rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

出会いと別れの3月に思うこと

この気持ちは何だろう

例年であればあまり思わないことだが、今年の3月はやけに侘しくもの悲しく感じる。その理由は、今まで一緒の組織で働いてきた仲間が2人も転職していなくなってしまうからだ。

テレワーク中心の働き方だったので毎日顔を合わせているわけではない。だからそこまで寂しさを感じるのも変な話だと思うが、いざいなくなるという事実を目の前にすると、今まで関わった思い出や一緒にやった仕事を思い出し、ふと切なさを感じる今日この頃である。姿こそ見えないけれど、仕事を通じて心のどこかではいつもつながっていたのかもしれない。

今まで別れなどは散々経験してきた。幼稚園の卒園式、小中高の卒業式、部活での3年生を送る会、壮行会、全てをかなぐり捨てた前職の退職、、挙げればきりがない。もちろん、学生の頃の卒業式でもそれなりに寂しさを感じたし、実際に涙を流している人も多くいた。だが、今回の同僚の退職は少し別の感情を生み出しているように思える。その気持ちが何なのか良く分からず、2人の退職を聞いたその日から今日まで色々なことを考えていた。そして今もぼんやりとして言葉にはできない感情が心の中に漂う。

この気持ちは何だろう。

それぞれの夢へ向かうため

そのうちの一人は、自分の市場価値を上げてもっと厳しい環境でハードワークに挑戦したい、という理由でコンサル会社に転職を決めた。確かに、うちの会社の労働環境は正直生ぬるいところはあると思う。彼は新卒5年目でコロナ禍と共にテレワーク全盛の中で入社してきた世代だ。毎日出社して仕事をするという働き方を知らない世代であり、そのような働き方に憧れを持つのも一つの考え方だと思う。ずっと家に閉じ込められて、何がどう評価されているのか分からない会社で居心地が悪かったのかもしれない。そして、自分の市場価値をもっと上げたい、という言葉は私の心に強く突き刺さった。今の環境に胡坐をかいてしまっている自分への叱咤激励に聞こえたから。自身ももっと価値を上げる努力をしなければ、と思うきっかけになった。

もう一人は、将来フリーランスのウェブエンジニアになりたい、ということで少しウェブ業界寄りの会社に転職するという。一緒に働いてきた同僚がこのようなことを考えていたのも全く知らず、自分は同僚のことなんて何も分かっていなかったんだなと思った。自分の好きなことややりたいことを見つけて、それに向けて前向きに転職ができるのが本当に羨ましいし、見ていて眩しく輝いて見える。

自分のキャリアは?

社会人としての私の働き方の夢は、リモートワークで在宅勤務やワーケーションをすることだった。それに向けて今の会社で少しでも力をつけて、どこかまた別の場所でその働き方を実現したいと考えていた。しかし、コロナ騒動で願ってもいない形でその夢が叶ってしまった。期待よりもはるかに早く自分の働き方の理想が実現できてしまったということだ。

在宅勤務は悪くないし、今の会社に不満は特にない。6年前にこの会社に転職してきたことはやはり成功だったと思っている。だが、同僚が夢を追いかけて退職していく姿を見て自分の中の怠惰さや甘えに気付かされている。現状不満はないし、前の会社みたいに理不尽なパワハラと暴力的な業務に支配される生活に戻りたいとは思わない。それでも、出ていく2人の同僚の姿がどうしても眩しく見えてしまう。

この気持ちは何だろう。

 

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ホワイト企業を辞める人たち、聞け

ブラック企業に対する個人的な思い

私が社会人になる前~上がりたて当時、ブラック企業という言葉が流行り始めた時期だった。残業時間が非常に多かったり、パワハラモラハラが横行していたり、労働時間の割には給料がかなり少ない、ということがブラック企業の特徴とされている。そしてその対義語としてホワイト企業という言葉も存在していた。ホワイト企業ブラック企業とは逆で、残業時間が少ない、職場の雰囲気が良い、働きやすい、などのイメージで語られることが多い。

社会人として働くのであれば、ブラック企業で働くことはできる限り避けたいものである。それにはほとんど100%に近い人々が同意するのではないだろうかと思う。ボロ雑巾のように搾取され続け、挙句の果てに陰湿な職場内いじめによって自主退職に追い込まれるような企業に誰が勤めたいものだろうか。私が以前勤めていた職場も明らかなブラック企業とは言えないものの、限りなくブラックに近いグレー企業だったと思っているし、そこを退職したことは後悔していない。

