rk-baryoのゆるっと日記

元ニート、現アラサーサラリーマンが日常生活、ビジネス、会社、旅などについて語るブログ

安易な気持ちでエンジニアに転職するのはおすすめしない

大手の電車運転士として働いていた人が運転士を辞めてプログラミングスクールに通ってエンジニアを目指したのだが、結局どこぞのSES企業※にぶち込まれて年収大幅ダウン&自由時間を失ったという内容のツイートがエンジニア界隈で話題になっている。

(※SES:システムエンジニアリングサービス。簡単にいうと、エンジニア(労働者)を他社に売る商売を行っているシステム会社。)

インフルエンサーの功罪

最近まで知らなかったのだが、どうやらコロナ禍となって以来、エンジニア(プログラマーシステムエンジニアを指す)を目指す人が増えているらしく、Youtubeでもプログラミングスクールをやけにおすすめしたり、エンジニアのメリットをたくさん並べるインフルエンサーが多く出てきている。

エンジニアを目指す人たちの動機としては、綺麗なオフィスでPCに向かって働く姿がカッコいいからとか、在宅ワークもできて自由な時間が多く取れそうだから、というものが多いという。確かにエンジニアになればそのような働き方はしやすくなるかもしれない。実際、私もエンジニアの端くれとして在宅ワークを行うことができているし、PC一台あれば大体の仕事はこなすこともできる。

ただ、エンジニアを目指すにあたってこのような環境面や待遇面ばかりに目が行ってしまうのは良くないと感じる。仕事そのものにおいて何か達成したいことややりたいこと、作りたいものがあるのであればモチベーション維持できると思うが、単純に楽に働けそうだからという理由で転職してもうまくいくとは到底思えない。

私もたまにインフルエンサー系のYoutubeを見るのだが、彼らはほんの一握りの成功者であり、その裏に何千何万もの脱落者がいるということを忘れてはならない。Youtubeに出てチャンネル登録者数が数万人単位というような人はもはや普通の人ではなく、何かしらずば抜けた能力を持っている人ばかりである。単に成功した人が表に出てきて自分たちにも見えるぐらい有名な存在になるというだけなのだ。

最後は自分自身で考えられるかどうか

私はスクールに通ったことがないので偉そうなことは言えないが、スクールで体系立てて学べばある程度の技術力を知識として身に付けることは可能だ。しかし、その知識をどう生かして応用していくかは自分自身で考えて経験しなければならないことである。それはスクールに通っただけでは身に付けることはできず、継続的に疑問を解消したり自分で色々なことを検証したりする中で身についていくものである。スクールに通うことを否定しようとは思わないが、いずれにしても最終的には自分で考えたりアイデアを形にしたりする努力が必要になってくるのである。

今の仕事がちょっと辛いぐらいの状態で、エンジニアになったらもっと楽になれるとか、年収一千万も達成できると夢見ることも悪くないが、生半可な気持ちでは到底達成不可能だし、挫折したら人生を棒に振ってしまう可能性もある。特に未経験からエンジニアを目指そうとしている人には、上記のような視点を少し考えてみてほしい。

 

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年収に拘っても拘り過ぎることはない

なぜ高年収に拘るのか

多くの人が転職する理由として大体一番多いのが、年収アップしたいからというものである。お金がないよりもあった方が生活する上においてやれることの選択肢も増えるし、精神的にも余裕を持って生きていくことができるのは確かであろう。また、婚活市場などでは特に男性であれば、その男性の価値=年収といっても過言ではないぐらい年収というのは重要視されるし、多くのことと切っても切り離せない関係にある要素だ。

私自身や前の会社の同僚を含め、私の周りでも多くの知り合いたちが転職して新しいキャリアを歩み始めていったが、多くの人はより高い給料を求めて自分のスキルを最大限に生かせる環境への転職を望んでいた。私は正直そこまで年収に対して拘りがなく、生活に困らず細々と趣味を楽しめるぐらいの給料があれば満足だったので、キャリアップとか年収にそこまでこだわる周りの人間の気持ちがあまり良く分からなかった。その思いは今も大して変わっていない。

高年収は例外なく激務である

高年収というのは社会的なステータスも高くて幸福度も高いかもしれないが、仕事内容はほぼ例外なく激務である。20代にして年収800万ぐらいを稼ぐ大学時代の同期がいるが、彼の仕事はなかなか過酷である。外資系企業で多くの国に拠点をおき、時差が大きい他国の社員と真夜中や明け方にウェブ会議をしたり、当然のように毎日日付が変わるまで残業をすることもよくあるという。もちろん忙しくない期間はたっぷり休みをとれたりしてメリハリはあるのだが、このような働き方を自分ができるかというと多分できず、年収が高いというご褒美しかないのであれば心が折れてしまうと思った。逆にこういう働き方に何も違和感を感じない人もまたいる。

