rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

文章を書くことで自分の考えを整理する

個人的な思い出と今思うこと

今週のお題「読書感想文」

今でこそ私は文章を書いたり読んだりするのが好きだが、子供の頃は文章を書くのも本を読むのも大嫌いだった。夏休みの宿題は必ず読書感想文が最後に残ってしまい、結局自分一人では何もできずに半分以上親に書いてもらい、結果的に何か賞を取るというズルをしていた思い出がある。

今となってはなぜ多くの子供が文章を書いたり読んだりするのが苦手だったり嫌いなのかがなんとなく分かる。それは、読み書きを楽しいこととして捉えておらず、辛いものという先入観を持っているから、という部分が大きいのだと思う。嫌なことだけど頑張ってやりなさいと親から刷り込まれた結果、本当にその対象を嫌なものとしてしか認識できなくなってしまうことは往々にしてある。私についても、何の先入観も持たずに取り組んでみたらもっと読書感想文を好きになることができたかもしれない。

自分の考えを文章にしてまとめる意義

人間という生き物は文字や言葉を使ってコミュニケーションをとることができる希少な動物である。自分の心の中でなんとなく思っていることを言葉という形にして明確に相手に伝えることができる。文章というのはその最たるものであり、過去に歴史上の偉人が岩に残した文字や書物にまとめた文書により、当時の状況や起こった出来事を後世に残して伝えてきた。

読書感想文もただのブログの記事も根本にある考え方は同じだと思う。自分なりに咀嚼した思いや感想を文章に書き起こす段階で頭の中の情報や感情の整理が自然と行われ、書いている途中で自分自身が思ってみなかったような発見をすることがある。今私もこうしてブログに文章を書き起こしている中で色々な思いが言語化されてこの入力フィールドに文字が並べられている。このように、自分の考えや心の中のぼんやりした感情をしっかりまとめるためにも、文章を書くというのはとても有益なものであると私は思う。悩みや悶々とした感情があるなら誰かに打ち明ける、または一人粛々と文章化する、ということだ。

読書感想文において最も大切なこと

私が子供の頃は読書感想文に何を書くべきなのか全く分からなかった。だからただ物語のあらすじをダーッと書いて、最後に「面白かった」などという薄っぺらい感想を添えておしまいという普通の小学生の9割以上がやりそうなことを例に漏れず私もやっていた。

だが、読書感想文という名前であるからには感想の部分が一番大切なのであり、そこが薄っぺらい一行だけであれば読み手にインパクトを与えることはできない。大事なのは、自分がなんとなく思ったことや感じたことをしっかり言葉にし、分かりやすく文章化すること、そのために考えること、である。これができるとその後の自分の人生で考え方や行動にある程度の指針を与えることができる可能性が高くなるし、人間的にもより豊かになっていくのではないだろうか。

 

adios

SNS上で狂喜乱舞するアベガーを尻目に思ったこと

昨日、我が国の首相である安倍総理が辞任する意向を発表した。体調不良ということで致し方ないものであり、まずは静養して回復に専念してほしいと思う。

そしてSNS(主にTwitter)ではそれまで「安倍辞めろ」を連呼していたアベガーやアベノセイダーズの人たちが喜びを爆発させ、あるいは「突然やめるなんてムセキニンダー」と打って変わってツンデレ気味に訴える様子を頻繁に目にした。自らのストレスや怒りの矛先をぶつける相手を失ってしまった彼らアベガーはこの先、何を生きがいにしていけば良いのか、少し考えてしまった。

安倍さんも首相の前に一人の人間です

前置きの冗談はここまでにして、体調不良での辞任を発表した安倍首相に対して自民党議員はもちろん、基本的には対立しがちな野党の議員からもある程度労いの言葉や体調を気遣う言葉が見られ、批判するような人はほぼ皆無であった(一人だけ例外がいたが無視する)。普段は反対意見で対立ばかりしている野党がなんとなく好きになれないのだが、やはり大半の政治家は道徳的な心はそれなりに持ち合わせているのだと思い、少しだけ安心した。