ホワイト企業を辞めてしまうのはなぜなのか

最近新社会人になる人たちは、ホワイト企業に入ったものの環境が生温すぎて辞めてしまう人が多いそうである。これは非常に贅沢なことだし勿体ないことをしていると思う反面、そのようなホワイト企業を辞めるという選択をする理由も分からなくはない。

例えば毎日オフィスの植物に水やりばかりやったり、コピー取りばかりやっていて手取りが50万円を超えるような仕事があったとしても、果たしてそれで本当に社会人としてハッピーなのかは疑問である。人間は人生における張合いを求める生き物だと思うので、あまりにも楽勝なタスクばかりやっていても簡単に飽きてしまうし、つまらなくなってしまう。かといって自分にとって難しすぎることはやはり荷が重く、逃げ出したくなってしまう。この匙加減をよい塩梅にするのはかなり難しいことである。

だから、責任のある仕事を早くから任せてもらおうと期待に胸を弾ませて入社したら、コピー取りや掃除や書類整理ばかりをやらされ、今後のキャリアに絶望してしまう気持ちは分からなくもない。

ホワイト企業の人たちは恵まれていることを自覚してほしい

私の意見の結論としては、新社会人の人たちには自分の理想の仕事ではなくともよっぽど辛くなければ、ホワイト企業に数年はしがみついて下積みを頑張って欲しいと思う。

入社3年以内で重責を担う仕事を任される人材などは滅多にいない。せいぜい1,000人に1人もいればいい方だと思っている。ほとんどの人は一般人であり、着実にある程度時間をかけて社会人として一人前になっていくものだと思う。早くから活躍したい気持ちがあるのは大変結構なことではあるが、焦りは禁物である。今はつまらない、こんなものが何の役に立つのか、と思っている仕事が、将来思わぬ形で活きる可能性だってあるだろう。

それでも一見温いホワイト企業を抜け出したいのであれば、一度ブラック企業に就職してみるのもいいかもしれない。そこで搾取されて洗脳されていけば、安易にホワイト企業を辞めたことを後世後悔するだろう。

 

参考記事

news.yahoo.co.jp

 

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スマホだけではなくPC操作の能力が必要な理由

スマホの凄いところ

「若者にパソコンが必要な理由」という記事を読んだ。

togetter.com

現代におけるスマートフォンの台頭は目覚ましく、将来的にPCに取って代わる存在となる可能性も感じさせる存在である。具体的には、PCと同様にインターネットが使えることはもちろん、文書作成もできたり、フリップ入力をマスターすればPCタイピングにも劣らない文字入力スピードが得られたりもするので、機能的には十分PCに対抗できる存在となっていると言っても良いだろう。

ホリエモンをはじめとする一部の実業家の人たちも、スマホ一つ持っていれば世界中どこにいても仕事ができると言っているし、実際にスマホの持つ機能をフル活用すればリモートで出来る仕事はほぼ遂行することができそうだと予想できる。時代の流れは想像以上に速く進んでいると感じる。

それでもPCが必要な理由

このようにスマホの技術革新が進む現代においても今のところPCの存在が廃れる気配はまだないし、多くの企業や組織でもPCなしで業務を遂行する段階には達していない。この事実は、現時点でスマホがPCを完全に代替する存在となることが不可能であることの何よりの証拠である。これには大きく2点ほど理由があると考える。

画面が小さく見づらい

PCとスマホを見比べた時にまず大きな違いとして、デバイスの大きさがある。PCは画面が大きい分文字も大きく見やすいのだが、スマホは持ち運べるものなのでデバイスも画面も小さく、当然表示される文字も小さくなるので文字を読むのがかなりストレスになる。個人的にもスマホで開くExcelとかPowerPointの資料は文字が小さく、ちょっと確認程度に見るぐらいならともかく、じっくり見ながら内容を吟味したり構成を考えたりする作業には向いていないと思う。

周辺機器の充実度の違い

私はあまりスマホで作業することがないので最近のスマホ情勢には疎いのだが、PCに接続できる機器とスマホに接続できる機器のバリエーションが圧倒的に違うことぐらいはなんとなく分かる。PCは古き良きVGAケーブルやHDMIケーブルなどを駆使してマルチディスプレイにして画面分割することもできるし、キーボードやマウスなどのユーザインターフェースを別部品として接続することもできる。またそれらのラインナップも豊富であり選択に困ることはほぼないと言える。

