが最も手っ取り早く、労働者は生産性を落とすことなく休めるメリットがある。そして休むことは、実は自分が思っている以上に今自分自身の内面が求めていることかもしれないのだ。

こんなことを考えながら、少し暗くどんよりとしていてちょっと味気ないけれどささやかに幸せな日々を最近は過ごしている。

 

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残業に対する最近の考え方について

学生から社会人になった時に感じたギャップ

社会人になる前、私は仕事で残業をするのは当然のことだと思っていた。私が大学生の頃既に社会人になっていた先輩に色々話を聞く中、先輩たちはそれなりに残業をしているようだった。または、実際は残業したくないけれどある程度はしょうがないよね、という多少の諦めと、プライベートをある程度捨てて会社のために働く自分カッコいい!というような多少の自慢の雰囲気を感じることもあった。その話を聞き、残業って案外楽しいものなのかもしれない、と何も知らない私はひそかに期待していた。

しかし、実際に自分が社会人になると、残業がどれだけ自分に合わず辛いものかということを思い知らされることになる。私にとっての残業というのは自ら主体的にやるものではなく、強制的に誰かからやらされるものだった。残業代すら支給されないその時間に自分の意志は一ミリも反映されず、ひたすら受動的な作業と上司からの叱責が続いた。

今でこそ稀に自分から能動的に動いて残業をすることもあるのだが、新人~社会人2,3年目ぐらいの時代に残業とパワハラで心も体もボロボロになった時を思い出すと、やはりあまり乗り気はしない。私にとって残業というのは幼少期に植え付けられたトラウマのようなものである。

仕事の振り方について最近思うこと

残業をさせるぐらいの仕事量を振る上司や先輩が悪い!

私はずっとこう思ってきたし、今でもこの考え方の根本は変わらない。しかし、最近後輩に少し仕事を振ったりする機会がある中、定時までに丁度良く終わる量の仕事を振るのは相当難しいと感じている。

まずはその仕事の全体量と進め方の流れや手順を自分で考える必要がある。次にそれを自分で遂行したらどの程度時間がかかるのかを大まかに見積もり、後輩が遂行したら自分とどの程度差が出るのかも予想する。最後に予想した時間が所定内程度に収まる分の仕事を後輩に依頼する。ある程度正確な作業を振ろうと思えば最低でもこのぐらいは考える必要がある。

面倒を見る後輩が1人や2人程度なら問題ないが、10人分の業務を配分するとなるとこんな面倒なことはやっていられない。よって仕事の振り方もかなり大雑把になるだろう。仕事を受ける側のスキルにもよるが、やはり配分ミスはどうしても起こってしまうだろうし、多すぎれば残業や休日出勤が避けられなくなる。仕事を振る側の人間が相当優秀でなければ、適切な配分で仕事を割り振ることなど不可能だと思う。

だから、丁度良い量の仕事を振るのは難しく、どうしても多めに振ってしまうからやはり残業はなかなか無くならない。

残業を受け入れるならば

であるならば、日本で働く限りある程度の残業というのは今後覚悟していかなければならないのかもしれない。その時、できるだけ過去の嫌な思い出が蘇らないようにするには、意識して能動的に動くしかない。

時間外の勤務時間に人から指示されたことをやるだけではただの奴隷とほとんど変わらない。”やらされている”から”やっている”という意識を持たなければやっていられないものだろう。その意味では、冒頭に述べた社会人の先輩のように「残業する自分ってカッコいい!」と思うのも一つの正解なのかもしれない。この考え方は手放しに褒められたことではないと思うが、嫌なことをポジティブに捉えて能動的に行動していくという意味ではとても良いマインドだとも思う。

 

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大手企業に入る人とそうでない人の違いとは

転職をしてから2年ほど経過する。思えば2年前に電撃的に前の会社を辞め、それから夏の3ヶ月は転職活動以外はほぼニートのように過ごす中で暇つぶしにこのブログを書き始めた。もう2年も経過するのかと思うと感慨深いものを感じる。

その転職活動で私は中小企業からそこそこの大手企業に転職することに成功した。当時、中小企業から転職した身としては、大手企業と言われる組織に属する人々はどれほど能力が高いのかということに対して興味深く思っていた。そして2年が経過した今、周りの人を見てきて前の会社の人たちとほとんど能力的に差がないということに気付きつつある。

