rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

小学校でのあだ名禁止のニュースから思ったこと

あだ名禁止で生まれる妙な距離感が気になる

今日少しTwitterを眺めていたら興味深い話題を見つけた。

最近小学校ではクラスメートをあだ名で呼ぶことを禁止しているところもあるらしい。

news.biglobe.ne.jp

 

この記事によると、あだ名を禁止している学校ではさん付けや君付けで相手を呼ぶようにしているということである。理由としては、いじめや差別をなくすことが主な目的であり、確かに丁寧な呼び方をすることで相手を尊敬する気持ちだったり、無駄な争いが起きにくくなる可能性もあり、一理あると思う。

反面、私が小学生の頃でも友達のことを〇〇さんとか××君とか呼ぶことももちろんあったが、それは大して仲良くもない知り合いに対して限定的に行っていたこと。仲良い友達や休み時間や放課後によく一緒に遊ぶ友達に対して○○さんなんて言っていたら、それだけで妙な距離感が生まれてしまうし、遊びの楽しさも半減してしまうような気がする。

私は小学生の頃にサッカークラブに所属していたが、プレー中に「〇〇さんこっちパス!」なんて言っていたらなんだかおかしい感じがするし、相手がそういう言葉遣いをしていたら笑ってしまいそうである。サッカー日本代表ラグビー日本代表が試合中に仲間のことをさん付けで呼んでいる場面を想像すると違和感しかないだろう。そう思うと、さん付けでの呼び方は、チームプレーのスポーツなどにおいては色々な面でパフォーマンスに支障が出そうな気もする。

重要なのは言葉ではなく心の持ち方ではないのか

遅くなったが私の持論ではあだ名禁止には賛成できない。それは、表面的な言葉遣いを強制したところで、中身の人間性にはさして変化がないと思うからだ。

確かに、あだ名を禁止にしたら友達に対して変な呼び方をすることはなくなり、あだ名が原因でいじめられる人は少なくなるだろう。また、日常的に丁寧な言葉遣いをすることで心まで綺麗になって人格者に近づけるかもしれない。しかし、そのようにならない可能性もあるし、いじめる側の人間はあだ名であろうが何であろうがターゲットの気に入らない部分をとにかくあら探ししていじめる理由を見つけてくる。あだ名一つがいじめのリスクから除外されたところでほとんど意味がないことになる。

あまり効果が見込めない対策を子供たちに強制させることで友達同士の心の距離が離れてしまうようなことがあるのであれば、それは果たして本当に良い対策といえるのだろうか。私も対案を出すことはできないのだが、なにもかも禁止にすれば解決するという単純なものではないし、禁止することで失う可能性のあるものにも目を向けるべきである。あだ名を禁止するという付け焼刃的な対策ではなく、もっと人の内面に切り込むような対策が必要だと思った。

 

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