それに比較し、Twitter上でのアベガー達の民度の低さというのは凄まじい。もちろん、SNSで悪口を吐きまくるアベガーなんて国民の数%にも満たないだろうが、どのような生き方をしたらあれだけ考え方がねじ曲がってしまうのかが私には想像がつかない。「次は安倍逮捕!」「安倍を牢屋に!」などまだまだ安倍首相に制裁を加えてやりたいらしい。彼はもう既に何千何百万という国民の批判を一身から受けて立っている。それだけで既に制裁となっているだろうし、これ以上批判しても批判者の自己満足で終わってしまう。誹謗中傷を止めろというのならそれは安倍首相に対しても同様だと思う。首相が今まで政治的に悪いことをしてきたか、とか気に入らないから、とか色々な意見はあると思うが、誹謗中傷とは別に考えなければいけない。自分が同じ立場に立ったらどう思うか、そこを想像しない人は相変わらず多いと感じる。

安倍首相のメンタルの強さについて知りたい

私が安倍首相だったらとっくに精神を病んで自殺するなり病気で寝込んでいる状態になっているだろう。そんな状態で彼は国民の生活を左右する様々な決断をし、多少なりともリーダーシップを発揮してきた。だからこそ8年近くにわたる長期政権を維持することができたのだろう。

もちろんこの政権には様々な疑惑がある、政治資金や公的文書などの問題はまだ闇の中にあると思う。が、それはまた別の問題として考え、彼がこれほどまでにバッシングを受けながらも首相という役職を続投することができたのはなぜなのか。単純に面の皮が厚いだけなのか、強靭な精神力や体力を持っているタフガイなのか。はたまた誹謗中傷をやり過ごすような特別な技術を習得しているのか。

今後私自身がストレスに苛まれて心を病んでしまいそうになったとき、安倍首相であればどのようにやり過ごすのか、どんな技術を用いて批判やパワハラに向き合っていくのか、その点に非常に興味があるし政界引退後に何か暴露してくれないかと期待している。

 

adios

寝ても寝ても眠いのはなぜなのか

最近は8時間睡眠でも眠い

最近は基本的に在宅勤務が継続中であるが、週に2日ほど出社する日も少しずつ出てきた。出社時は大体23時就寝の6時15分起床で約7時間睡眠、在宅勤務時は24時就寝の8時起床で8時間睡眠がいつもの生活リズムとして定着しつつある。

当然、会社に出勤する日は在宅勤務の日より睡眠時間が1時間ほど短くなるので朝から日中にかけての眠気は強いように感じる。そのため、たまに在宅勤務があると朝もゆっくり眠れて本当に気持ちよく目覚めることができる。

しかし、在宅勤務をずっと続けていくとそれまで快適に目覚められた朝8時起床がだんだん苦しくなってくることに気が付いた。長い時間眠っているつもりなのに朝気持ちよく目覚めることができなくなってくるのである。これはなぜなのか。

睡眠の質が低下している

普段より長く寝ているのに眠い、その原因は一つしかない。眠れているつもりで実は眠れていない、もっと月並みな表現をすると睡眠の質が低下しているということだと思う。

人間の体は、起床から16時間すると眠くなるように設定されていると言われている。個人差はあると思うが、概ね私もこの法則通りに眠くなることが多い。6時に起きたら22時ぐらいには結構眠くなるし、8時に起きたら24時ぐらいには大体眠くなる。しかし、在宅勤務の時は生活にメリハリや刺激が少ないせいか、起床から16時間ほど経っても眠くならない日も多くあるように感じる。外出して最低限の距離を歩くということや人と会話したり、誰かの会話を聞いたり、誰かの顔を見たりするという良い意味でのストレスが少ないと睡眠の質を悪化させることにつながるのかもしれない。