メリハリがあるのは良いことだと思われがちだが、それも適度であればの話だ。高年収の仕事は総じてメリハリが極端である。分かりやすい例でいうと医者などが典型的であり、仕事内容が難しいのは当然として人の命がかかっている仕事なので自分の生活や衣食住などは二の次になる。どこにいようが何時であろうが緊急手術などが入れば病院に飛んでいかなければならない。ちょっと休みたいから有休を取るというようなことが難しく、自分自身の自由は少ないのではないだろうか。

高年収に拘る理由を考えてみる

それでも高年収を獲得して自分の価値をどんどん高めていきたいという人はそれでいい。でも私みたいに年収に拘らずそこそこまったり仕事をこなしていきたいという人種も一定数存在するはずだ。だが、今まで自分が関わってきた人の中に自分と似たようなタイプは少なく、多くはバリバリ働いて年収を上げたいというタイプの人であった。このような人の中にも、本心ではそんなに働きたくないという人もいるはずだと私は思っている。

収入ばかりに目が行ってしまう人は、自分がなぜそこまで収入にそこまで拘っているのかを一度考えてみるのも一興だろう。そこで見えてくることもあるかもしれない。

 

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苦手な仕事は他人に任せれば良いのか

日本社会においてゼネラリストは好まれる

一つのスキルを特化させるべきという意見と矛盾してしまうかもしれないが、今の日本において果たしてある特定のスキルだけを特化して生き残っていくことができるのかどうか、しばしば考えることがある。

人はそれぞれ向き不向きというものがあり、家事の中でも料理は得意だけど掃除や片づけは苦手な人など、得意不得意は個人によって全く異なる。家事などの日常生活であれば自分を含めた周りの人間がある程度気分を害さない程度に適当にこなしていれば大きな問題にはならないが、仕事でこのように適当な姿勢で臨むのはかなり危険である。サラリーマンであれば苦手なこともある程度は引き受けなければいけない場面もあるだろう。システム屋がずっとPCと睨めっこするわけにもいかず、時には顧客と対面で会話したり資料を作ったりプレゼンをしたりと、あまり引き受けたくないこともある程度はやらなければならないことが多い。

スペシャリストは半端ではない

そんな中でもやはり特定の分野においてずば抜けてスキルを持っている人はやはり重宝されるし、そのスキルを活かした仕事が舞い込んで来やすいのも事実である。Excelでマクロを組んで社内のシステムを驚くほど効率化できる人はずっと開発ポジションにいることができるし、人当たりよく会話できたり相手を説得したりする会話術に長けている人は管理職に抜擢されやすくなるだろう。ただ、このような重宝されるレベルになるためには、ちょっと知識があってできる、という中途半端なレベルではダメで、周りよりも「ずば抜けて」できる必要があるという点がポイントになる。

こう考えると私は8:2の法則を思い出す。80%の完成度にするためには20%の時間を費やせば達成できるが、100%の完成度にするためには残り80%の時間を注ぐ必要がある、というような理論である。ずば抜けてできる人というのはもちろんあるスキルに関して100%の完成度を持つ人なので、そこに至るまでに注いできた時間や資源は半端ではないはずである。80%完成度でも知識的には不足はないのかもしれないが、残りの20%があるかないかで天と地ほどの差があるという厳しい現実がある。

どちらを目指すべきか

仕事に限らず、複数のものから何らかのチームやグループを編成するときに悩みがちなのは、それぞれが別々の特定スキルに特化していて他のスキルはほぼ持たないグループと、それぞれが色々なスキルをそこそこ備えているグループのどちらがより良いのかどいうことである。意見は少し割れるかもしれないが、後者の方を好む人が多いのではないかと思う。リスクが少ないという点で無難なのも後者だろう。しかし、自分がグループメンバーだったとき、どちらの方がより自分が必要とされ、自分の能力を十分に発揮して楽しく活動できるかを考えると、前者の魅力の方が大きいと思う。

あるスキルにだけはもの凄い専門性を持つ良い意味での変人を目指すのか、なんでもそこそこできる常識人を目指すか。難易度は前者の方が高いのだが、それができれば仕事もかなり楽しくなりそうだと思う。

 