対してスマートフォンでは、キーボードやマウスはPCと似たように外部機器と接続することができるかもしれないが、マルチディスプレイは画面解像度などの問題もあり、スマホをメインに複数のディスプレイに分割するということが可能かどうか分からない。そもそもそれをやるのであればPCを使うのと変わらないのでは?という話になってしまうような気もする。

このように、メインのデバイスに接続できる機器のバリエーションの豊富さやマルチディスプレイの観点などから、PCとスマホでは現状圧倒的にPCの方が使い勝手が良いと思う。

PCが無くなる時代が来るかもしれない

現状ではなんだかんだでPCの方が様々な作業に向いているのは間違いないと思うが、あと5年もすればこの現状は大きく変わっているかもしれない。今の大学生でも卒論をスマホで書いてくる人もいるらしいし、今後は文書作成だけではなくアプリの制作やメールの管理なども全てスマホが代替する日がやってくるかもしれない。PCを使って育ってきた世代にとってそれはかなり難しい変化への対応となりそうだが、近未来にあり得るかもしれないと思いながらこの記事を眺めていた。

 

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安易な気持ちでエンジニアに転職するのはおすすめしない

大手の電車運転士として働いていた人が運転士を辞めてプログラミングスクールに通ってエンジニアを目指したのだが、結局どこぞのSES企業※にぶち込まれて年収大幅ダウン&自由時間を失ったという内容のツイートがエンジニア界隈で話題になっている。

(※SES:システムエンジニアリングサービス。簡単にいうと、エンジニア(労働者)を他社に売る商売を行っているシステム会社。)

インフルエンサーの功罪

最近まで知らなかったのだが、どうやらコロナ禍となって以来、エンジニア(プログラマーシステムエンジニアを指す)を目指す人が増えているらしく、Youtubeでもプログラミングスクールをやけにおすすめしたり、エンジニアのメリットをたくさん並べるインフルエンサーが多く出てきている。

エンジニアを目指す人たちの動機としては、綺麗なオフィスでPCに向かって働く姿がカッコいいからとか、在宅ワークもできて自由な時間が多く取れそうだから、というものが多いという。確かにエンジニアになればそのような働き方はしやすくなるかもしれない。実際、私もエンジニアの端くれとして在宅ワークを行うことができているし、PC一台あれば大体の仕事はこなすこともできる。

ただ、エンジニアを目指すにあたってこのような環境面や待遇面ばかりに目が行ってしまうのは良くないと感じる。仕事そのものにおいて何か達成したいことややりたいこと、作りたいものがあるのであればモチベーション維持できると思うが、単純に楽に働けそうだからという理由で転職してもうまくいくとは到底思えない。

私もたまにインフルエンサー系のYoutubeを見るのだが、彼らはほんの一握りの成功者であり、その裏に何千何万もの脱落者がいるということを忘れてはならない。Youtubeに出てチャンネル登録者数が数万人単位というような人はもはや普通の人ではなく、何かしらずば抜けた能力を持っている人ばかりである。単に成功した人が表に出てきて自分たちにも見えるぐらい有名な存在になるというだけなのだ。

最後は自分自身で考えられるかどうか

私はスクールに通ったことがないので偉そうなことは言えないが、スクールで体系立てて学べばある程度の技術力を知識として身に付けることは可能だ。しかし、その知識をどう生かして応用していくかは自分自身で考えて経験しなければならないことである。それはスクールに通っただけでは身に付けることはできず、継続的に疑問を解消したり自分で色々なことを検証したりする中で身についていくものである。スクールに通うことを否定しようとは思わないが、いずれにしても最終的には自分で考えたりアイデアを形にしたりする努力が必要になってくるのである。

今の仕事がちょっと辛いぐらいの状態で、エンジニアになったらもっと楽になれるとか、年収一千万も達成できると夢見ることも悪くないが、生半可な気持ちでは到底達成不可能だし、挫折したら人生を棒に振ってしまう可能性もある。特に未経験からエンジニアを目指そうとしている人には、上記のような視点を少し考えてみてほしい。

 