睡眠の質を上げる工夫

このブログで何度も睡眠に関する記事を書いてきて、今までは基本的には睡眠時間をできるだけ多く確保したほうが良い、という考え方を持っていた。しかし、在宅勤務などでストレスフリーになりすぎたおかげで夜ぐっすり眠れないという、新たな悩みが発生することとなった。それまでは普通に生活していれば普通に眠くなってそれなりに良質な睡眠がとれていたので気にする必要もなかったことだ。何かを得れば何かを失うという、世の中の因果は巡ることを痛感する。

夜眠い状態で布団に入りぐっすり快眠するには、とにかく早めに起床すること、これに尽きるのではないだろうか。人間にとって生活リズムは大切なもの。できれば朝昼晩の食事も起床時間も就寝時間も毎日ほぼ同じにした方が不調は起きにくいというのもある。

頭では分かっている、分かっているけど実行するのは難しい。こんな些細な問題でも選択肢が増えた分、生きるのに新たな難しさが加わってしまったような気がする。

 

adios

コロナ禍で本当に自分にとって必要なことを考えた

さて、2月末ぐらいから慌ただしく落ち着かない日々が始まってもそろそろ半年経とうとしている。この半年間、例年必ずと言ってよいほど行っていたことを強制的に自粛させられた形となった。そのような状況で過ごす中、なんとなく続けてきたことが本当に自分にとって必要かどうか、改めて考えることが多かった。

旅行に行かない夏を振り返り

私は自分のことを旅好きだと自負していたが、昨年末に広島に観光したのを最後に遠出の旅行には出かけていない。例年ならゴールデンウイーク、特に夏休みは必ず一人で遠くの場所に行くのを楽しみにしていたが、今年はなんとなく気が進まずにどこにも行かなかった。

外に出られないことがかなりストレスになると予測したが意外とそうでもなかった。むしろ家の中で出来ることを十分に味わって楽しむことにシフトできたような気がしている。夏休みを終えてみれば別に旅行に行かなかったことで多くのストレスを感じることもなかったし、私にとって旅行というのは必須ではないということを発見することができた。

自分にとって本当に必要なこととは

止めようと思って容易く止めることができることは、その人にとって本当の意味で大事なものとは言えないのかもしれないと感じる。私には大の旅好きな友人がいるのだが、彼は自粛期間中もちょっとした外出をしたり、gotoトラベルがはじまると県外へ飛行機で遊びに行ったりと、いつも通りとまではいかないまでも旅行を謳歌しているようだった。私もジムでのトレーニングを自粛することは辛く、ジム閉鎖中に自宅に器具を買いそろえるぐらいトレーニングは生活するうえで欠かせないものとなっている。

友人である彼にとっては旅行というのはそれほど大切なものであり、日常生活で手放せないものであるということだ。そして、旅行に関して言えば私にとってはそうではないということだろう。

今後への生かし方

今まで何気なく習慣的に続けていることを改めて見直してみる良い機会になったかもしれない。そもそも今のような状況が発生しなければこのように考える機会もなかっただろう。

もちろん、本当に必要ではないからと言って旅行自体を完全に自分の中から無くしてしまおうとは思わない。やはり旅行は好きだし、日常から解き放たれて心を入れ替える時間は自分にとってかけがえのないものだと感じる。その思いは今も変わらない。ただ自分にとって本当に大事なことの優先順位が少し明確になったのは大きいと思う。

自分にとって大切なものはその時々によってどんどん変わっていく。今後生きていく上で何が自分にとって本当に必要で大切なのかを常に見極めながら生活していきたいと思う。

 

adios

頑張るということ、ポリシーを貫くということについて

自分のポリシーは大切にすべき

人は誰しもどんな場面においても自分なりのポリシーを持って生活しているものだと思う。私の場合で言えば、仕事において可能な限り効率的に時間外労働をせずに日々をやり過ごすように工夫する。その他日常生活も含めると、人によって態度や接し方を変えないこと、相手の発言や価値観を否定しないこと、他人の意見は参考にしつつも、最終的には自分がやりたいことという尺度で行動を決めていく、頑張りすぎないこと、などがある。