能力的な違いはない

2年間今の会社で過ごし、同僚の仕事におけるスキルレベルは前社でも現会社でも大きな違いはないと感じている。今の会社で飛びぬけて技術力が高い人は確かに存在するが、前の会社でもそのような人は存在していたし、私はその人を先輩として心から尊敬していたし、今でもあの先輩だったらこの仕事どうやって対応するだろう、と想像することもある。仮に前の会社の先輩が今の自分の会社に来てもかなりスキルレベルは上になると思うし、今の会社が大手だからと言って同僚のスキルが特別に高いとは感じない。

能力的に大差はないはずなのに、入れる会社が中小と大手とでは年収や福利厚生面を含めた待遇に大きな差が生まれてしまう。今中小企業で満足できない条件で働いている人が、決して大手企業で働いて能力的に不足がある、ということは必ずしも当てはまらないと思うので、満足できない境遇で働く人も転職を諦めてはいけないと思う。むしろ、中小企業に属する人の方が専門性が高く、ある特定の分野に対してのスキルは特化されているようにも感じるぐらいである。その人たちがもっと満足に働ける環境は他にもありそうだ。

新卒の就活は8割以上相性と社風に合うかかどうか

2年前、大して能力がなかったにも関わらず私が今の会社に入社できたのは、実力ではなくほとんど運だったのではないかと今思う。新卒や第二新卒程度の身分でスキルレベルや実績を評価されて転職できるということは、よっぽどのエリートでもない限りあり得ない。であれば何が評価の対象になるかというと、潜在能力、いわゆるポテンシャル採用だと思う。今後自社に入って育って活躍してくれそうかどうか、現在の姿勢から将来の姿を想像する。または性格が社風にマッチしているかどうかという点などもあるだろう。たまたま面接でマッチする会社に出会えれば良いが、そうでない人も多くいるので、この運の良しあしで人生の半分ぐらいが決まってしまうという恐ろしさを感じる。

まとめ

自分が大手企業に入っているからと言って、それは自分の能力が高いということを必ずしも意味するわけではない。なぜ自分が今の地位で居られるのか、そのことをしっかり理解した上でおごらずに行動し、地道な努力を重ねていける人がどんなところに行っても必要とされる人材になるのだと思う。

 

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ドコモ口座の事件はなぜ起こったのか~SE視点での推測

先週末ぐらいから世間を騒がせているドコモ口座の問題を見ていて思ったことがあるので私なりの意見を書いていきたい。

原因はコミュニケーション不足ではないか

ズバリこの問題が発生した原因は、協業する中でのドコモ側と銀行側のコミュニケーション不足が原因ではないのかと思う。

もちろん私はこの会社に属しているわけではないので、事業やプロジェクト(以下、PJ)の実情を把握しているわけではない。だが、このPJは結構ピリピリした雰囲気のPJであったのではないかと勝手に想像する。NTTのような巨大企業が一次請けベンダーとなって銀行を相手に大規模なシステムを組む場合、その配下に何十あるいは何百もの下請け孫請けのSIer会社が参画するものである。そのため、仕事の指示は一次請けベンダーのリーダーからバケツリレー式に様々な下請け孫請け会社に引き継がれていき、その過程で情報の質はどんどん劣化していく。最終的に指示が末端の作業者に届くころには当初の指示とは全く異なる内容になっていたりすることも多い。私が前の会社にいた時はこの暗黙の形式に戸惑って苦労した。

真偽は確かではないが、そのような中で互いに仕事の相談や報告などのコミュニケーションが十分に行われなくなり、あるいは伝達がうまくいかなくなる。そして、互いに仕事に対する認識が乖離したまま出来上がったのが、セキュリティがガバガバのドコモ口座システムだったのではないだろうか。

これは何の根拠もない私の勝手な想像でしかないが、ピリピリした雰囲気の現場がうまく回ったことは今までの経験上皆無であり、働きづらい職場環境であっただろうことが容易に想像できてしまうのである。

仕事上でコミュ力が大事といわれる理由

仕事上でコミュニケーションをとるのは面倒なことも多い。気の合わない同僚や嫌な上司とは顔を合わせるのですら苦痛なのに、会話をするなんてもってのほかというのが正直な気持ちである。そして大きなPJになればベンダーと下請け・孫請けというSIerカーストに飲み込まれ、他社の人間に気を遣って媚を売りながらPJを回さなければならないという、途方もないやりづらさがある。個人差はあるだろうが、私はこの形態でやらされる仕事にはうんざりだった。

しかし、仕事仲間とのコミュニケーションを避けていると仕事や成果物に対し、次第に管理者側と作り手側の認識のギャップが広がっていき、気が付いた時には取り返しのつかないぐらい大きな溝となってしまうこともあり得る。そんな状況が発生してしまうことを避けるために、嫌な上司やムカつく同僚とも仕事と割り切ってコミュニケーションを積極的にとらないといけないのかなとも思う。今回の事件は、そんな仕事を進める上での当たり前のことを思い出させてくれた。