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年収に拘っても拘り過ぎることはない

なぜ高年収に拘るのか

多くの人が転職する理由として大体一番多いのが、年収アップしたいからというものである。お金がないよりもあった方が生活する上においてやれることの選択肢も増えるし、精神的にも余裕を持って生きていくことができるのは確かであろう。また、婚活市場などでは特に男性であれば、その男性の価値=年収といっても過言ではないぐらい年収というのは重要視されるし、多くのことと切っても切り離せない関係にある要素だ。

私自身や前の会社の同僚を含め、私の周りでも多くの知り合いたちが転職して新しいキャリアを歩み始めていったが、多くの人はより高い給料を求めて自分のスキルを最大限に生かせる環境への転職を望んでいた。私は正直そこまで年収に対して拘りがなく、生活に困らず細々と趣味を楽しめるぐらいの給料があれば満足だったので、キャリアップとか年収にそこまでこだわる周りの人間の気持ちがあまり良く分からなかった。その思いは今も大して変わっていない。

高年収は例外なく激務である

高年収というのは社会的なステータスも高くて幸福度も高いかもしれないが、仕事内容はほぼ例外なく激務である。20代にして年収800万ぐらいを稼ぐ大学時代の同期がいるが、彼の仕事はなかなか過酷である。外資系企業で多くの国に拠点をおき、時差が大きい他国の社員と真夜中や明け方にウェブ会議をしたり、当然のように毎日日付が変わるまで残業をすることもよくあるという。もちろん忙しくない期間はたっぷり休みをとれたりしてメリハリはあるのだが、このような働き方を自分ができるかというと多分できず、年収が高いというご褒美しかないのであれば心が折れてしまうと思った。逆にこういう働き方に何も違和感を感じない人もまたいる。

メリハリがあるのは良いことだと思われがちだが、それも適度であればの話だ。高年収の仕事は総じてメリハリが極端である。分かりやすい例でいうと医者などが典型的であり、仕事内容が難しいのは当然として人の命がかかっている仕事なので自分の生活や衣食住などは二の次になる。どこにいようが何時であろうが緊急手術などが入れば病院に飛んでいかなければならない。ちょっと休みたいから有休を取るというようなことが難しく、自分自身の自由は少ないのではないだろうか。

高年収に拘る理由を考えてみる

それでも高年収を獲得して自分の価値をどんどん高めていきたいという人はそれでいい。でも私みたいに年収に拘らずそこそこまったり仕事をこなしていきたいという人種も一定数存在するはずだ。だが、今まで自分が関わってきた人の中に自分と似たようなタイプは少なく、多くはバリバリ働いて年収を上げたいというタイプの人であった。このような人の中にも、本心ではそんなに働きたくないという人もいるはずだと私は思っている。

収入ばかりに目が行ってしまう人は、自分がなぜそこまで収入にそこまで拘っているのかを一度考えてみるのも一興だろう。そこで見えてくることもあるかもしれない。

 

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苦手な仕事は他人に任せれば良いのか

日本社会においてゼネラリストは好まれる

一つのスキルを特化させるべきという意見と矛盾してしまうかもしれないが、今の日本において果たしてある特定のスキルだけを特化して生き残っていくことができるのかどうか、しばしば考えることがある。

人はそれぞれ向き不向きというものがあり、家事の中でも料理は得意だけど掃除や片づけは苦手な人など、得意不得意は個人によって全く異なる。家事などの日常生活であれば自分を含めた周りの人間がある程度気分を害さない程度に適当にこなしていれば大きな問題にはならないが、仕事でこのように適当な姿勢で臨むのはかなり危険である。サラリーマンであれば苦手なこともある程度は引き受けなければいけない場面もあるだろう。システム屋がずっとPCと睨めっこするわけにもいかず、時には顧客と対面で会話したり資料を作ったりプレゼンをしたりと、あまり引き受けたくないこともある程度はやらなければならないことが多い。

スペシャリストは半端ではない

そんな中でもやはり特定の分野においてずば抜けてスキルを持っている人はやはり重宝されるし、そのスキルを活かした仕事が舞い込んで来やすいのも事実である。Excelでマクロを組んで社内のシステムを驚くほど効率化できる人はずっと開発ポジションにいることができるし、人当たりよく会話できたり相手を説得したりする会話術に長けている人は管理職に抜擢されやすくなるだろう。ただ、このような重宝されるレベルになるためには、ちょっと知識があってできる、という中途半端なレベルではダメで、周りよりも「ずば抜けて」できる必要があるという点がポイントになる。