そして、これらは自分の中のポリシーであると思っている。ポリシーとは、政策、方針のことである。我々は生きていく中で様々な問題や困難にぶち当たることがあるが、その際に自分がどのように決断して行動していくかどうかのヒントになるのがポリシーであると考える。そのため、基本的には何が起ころうとどんな状況であろうが、ブレずに自分が決めたこれらのポリシーに沿って行動していくことこそが筋を通すということであり、自分らしく幸せに生きるための行動となるのである。

ポリシーを貫く=頑張るということなのか

最近、自分のポリシーを守るために頑張っている自分をふと発見することがある。例えば仕事をしていて作業に集中できている状況が続き、定時を過ぎてもまだまだやれそうな気分にあるとき、それでも自分の中で定時にはその日の仕事を止めるというポリシーがあるため、強制的に終了することにしている。そう、私は定時に仕事を止めるということを頑張って実行するようにしている。

これはポリシーを貫くという意思での行動ではあるのだが、「ポリシーを貫くために頑張るという」行為が「頑張りすぎない」というポリシーと相反するものだと最近になって気が付いた。頑張りすぎないことを目指すのであれば、頑張ってその日の仕事を止めるのではなく、成り行きで少し落ち着くまで残業して仕事を続けるというのも一つの考え方かもしれない、と思う。このあたりの加減の仕方がまだ自分の中で確立されていないと感じる。

ポリシーを守りながらそれに固執しすぎないということ

ポリシーというのは物事に対する自分なりの指針や方針であるから、大原則としてそれらを守って行動するのが正しいことだし、常にそのように行動をしていきたいと思っている。ただ、それは同時に柔軟性を持った対応力に欠けるという大きな問題を抱えているということでもある。年齢を重ねるにつれて自分なりのポリシーを確立する人は増えるが、その分頑固で融通が利かないというのはあまり良く思えない。

自分のポリシーを明確化した上で、どこまでなら柔軟に対応できるのかをその時の状況によってなるべく適切に判断して行動できるよう、バランスを取りながら行動できるようになりたいものである。

 

adios

夏を乗り切る水分摂取方法を考える

今週のお題「暑すぎる」

今年2020年は7月末まで雨模様の天気が続き、8月に入ると共に梅雨が明けて連日猛暑が続いている。熱中症で倒れる方も多く出ており、油断ならない状況が続いている。そんな猛暑の中において重要になる適切な水分補給の方法について改めて考えてみたい。

水の飲みすぎに注意

最近少し話題になっているが、水中毒という言葉を聞いたことがあるだろうか。

www3.nhk.or.jp

記事によると、汗をかいた後に大量に水を飲むことで血液中の塩分濃度などが下がり体の機能に支障をきたすという症状らしい。こまめな水分補給は推奨されているのだが、ガブ飲みはNGということか。

ただ、のどが乾いたらとりあえず水を大量に摂取したくなる気持ちは分かる。私自身も移動などをしてたくさん汗をかいた後に一気に水をガブ飲みするのが好きだったりもする。しかし、このような行動を繰り返していると水中毒なる症状を引き起こしてしまうのかもしれないので、改めて注意しなければならないと感じる。

対策としては、水の代わりにナトリウムを含む経口補水液やスポーツドリンクを飲めば良いとのことだ。個人的な意見としてはミネラル麦茶とかでも代用可能なのかどうか、という点は非常に気になる点である。この部分はもう少し調べてみる価値がありそうだ。

ポカリは薄めてはいけない?

news.yahoo.co.jp

これも最近のニュースだ。ポカリスエットをはじめとするスポーツドリンクを薄めて飲むと熱中症予防として十分な役割を果たせない可能性があるとのこと。なぜならば、スポーツドリンクは販売されているそのものが既に適切なナトリウムの濃度に設定されており、薄めることでその濃度が変わってしまうため体への効果がいまひとつになるらしい。

言っていることは分かるが、私自身もスポドリはいつも薄めて持ち歩いたり飲んだりすることが多い。理由は2つあり、単純に薄めた方が味的に丁度良いということと、当分の過剰摂取にならないように、ということがある。たまにスポドリをはじめとする清涼飲料水には砂糖がこんなにたくさん入っていますぅ~みたいなパフォーマンスをやっているが、あれの影響だと思う。