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仕事において特定のスキルを特化させることに損はない

やらない理由を探さないようにするために

変化の激しい現代において、ある特定の分野に対してスキルを有しているだけでは生き残っていく上で不十分だという話を最近よく耳にしたり、何らかの記事で目にすることが多くある。確かに一つのスキルを極めたからと言ってそれが必ず将来役に立つものとも限らないし、今役に立っていたとしてもいつか不要になってしまうかもしれない。その時に別のスキルを身に付けていなければニーズに対応できなくなってしまうことだろう。それは私も分かるし、納得もできる。

だが、だからと言って何のスキルも身に付けない理由にはならない。「将来何が必要になるか分からないから何もしなくていいじゃん?」という人も稀にいるが、それはやらない理由を無理やりこじつけているだけであり、ただの言い訳でしかない。一つのスキルすら十分に身に付けようとしない人はこの先必要とされるスキルが出現し、それを習得する機会に恵まれたとしても、同じように何かしらの理由を付けて習得する努力を放棄し続けていくことだろう。

どんなスキルが必要なのか

例えば私は一応システムエンジニアなので、詳しくない人から見るとPCのこととかプログラミングのこととかを中心にスキルを磨いていくイメージを持つ方も多くいると思う。これらのスキルもSEに必要とされる重要なものであることは間違いない。だが、実際にSEの仕事上で必要となるスキルはもっと幅が広く量も膨大である。プロジェクトのリーダーとして部下をうまくまとめるためには会話のスキルをはじめとするマネジメントスキルが重視されるし、設計書や報告書を書く時にはある程度の文章力が求められる。

特に会話などのコミュニケーションスキルはどのような職業であれほぼ必須のスキルだと思うが、このスキルをもっと磨いていこうと考える人は営業職など以外であればそう多くはないのではないか。私もコミュニケーションスキルを真剣に磨こうと思ったことはあっても実際に行動に起こしたことはない。そうであるならば、コミュニケーションスキルをもっと磨いて他の人よりも高いスキルを身に付ければ、何らかの場面でそのスキルが有利に働くことがあるかもしれない。大多数の人ができないことができれば、そのスキルが必要とされる機会があった時に自分が活躍できるチャンスとなり得る。

一つの分野でもスキルを身に付けておくことの大切さ

今頑張って取り組んでいたり、過去に何かの勉強を頑張った人は皆心の中で以下のようなことを多少は考えていたはずだ。

「このスキル(または資格)を身に付けて何の意味があるのだろうか?私は今何のために勉強しているのか?」

何か勉強をしている時に私はほぼ必ずこのような考えが心に浮かび、やらないでも良いかなと思いがちになってしまう。そして特に最近はモチベーションが上がらず、学習を放棄してしまいがちになる。

実際に今やっている勉強がどのタイミングで役に立ってくるかは分からない。全く役に立たない可能性もある。それでも、やった内容そのものよりもその過程で得た勉強に対する向き合い方や、スキル取得に対する成功体験は何にでも応用できるものとなる。だから、このような経験をしておいた方が新たに取得すべきスキルが現れても割と素早く対応できるのである。

役に立たないからやめるのではなく、興味があるのであれば継続してスキルを特化してみるのもとても大切なことなのかもしれないと思っている。

 

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同僚との距離感や言葉遣いについて思うこと

環境が変わると関係も難しくなる

前回の記事と似たような内容になってしまうが、最近ちょっと考えるようになったのが職場の同僚との適切な距離感の保ち方についてである。会社の同期であれば学生時代からの延長や研修での関係性などから多くの人はタメ口で話をするだろうし、各々が別々の部署に配属され、それまでタメ口での会話が基本だったのがいきなり敬語での会話になるということはないだろう。私も前の会社に所属していた時は何も意識することなく同期とはタメ口で話をしていたし、それが普通のことだと思っていた。また、後輩に対してもほぼタメ口で話をしていたと思う。

だが、転職等で環境が変わると周りの人にタメ口で接することは難しくなると感じる。新卒で一緒に会社に入った仲間に対しては職場の同僚という関係以上に親近感を感じやすく、後輩に対しても明確に後輩と認識することができ、タメ口を使うハードルは下がる。しかし、新しく入った組織では年次的には私が上であっても組織に所属している年数では相手の方が長ったりするので、先輩として接するべきか後輩として接するべきか分からなくなることがある。