こう考えると私は8:2の法則を思い出す。80%の完成度にするためには20%の時間を費やせば達成できるが、100%の完成度にするためには残り80%の時間を注ぐ必要がある、というような理論である。ずば抜けてできる人というのはもちろんあるスキルに関して100%の完成度を持つ人なので、そこに至るまでに注いできた時間や資源は半端ではないはずである。80%完成度でも知識的には不足はないのかもしれないが、残りの20%があるかないかで天と地ほどの差があるという厳しい現実がある。

どちらを目指すべきか

仕事に限らず、複数のものから何らかのチームやグループを編成するときに悩みがちなのは、それぞれが別々の特定スキルに特化していて他のスキルはほぼ持たないグループと、それぞれが色々なスキルをそこそこ備えているグループのどちらがより良いのかどいうことである。意見は少し割れるかもしれないが、後者の方を好む人が多いのではないかと思う。リスクが少ないという点で無難なのも後者だろう。しかし、自分がグループメンバーだったとき、どちらの方がより自分が必要とされ、自分の能力を十分に発揮して楽しく活動できるかを考えると、前者の魅力の方が大きいと思う。

あるスキルにだけはもの凄い専門性を持つ良い意味での変人を目指すのか、なんでもそこそこできる常識人を目指すか。難易度は前者の方が高いのだが、それができれば仕事もかなり楽しくなりそうだと思う。

 

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仕事において特定のスキルを特化させることに損はない

やらない理由を探さないようにするために

変化の激しい現代において、ある特定の分野に対してスキルを有しているだけでは生き残っていく上で不十分だという話を最近よく耳にしたり、何らかの記事で目にすることが多くある。確かに一つのスキルを極めたからと言ってそれが必ず将来役に立つものとも限らないし、今役に立っていたとしてもいつか不要になってしまうかもしれない。その時に別のスキルを身に付けていなければニーズに対応できなくなってしまうことだろう。それは私も分かるし、納得もできる。

だが、だからと言って何のスキルも身に付けない理由にはならない。「将来何が必要になるか分からないから何もしなくていいじゃん?」という人も稀にいるが、それはやらない理由を無理やりこじつけているだけであり、ただの言い訳でしかない。一つのスキルすら十分に身に付けようとしない人はこの先必要とされるスキルが出現し、それを習得する機会に恵まれたとしても、同じように何かしらの理由を付けて習得する努力を放棄し続けていくことだろう。

どんなスキルが必要なのか

例えば私は一応システムエンジニアなので、詳しくない人から見るとPCのこととかプログラミングのこととかを中心にスキルを磨いていくイメージを持つ方も多くいると思う。これらのスキルもSEに必要とされる重要なものであることは間違いない。だが、実際にSEの仕事上で必要となるスキルはもっと幅が広く量も膨大である。プロジェクトのリーダーとして部下をうまくまとめるためには会話のスキルをはじめとするマネジメントスキルが重視されるし、設計書や報告書を書く時にはある程度の文章力が求められる。

特に会話などのコミュニケーションスキルはどのような職業であれほぼ必須のスキルだと思うが、このスキルをもっと磨いていこうと考える人は営業職など以外であればそう多くはないのではないか。私もコミュニケーションスキルを真剣に磨こうと思ったことはあっても実際に行動に起こしたことはない。そうであるならば、コミュニケーションスキルをもっと磨いて他の人よりも高いスキルを身に付ければ、何らかの場面でそのスキルが有利に働くことがあるかもしれない。大多数の人ができないことができれば、そのスキルが必要とされる機会があった時に自分が活躍できるチャンスとなり得る。

一つの分野でもスキルを身に付けておくことの大切さ

今頑張って取り組んでいたり、過去に何かの勉強を頑張った人は皆心の中で以下のようなことを多少は考えていたはずだ。

「このスキル(または資格)を身に付けて何の意味があるのだろうか?私は今何のために勉強しているのか?」

何か勉強をしている時に私はほぼ必ずこのような考えが心に浮かび、やらないでも良いかなと思いがちになってしまう。そして特に最近はモチベーションが上がらず、学習を放棄してしまいがちになる。

実際に今やっている勉強がどのタイミングで役に立ってくるかは分からない。全く役に立たない可能性もある。それでも、やった内容そのものよりもその過程で得た勉強に対する向き合い方や、スキル取得に対する成功体験は何にでも応用できるものとなる。だから、このような経験をしておいた方が新たに取得すべきスキルが現れても割と素早く対応できるのである。