清涼飲料水の砂糖の含有量に対しても色々とツッコミどころや真偽が確かでないものはあるが、糖質を毛嫌いする健康志向の我々日本人にとってスポドリの原液は大敵なのかもしれない。

結局どうすればよいのか

さあ、自分で書いていても結局何が正しいのか良く分からない。

水の飲み方はガブ飲みではなくちびちび飲みで、3口に一口ぐらいはスポドリを原液で摂取する、というぐらいが現実的な落としどころだろうか。とはいえ、タイミング的にどうしても水をガブ飲みしたいタイミングや、糖質摂取制限がある方はスポドリを原液で飲むなんてできないという方だっていることだろう。こればかりは大原則をある程度守ったうえで個々人により適した方法を自分なりに模索していくしかないのかもしれない。

 

adios

行動こそが全てという真理を実感した出来事

ずっと仕事をしていく中、ここ1年の間で一緒に仕事をしたいタイプの人とそうでない人の違いが自分の中で明確になってきた。そしてよく考えるとこれは日常生活でも当てはまることだと最近実感するようになった。

仕事の進め方について最近思ったこと

私も社会人としてまだ未熟ながら後輩を持つ立場ではある。ある後輩に何か仕事を依頼するために内容を説明し、やれそうかどうかを聞くと「はい。大丈夫だと思います。」と返答がくる。私としてももちろん後輩を信頼しているので、言葉を信じて大丈夫ということで任せておく。

そして数週間経過し、進捗を確認するとほとんど進んでいない。少しは進んでいるのだが、進捗スピードが牛歩並みの遅さである。このような出来事をいくつか繰り返すうちに、指示を出す上司の立場、過去に私をいじめた上司の気持ちが少しだけ分かるような気がした。もちろんいじめは真似しないけれど。

そもそも、私が感じている「やれる」というイメージと後輩が感じていた「やれる」のイメージは全然違う。私は具体的に手順を調べ、自分の中で仮説を立てて検証してあらかたの裏を取ってからはじめてやれそうだと思うが、私より経験が浅い後輩はその時聞いた印象でなんとなく「やれる」と感じてにその感覚を伝えたに過ぎないということだろう。そんな後輩の姿を見ると、ちょっと昔、まったく仕事ができなかった自分が重なる。個々の認識の差、意識の違いというのはやはり果てしないし、完全に埋めることは絶対にできないものだと再認識した。

行動こそが全て

少し話が逸れたが、要は行動こそが正義であり全てを語るということである。いくら口先で「やります!」を連呼したところで、実際に進捗具合に反映されていなければ全く信用できなくなる。言っていることとやってることが違うじゃん、という話になってしまう。口では愛してるとか好きだとか言いながら、全く会ってくれなかったり行動を変えてくれない男ほど信用できないものはないだろう。

私は過去にTOEICで850点を取ったことがあるが、その結果を伝えた後にいけ好かない友人から「でも勉強すれば誰でも取れそうだよね」というニュアンスの言葉を返されて内心ムッとした。確かに、しっかり勉強を継続して試験対策もして受ければ絶対に取れない点数ではないかもしれない。でも私はその一言で今まで継続的にやってきた努力をかなり否定されたように感じたし、何より取ってもいないクセにテメェからそんなこと言われたくねぇよ!というのが本心だった。そういうこと言う権利があるのは同等の点数を取ったことがある人間だけだ。

行動を伴わない言葉ほど信用できないものはない。そんなものは何の参考にもならない。しかし、行動に裏打ちされた言葉の持つ説得力は半端ではない。だから、グダグダと御託を並べるぐらいなら今すぐ行動し、何らかの成果物を作ることだ。それを持ったうえで御託を並べればその説得力は強大なものになり得るだろう。