敬語ばかりで堅苦し過ぎるのも考えものかもしれない

そのため、転職してからは自分より年次が下の相手に対してもひとまずは無難に敬語で接することを基本スタンスとしてきたのだが、ずっと敬語で接し続けることに対して最近は違和感を感じることも多くなった。私自身が先輩と接するときはもちろん敬語を使うが、先輩は私と接するときに敬語を使うことはあまりないし、もし先輩が私に敬語ばかりで話してくればかなり違和感がある。慣れの問題もあるかもしれないが、先輩から敬語を使われると少し突き放されて牽制されている感じがしてしまうし、フランクな関係での会話を進めづらい雰囲気を感じてしまいそうだ。

「自分がやられて嫌なことは他人にやるな」とはよく言われることで、嫌なこととまではいかないにしろ、自分が先輩にガチガチの敬語で会話されることに対して多少違和感があるのなら、私も後輩に対して少し堅苦しさを無くして接してみようと考え始め、少しずつ実行している。もちろん仕事上の人間関係なので友達のように接するわけにはいかないが、今までのように何もかも敬語でクソ真面目に答えるのではなく、たまにタメ口を交ぜたり冗談を言ってみたりして、少しでも相手に違和感を与えないようなコミュニケーションをとりたいと考え始めている。

 

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漆黒企業よりも灰色企業の方が危険な理由(ブラック企業)

近年におけるブラック企業の変遷

サラリーマンなら誰しもブラック企業に入社して心身共々疲弊してしまう状況だけは避けたいものである。よくIT業界にはブラック企業が多いと言われることがあったが、それも5年前ぐらいまでのこと。IT業界に対しては悪い噂ばかりされることが多かったので、ここ数年は多くの企業がフレックス制を採用したりみなし残業を止めたり、ブラック企業の要素になり得るものを潰すことに注力している。そしてこれは個々の会社単位だけではなく業界全体として特に力を入れて取り組んでいるように思える。

今はパワハラやセクハラをはじめとするハラスメント等に対する罰則が大きくなり、企業側もあからさまに従業員を酷使することが難しくなっている。そのため、電〇やワ〇ミのように一時期社会現象になるほどの騒動を引き起こすような事件は最近あまり発生していないように見受けられる。これは一見喜ばしいことである。

しかし、そんな中増えてきたのが、あからさまではないけれどネチネチと従業員を追い込んでいく体質の企業である。前述のあからさまなブラック企業を「漆黒企業」と例えれば、こちらは「灰色企業」と呼ぶことができ、まさに法律のグレーゾーンを攻めるブラック企業のことである。そして残念なことに、この灰色企業は漆黒企業以上に質が悪く、放っておけば茹でガエル現象に陥ってしまうと私は思っている。

灰色企業が危険な理由

灰色企業は労働者視点から見るとそこまで悪く見えない点で非常に質が悪い。

私が以前所属していた会社などはまさに灰色企業の典型であった。仕事量はそこそこ多いし上司や先輩でたまに面倒くさい人もいるけど、8割以上の人はしっかり相談に乗ってくれる優しい人たちだった。また、残業はみなし残業だけど給料もそこまで悪くなかった。客先常駐でやりずらい仕事もあるが、おかしな労働をさせられることもない。だから、少し違和感がある状況でも「社会人なんてこんなもん」と変に自分を納得させて嫌な仕事をやり続けた。いつしか私は定時後最低でも1時間は事業所に居残ることや、残業代がやった時間分支給されないことが当然のことだと思うようになった。

しかし、これは前職の会社内だけでの常識であり、一般的に良いとされる考え方とは程遠い。それでもその環境にしばらくいれば多少辛くても理不尽でも殆ど何とも思わなくなる。人間は環境に順応できる生き物だが、この性質を見事に灰色企業に利用されてしまっているのである。仮に漆黒企業であればパワハラや残業時間の度が過ぎたものになるので、いくら順応しようとしても順応しきれずにすぐに辞めるなどの選択ができると思う。(順応できないと思ったら諦めるべし。こういう状況で無理に粘るのは良くない)

自分が所属する会社や組織がこのような現象に陥っていないかどうか再度見直してみると良いかもしれない。そして、おかしいことはおかしいと主張し、主張が通らずどうしても納得できないのであればその環境からは逃げるしかない。環境に適応する能力があることは本来良いことではあるが、灰色企業のような存在に搾取されてしまうことを考慮すると、過度な適応力の高さも考えものである。

 

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1年間定期的に勉強を続けて現在感じること

仕事で分かることが少し増えた

昨年から本格的にプログラミング技術の勉強をし始めてから1年と少し経過している。勉強といっても座学的なものは資格試験の勉強がメインであった。それ以外の時間はほとんど動画を見ながら手を動かして何かを作ることや、自分で考えてイメージした動きになるように作ることをやってきた。まだ経過して一年ぐらいしか経っていないのだが、少しずつ仕事においてもプラスの影響が出てきたと感じている。