役に立たないからやめるのではなく、興味があるのであれば継続してスキルを特化してみるのもとても大切なことなのかもしれないと思っている。

 

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同僚との距離感や言葉遣いについて思うこと

環境が変わると関係も難しくなる

前回の記事と似たような内容になってしまうが、最近ちょっと考えるようになったのが職場の同僚との適切な距離感の保ち方についてである。会社の同期であれば学生時代からの延長や研修での関係性などから多くの人はタメ口で話をするだろうし、各々が別々の部署に配属され、それまでタメ口での会話が基本だったのがいきなり敬語での会話になるということはないだろう。私も前の会社に所属していた時は何も意識することなく同期とはタメ口で話をしていたし、それが普通のことだと思っていた。また、後輩に対してもほぼタメ口で話をしていたと思う。

だが、転職等で環境が変わると周りの人にタメ口で接することは難しくなると感じる。新卒で一緒に会社に入った仲間に対しては職場の同僚という関係以上に親近感を感じやすく、後輩に対しても明確に後輩と認識することができ、タメ口を使うハードルは下がる。しかし、新しく入った組織では年次的には私が上であっても組織に所属している年数では相手の方が長ったりするので、先輩として接するべきか後輩として接するべきか分からなくなることがある。

敬語ばかりで堅苦し過ぎるのも考えものかもしれない

そのため、転職してからは自分より年次が下の相手に対してもひとまずは無難に敬語で接することを基本スタンスとしてきたのだが、ずっと敬語で接し続けることに対して最近は違和感を感じることも多くなった。私自身が先輩と接するときはもちろん敬語を使うが、先輩は私と接するときに敬語を使うことはあまりないし、もし先輩が私に敬語ばかりで話してくればかなり違和感がある。慣れの問題もあるかもしれないが、先輩から敬語を使われると少し突き放されて牽制されている感じがしてしまうし、フランクな関係での会話を進めづらい雰囲気を感じてしまいそうだ。

「自分がやられて嫌なことは他人にやるな」とはよく言われることで、嫌なこととまではいかないにしろ、自分が先輩にガチガチの敬語で会話されることに対して多少違和感があるのなら、私も後輩に対して少し堅苦しさを無くして接してみようと考え始め、少しずつ実行している。もちろん仕事上の人間関係なので友達のように接するわけにはいかないが、今までのように何もかも敬語でクソ真面目に答えるのではなく、たまにタメ口を交ぜたり冗談を言ってみたりして、少しでも相手に違和感を与えないようなコミュニケーションをとりたいと考え始めている。

 

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漆黒企業よりも灰色企業の方が危険な理由(ブラック企業)

近年におけるブラック企業の変遷

サラリーマンなら誰しもブラック企業に入社して心身共々疲弊してしまう状況だけは避けたいものである。よくIT業界にはブラック企業が多いと言われることがあったが、それも5年前ぐらいまでのこと。IT業界に対しては悪い噂ばかりされることが多かったので、ここ数年は多くの企業がフレックス制を採用したりみなし残業を止めたり、ブラック企業の要素になり得るものを潰すことに注力している。そしてこれは個々の会社単位だけではなく業界全体として特に力を入れて取り組んでいるように思える。

今はパワハラやセクハラをはじめとするハラスメント等に対する罰則が大きくなり、企業側もあからさまに従業員を酷使することが難しくなっている。そのため、電〇やワ〇ミのように一時期社会現象になるほどの騒動を引き起こすような事件は最近あまり発生していないように見受けられる。これは一見喜ばしいことである。

しかし、そんな中増えてきたのが、あからさまではないけれどネチネチと従業員を追い込んでいく体質の企業である。前述のあからさまなブラック企業を「漆黒企業」と例えれば、こちらは「灰色企業」と呼ぶことができ、まさに法律のグレーゾーンを攻めるブラック企業のことである。そして残念なことに、この灰色企業は漆黒企業以上に質が悪く、放っておけば茹でガエル現象に陥ってしまうと私は思っている。