もしコミュニケーションをとるのがどうしても嫌であれば、その職場は自分がいるべき場所ではないのだろう。今回のように、自分がコミュニケーションを取れないことが回りまわって周りの多くの人に迷惑をかけてしまうことにもつながりかねないし、自分自身も嫌な思いをしたくないのであればやはり環境を変えるしかないのかもしれない。

この事件が起こった背景を私なりに想像するとあながち他人事とも思えず、少しではあるがシステムの作り手に対して同情したり共感する気持ちも湧いてくるのだ。

 

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たまには会社に出社するのも悪くないと感じたこと

まずは何気ない日々の生活に感謝したい

日々生活を送る上で便利だなとかありがたいなと思っていたことに対しても、毎日繰り返しているうちにそれを当たり前だと感じるようになり、そのありがたみを特別だと感じなくなってしまうことは多いと思う。

例えば、健常者は大抵いつも健康で生きる上で何不自由なく生活していると思うが、ひとたび大怪我や大病を患って自由に身動きが取れなくなってはじめて不自由ない生活をありがたいと感じるものである。私は最近特に体調を大きく崩すことも大怪我をすることもなくそれを何とも思わずに生活しているが、色々と生きづらい最近の世の中において、改めて決して不自由ではない自分の状況に感謝しなければならないと感じる。

久しぶりに会社のメンバーと会って感じたこと

先週会社に出社した際に約半年ぶりぐらいに顔を合わせるメンバーがちらほらいた。今は在宅勤務が主流で週に1、2日ぐらい出社するような流れになっているが、個人によって出社日はバラバラであるため、なかなか会うことができないメンバーもいる。先週は珍しくかなりの人数が出社していたため、久しぶりに顔を合わせる人もいたということだ。

久々に会話をしているうちにコロナ禍以前の雰囲気とか自分の中の感覚を少し思い出し、懐かしい気持ちになった。雑談やちょっとした業務連絡をする中で、職場とは言え人と何かしら会話をしたりコミュニケーションを取ることはとても大切なことだし自分にとって必要なことだと心から感じることができた。在宅勤務でウェブ会議を行う機会は頻繁にあるのだが、やはりリアルでのコミュニケーションに勝るものはないという実感を得た。

出社あってこそ在宅勤務のありがたみが深くなる

そして同時に思ったのが、やっぱり在宅勤務って良いなということである。全く出社をせずに在宅勤務ばかりしていると他者とまともな会話をしないせいでだんだん心が荒んでくるし、次第に体がだらけモードになって無気力になってくる。そりゃあ在宅であれば睡眠時間も長く確保できるし移動や服装や雑音のストレスもなくて快適ではある。だが、定期的に出社をして自身を適度なストレスにさらすことでメリハリのある生活につながり、より在宅勤務にも身が入るというものなのかもしれないと最近は思っている。

現在世の中の状況はカオスに近い。そんな中で出社せずして仕事に支障が出ないのであれば可能な限り出社しない方が良いだろう。それはどうしても出社しなければならない自分以外の人々が受けるリスクを可能な限り減らすためだ。ただ、あくまでも自分自身の心と体の健康のため、メリハリのある日常を求めるのであれば適度に出社するなりして自分をストレスにさらすことで、より張りのある日常生活を送ることができるのではないだろうか。

 

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全ての人が好きなことで生計を立てていくことはできない

誰もが大勝ちできる可能性がある世の中

現代ではテクノロジーやメディアが発達したおかげで、昔よりも人生において多くの選択肢の中から自分の好きな生き方を選ぶことが可能になった。YoutubeInstagramTwitterなど、多種多様なソーシャルメディアにより、一個人の意見をより多くの人々に伝達することが可能となった。私も趣味程度ではあるが、こうしてブログに文章を打ち込むことで、私個人のが自分の意見を主張し、読者の方に何らかのインセンティブを与えることも可能である。ある意味とても良い時代になったと思う。

一方で、成功している一個人の意見を鵜呑みにし、あたかも誰しもが好きなことだけやって成功できるはず!と信じて疑わない人々も一定数いるように見える。もちろんそのような人が成功することも可能性としてはなくはないと思うが、やはり全員が全員それを実現するのは不可能ではないかと私は思う。