 

adios

豊かさとは一体何なのか

豊かさと聞いてどのような印象を思い浮かべるだろうか。

お金をたくさん持っていたり稼いでいたりすること、自分の好きなものに囲まれて生きていくこと、博識であること、など他にも様々な特性を思い浮かべるかもしれない。しかし、この問いに対する私の究極の答えは、「ミニマムな所有物で人生に満足できること」だと考える。

何を以て豊かと考えるか

この話題は以前友人とも議論になった。私自身の考えとしては、ミニマリストを美徳とする考えが根底にある。それは、幼少期にムーミンを見てスナフキンに憧れたことなどが関係しているのかもしれない。その頃から、如何に少ないものや汚れたものでも満足できるかということが豊かさの本質ではないかと思うようになった。高級車をいくら所有していても、正妻以外の美しい側室を何人周りに取り囲もうが、そういう人はより一層多くを所有しようとする。ずっと豊かさを追い求めようとしているあたり、今現状は豊かとは言えないのではないかと。(話には直接関係ないが、好きだったYoutuberが登録者数を増やすごとに金にがめつくなっていく姿は見るに堪えない)

しかし私の友人は逆の考え方を持っていた。多くのものを求めようとする姿勢や行動そのものこそが豊かさの象徴である、という意見だった。私にはない考え方だった。そもそも人類が豊かさを追い求めて貪欲に行動してこなければ、ずっと第一次産業で社会活動が止まっていただろうし、現在では当たり前のネットやITの社会が築かれることもなかったと。その意見も一理あると思った。

豊かさの矛盾

このような話をしているうちに、豊かさといっても色々な角度から見ることができることに気が付いた。大きく分けると、心の豊かさと物質的な豊かさがあるような気がする。前者は自分の心の満足度、充実感などを表し、後者は所有物の多さや質の高さなどを表す。しかしこれら2つの豊かさは互いに相容れないものとなり得る。

質素な生活で満足していた人がある日突然大金を手にし、ブランド物を買いこみ、毎夜豪遊するようになったとしたら、その人は果たしてまだ豊かな心を持っていると言えるのだろうか。モノは少なく生活も慎ましかったが心は満たされていた日々、比べてモノが多くどんどん強欲になり心が傲慢になっていく日々。現状維持でなく常に上を目指すことは良いことなのだが、この場合でもそれが当てはまるかどうか。

どちらが豊かな心持っていると言えるか。これでも意見は半々に割れるかもしれないが、私はやっぱりミニマリストの心を忘れずに、日常生活の些細な出来事でも幸せを感じられるような心を持てる人間になりたいと思うのである。

 

adios

【お題】女性のしたたかさを感じた話

#今週のお題「怖い話」

私の友人が結婚する前、彼の現妻が取っていた行動を今振り返ると、ある意味女性って怖いなと思った話を紹介する。

彼と私の飲み会に飛び入り参加する

彼がまだ独身の頃、私と彼は最低月1回程度は色々な場所に飲みに出歩いていた。しばらくは2人で飲みに出かける状況が続いていたが、彼が現妻と付き合い始めてしばらくし、現妻から私と彼の飲み会に参加したいというリクエストを頻繁に貰うようになった。それ以降、月1回の彼との飲み会には必ず彼の彼女が参加して3人で飲みに行ったり遊んだりする状況が続くこととなった。

彼らの結婚を機に3人での飲み会は終了した

しばらくは3人で遊びに行くことが続いていた。しかし彼らが結婚した後、私と彼の飲みは多少頻度が落ちたものの続いていたのだが、そこに彼の妻が参加することはもうなくなった。もちろん、結婚式~新婚でメチャクチャ忙しくてなかなかそういう気持ちにならなかったとか色々と理由はあったのかもしれない。私がそれを想像することはできるが、真実はもちろん知らない。ただ、今少し振り返ってみると、彼の妻はある程度計算して私と彼の遊びに積極的に参加していたのではないかとも思う。