灰色企業が危険な理由

灰色企業は労働者視点から見るとそこまで悪く見えない点で非常に質が悪い。

私が以前所属していた会社などはまさに灰色企業の典型であった。仕事量はそこそこ多いし上司や先輩でたまに面倒くさい人もいるけど、8割以上の人はしっかり相談に乗ってくれる優しい人たちだった。また、残業はみなし残業だけど給料もそこまで悪くなかった。客先常駐でやりずらい仕事もあるが、おかしな労働をさせられることもない。だから、少し違和感がある状況でも「社会人なんてこんなもん」と変に自分を納得させて嫌な仕事をやり続けた。いつしか私は定時後最低でも1時間は事業所に居残ることや、残業代がやった時間分支給されないことが当然のことだと思うようになった。

しかし、これは前職の会社内だけでの常識であり、一般的に良いとされる考え方とは程遠い。それでもその環境にしばらくいれば多少辛くても理不尽でも殆ど何とも思わなくなる。人間は環境に順応できる生き物だが、この性質を見事に灰色企業に利用されてしまっているのである。仮に漆黒企業であればパワハラや残業時間の度が過ぎたものになるので、いくら順応しようとしても順応しきれずにすぐに辞めるなどの選択ができると思う。(順応できないと思ったら諦めるべし。こういう状況で無理に粘るのは良くない)

自分が所属する会社や組織がこのような現象に陥っていないかどうか再度見直してみると良いかもしれない。そして、おかしいことはおかしいと主張し、主張が通らずどうしても納得できないのであればその環境からは逃げるしかない。環境に適応する能力があることは本来良いことではあるが、灰色企業のような存在に搾取されてしまうことを考慮すると、過度な適応力の高さも考えものである。

 

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1年間定期的に勉強を続けて現在感じること

仕事で分かることが少し増えた

昨年から本格的にプログラミング技術の勉強をし始めてから1年と少し経過している。勉強といっても座学的なものは資格試験の勉強がメインであった。それ以外の時間はほとんど動画を見ながら手を動かして何かを作ることや、自分で考えてイメージした動きになるように作ることをやってきた。まだ経過して一年ぐらいしか経っていないのだが、少しずつ仕事においてもプラスの影響が出てきたと感じている。

まず、色々な人と会話をしていて分からないことが減ったように感じる。ウェブデザインの資格勉強の過程で基本的な単語などを学習できたことが大きな要因だと思うが、それ以外にも自分で疑問に思って調べたことや考えたことなどが糧になっていると思う。勉強していなかった場合の自分と比較することができないので本当に勉強のおかげなのかと言われると分からないが、少なくとも以前よりは分からないことが減っている。そのおかげであれ程苦痛に感じていた仕事を前向きに捉えることができるようになってきたし、仕事の楽しみも少し分かってきたような気がしている。

今は仕事を辞めなくて良かったと思っている

新卒や2,3年目の頃、システムエンジニアという職業は自分には全く向いていないと思っていたし、就活の業界選びは完全に失敗したと思っていた。だから何度も辞めようと思ったし、実際に前の会社を辞めた時にはもうシステム開発の仕事だけは御免だと思っていた。

しかし、今はあの時本当に辞めてしまわなくて良かったと思えるし、就活時の自分の選択は間違いではなかったと思える。自分みたいな内向的で一人で没頭できる作業が好きな人間にとっては開発とか技術職が向いていると漠然と思っていた。そして実際に社会人になって想像よりはるかに多く求められる能力があることを知って絶望した。だがそれはこの仕事の一つの側面しか見えていなかったということ。開き直って自分の職業に真摯に向き合い、苦手だと思い込んでいた分野についても勉強を重ねるうちに分かることが少しずつ増えていき、この仕事の楽しさが少しずつ分かるようになってきた。まだまだ得意というには程遠い状態ではあるが。

自分自身に問いかけたいこと

新卒で会社を辞めてこぼれ落ちてしまう人は少なくないと思う。入社したけれど1カ月も経たないうちに退職したり、自分の仕事や会社に絶望してしまう人も多いと思う。私もそうで、4年前はもう自分はサラリーマンには向いてなくて人生が半分詰んでしまったと思っていた。しかしそう思った時に自分に対してこう問いかけてほしい、「これまで自分は仕事に真摯に向き合うために勉強や努力をしてきたのか?努力の方向ややり方は正しかったと自信を持って言い切れるのか?」と。もし仕事に対して努力する気になれない、とかやる気が起きないのであればそれはその仕事が自分に向いていないか、職場や働き方が自分に合っていないからのどちらかである。

私もこれからまだ様々な困難に直面することがあると思うが、勉強をする過程で思ったことや感じたことを忘れず、乗り越えていきたいと思っている。

 

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