成功者の本質は今も昔も同様

自分の商売が軌道に乗ってきたとき、お金の問題はほぼなくなるが、すぐに人員不足という状態に陥る。通常であれば事業を拡大し、売上金額をどんどん伸ばしていきたいので、そういう時は人を雇うことになる。単純に考えて、誰かが自分の好きなことを続けてどんどん儲けを増やしていきたいのであれば、その誰かに従属する人々が必要になる。もうお分かりだと思うが、それこそが会社という仕組みであり、社長やCEOを会社のリーダーとしてその下に社員が雇われているということである。

また、成功しているYoutuberはより自分がやることやジャンルを増やし、今よりもっと多くのお金を稼ぐことを目的としている人が多い。彼らは既に月収何百万円も稼ぐため、税金の支払い額も半端ではないだろう。であれば累進課税でない法人税が適用される法人=自分の会社を立ち上げて活動すれば良いという考えもあるだろう(大雑把に述べたており実際はこんな単純ではないが)。

こう考えると、今も昔も成功者がとっている行動の本質は変わらない。自分がやりたいことがうまくいくようになり、会社を立ち上げ従業員を雇ってさらに事業を拡大していくということであり、単純明快だ。

いつの時代も成功者は一握りである

最初に述べたように現代においては一人一人誰もが自分の好きなことや独自性などを周りにアピールし、それを仕事につなげていくことができる可能性を持つ社会といえることは間違いないと思う。しかし、全ての人間がそうなりたいと思うわけでもないし、結局は雇い主と従業員という関係に終着するモデルでは物理的に不可能である。

成功しているほとんどの人は最終的に自分の会社を立ち上げたがる。成功という言葉の定義がどの程度なのかにもよるが、このような人たちはきっとメディアが発達していなかった昔の時代に生まれていても、何らかの形で事業や会社を起こしていたのではないだろうか。そしてそれに従属する労働者たちは、自分が好きでないことも渋々受け入れてやっていくしかないのだろう。それは今も昔も変わらないだろう。

いつの時代でも成功者は一握りであり、そのほか大多数の人々はそれに従属する形で存在しているに過ぎないということだと思う。そして従属していることに対して特に不満がないのであれば敢えて大きな成功をつかみに行く必要もないと思う。

 

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頑張るということ、ポリシーを貫くということについて

自分のポリシーは大切にすべき

人は誰しもどんな場面においても自分なりのポリシーを持って生活しているものだと思う。私の場合で言えば、仕事において可能な限り効率的に時間外労働をせずに日々をやり過ごすように工夫する。その他日常生活も含めると、人によって態度や接し方を変えないこと、相手の発言や価値観を否定しないこと、他人の意見は参考にしつつも、最終的には自分がやりたいことという尺度で行動を決めていく、頑張りすぎないこと、などがある。

そして、これらは自分の中のポリシーであると思っている。ポリシーとは、政策、方針のことである。我々は生きていく中で様々な問題や困難にぶち当たることがあるが、その際に自分がどのように決断して行動していくかどうかのヒントになるのがポリシーであると考える。そのため、基本的には何が起ころうとどんな状況であろうが、ブレずに自分が決めたこれらのポリシーに沿って行動していくことこそが筋を通すということであり、自分らしく幸せに生きるための行動となるのである。

ポリシーを貫く=頑張るということなのか

最近、自分のポリシーを守るために頑張っている自分をふと発見することがある。例えば仕事をしていて作業に集中できている状況が続き、定時を過ぎてもまだまだやれそうな気分にあるとき、それでも自分の中で定時にはその日の仕事を止めるというポリシーがあるため、強制的に終了することにしている。そう、私は定時に仕事を止めるということを頑張って実行するようにしている。

これはポリシーを貫くという意思での行動ではあるのだが、「ポリシーを貫くために頑張るという」行為が「頑張りすぎない」というポリシーと相反するものだと最近になって気が付いた。頑張りすぎないことを目指すのであれば、頑張ってその日の仕事を止めるのではなく、成り行きで少し落ち着くまで残業して仕事を続けるというのも一つの考え方かもしれない、と思う。このあたりの加減の仕方がまだ自分の中で確立されていないと感じる。

ポリシーを守りながらそれに固執しすぎないということ

ポリシーというのは物事に対する自分なりの指針や方針であるから、大原則としてそれらを守って行動するのが正しいことだし、常にそのように行動をしていきたいと思っている。ただ、それは同時に柔軟性を持った対応力に欠けるという大きな問題を抱えているということでもある。年齢を重ねるにつれて自分なりのポリシーを確立する人は増えるが、その分頑固で融通が利かないというのはあまり良く思えない。

自分のポリシーを明確化した上で、どこまでなら柔軟に対応できるのかをその時の状況によってなるべく適切に判断して行動できるよう、バランスを取りながら行動できるようになりたいものである。

 

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