結婚に向けて既成事実を作るということ

私の友人の彼はとても人格者で誠実で尊敬に値する人間だと思っている。社会人としても真面目で優秀な男だ。私はそんな彼が好きで尊敬できる部分が多くあるからこそ彼と学生時代から仲良くさせてもらっている。もちろん、そんな彼と付き合った女性が彼を結婚相手としてこの上ないと思うのは当然といえば当然かもしれない。

そこで彼女は彼を手放さないように囲い込む作戦に出る。それが私という彼にとっても最も仲良く思える友人に自分の存在を認識させ、彼と彼女の関係性をより強くするための架け橋的な存在として私を利用したのかもしれない。もちろんこれは私のしがない推測でしかないが、今まで起こった事実を振り返る限り、あながち的外れであるとも思えないのである。

おわりに

仮にこの話が真実だったとして、私自身は利用されたことに腹立つ訳でもないし、むしろ仲良い友達として認められて嬉しく思っているぐらいである。親しい友人のお役に立てたのであれば例え脇役であろうと架け橋的存在であろうと全く問題はない。

女性の特性に関しては今回の一件を通じて考えさせられることとなった。もちろん世の女性全員がこのような考え方をするわけではないだろうし、そもそもこれが事実かどうかも分からないし、そんなこと確かめようもない。

ただ、今後自分が女性と関わっていく中で様々な考えを引き出す際に参考にしたい出来事とし、ちょっと怖い話として皆さまに共有した上で心の中にしまっておきたい。

 

adios

男なら社会経験として一度はキャバクラや風俗に行っておくべきか

私が社会人になりたての頃に感じたモヤモヤした気持ちを小話程度に共有する。

モヤモヤの根源

社会人1~3年目ぐらいの頃、先輩や少しませた学生時代の同級生からこんなことを言われることがよくあった。

「社会経験としてキャバクラとか風俗に行っておいて損はない。若いうちは遊んでおいた方が良いぜ。」

なんとなく納得してしまいそうな一言ではあるが、私はどうしてもこの意見に対して腑に落ちない感覚を持っていた。そして気乗りしないという話を伝えると、「お前、いつか犯罪者になるかもしれないぜ。その時は鼻で笑ってやるよ。」みたいな主旨の何の脈絡もない因縁を付けられて戸惑った。

どうしてキャバクラに行っておかないと俺は犯罪者になってしまうのか、意味が分からなかった。多分相手としては自分がもしキャバクラや風俗に行かなければ自分の欲望が抑えられない感覚を持っていたからこそ、私に対しても当然そう感じているに違いない、と推測してこういう類の発言につながったのだと思う。

だが、当然人によって感覚は異なるものであるし、自分がこう思うのだから当然相手も同じように思っているはず、という考えはかなり浅はかで危険なものである。相手の感覚は相手にしか分からないものであり、想像することはできてもそれがあっているとは限らない。この考え方は今後生きていく上で常に大切にしていかなければならないものだと感じた。

で、行くべきなのかそうでないのか

結論としては、行かなくてもよい、となる。私は未だにこれらの類の店に自分から積極的に行ったことはない。それでも全く寂しさや不自由を感じたことはない。

前職の社員旅行でタイのバンコクに行った際に先輩に連れられてなんとなくゴーゴーバーに行ったことはあるが、やはり気分が乗りきらずに途中で抜け出してホテルに戻ってきてしまった。こういう人間もいるのである。

私の数少ない一人の友人は結婚した際、奥さんに一度でいいから風俗に行かせてくれ、と頼んだそうである。きっと彼も誰かの意見に触発されてこんな本心から思ってもいないことを頼んでしまったのであろう。もちろん奥さんには嫌だと言われたそうだ。彼の奥さんも少しがっかりしたことだろう。

仮に結婚してから風俗にハマるようなことがないようにその前に経験しておいたところで、さらにドハマりして依存症になってしまう可能性もある。だったらそんなものはタバコや麻薬やギャンブルなどと同様、最初からやらなければいい、ということに尽きる。もちろん興味があるならやってみてもいい。しかし、興味もないのに「経験として~」などで嫌々やるものではない。

 

adios