まず、色々な人と会話をしていて分からないことが減ったように感じる。ウェブデザインの資格勉強の過程で基本的な単語などを学習できたことが大きな要因だと思うが、それ以外にも自分で疑問に思って調べたことや考えたことなどが糧になっていると思う。勉強していなかった場合の自分と比較することができないので本当に勉強のおかげなのかと言われると分からないが、少なくとも以前よりは分からないことが減っている。そのおかげであれ程苦痛に感じていた仕事を前向きに捉えることができるようになってきたし、仕事の楽しみも少し分かってきたような気がしている。

今は仕事を辞めなくて良かったと思っている

新卒や2,3年目の頃、システムエンジニアという職業は自分には全く向いていないと思っていたし、就活の業界選びは完全に失敗したと思っていた。だから何度も辞めようと思ったし、実際に前の会社を辞めた時にはもうシステム開発の仕事だけは御免だと思っていた。

しかし、今はあの時本当に辞めてしまわなくて良かったと思えるし、就活時の自分の選択は間違いではなかったと思える。自分みたいな内向的で一人で没頭できる作業が好きな人間にとっては開発とか技術職が向いていると漠然と思っていた。そして実際に社会人になって想像よりはるかに多く求められる能力があることを知って絶望した。だがそれはこの仕事の一つの側面しか見えていなかったということ。開き直って自分の職業に真摯に向き合い、苦手だと思い込んでいた分野についても勉強を重ねるうちに分かることが少しずつ増えていき、この仕事の楽しさが少しずつ分かるようになってきた。まだまだ得意というには程遠い状態ではあるが。

自分自身に問いかけたいこと

新卒で会社を辞めてこぼれ落ちてしまう人は少なくないと思う。入社したけれど1カ月も経たないうちに退職したり、自分の仕事や会社に絶望してしまう人も多いと思う。私もそうで、4年前はもう自分はサラリーマンには向いてなくて人生が半分詰んでしまったと思っていた。しかしそう思った時に自分に対してこう問いかけてほしい、「これまで自分は仕事に真摯に向き合うために勉強や努力をしてきたのか?努力の方向ややり方は正しかったと自信を持って言い切れるのか?」と。もし仕事に対して努力する気になれない、とかやる気が起きないのであればそれはその仕事が自分に向いていないか、職場や働き方が自分に合っていないからのどちらかである。

私もこれからまだ様々な困難に直面することがあると思うが、勉強をする過程で思ったことや感じたことを忘れず、乗り越えていきたいと思っている。

 

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痛みを伴わずに恩恵を受けるのは難しい

在宅勤務中心の生活になってから余計なことを考える時間が増えてしまい、なんとなく心につっかえているモヤモヤした気持ちを言葉にしてスッキリさせたいと思っている。無論、モヤモヤしていることなんて山のようにあるのだが、少し考えて言語化できそうなものからどんどんブログに文章として残していきたいと考えている。

冬季賞与支給の見送り疑惑を耳にして思ったこと

実は会社からの夏季賞与支給のタイミングでちらっと聞いていたのだが、夏季賞与は通常通り支給されるが冬季賞与はもしかすると支給されないかもしれない、ということが噂されていた。本来賞与というのは会社の業績が良かった時に特別に支給されるものであり、通常は支給されなくて当然のものである。しかし、毎年ほぼ必ず賞与が支給されることから我々はそれに慣れてしまい、支給されるのが当たり前だと思うようになってしまった。賞与が支給されないともちろん年収の減額に直結するし、お金の使用計画も変わってくるのでサラリーマンにとっては死活問題になることもある。

一方でよく考えてみると、これはある意味で一種のギブアンドテイク的なものかもしれないと思うようになった。今年の3月以降、私の所属する会社では8割以上の社員が月8割以上の日数で在宅勤務を行うようになった。そして会社の顧客企業もまた在宅勤務が増えてきており、今までのようにビジネスがスムーズに進まなくなってきた点は否めない。それは会社の業績低下という形で明確に表れ、我々末端の社員の賞与の減額または返上につながってくる。その代わり、働く労働者である私たちは日々の苦しい満員電車やウザったい同僚や上司と毎日顔を合わせる必要もなくなり、在宅で睡眠時間もたっぷり確保して健康的な生活を送れるようになった(逆に生活リズムが乱れた人も一定数いると予想はできるが)。

お金を取るか時間を取るか

上記を究極の二択として考えることができるだろう。つまり、賞与(お金)をとるか、時間を取るかということである。できれば両方取りたいのが人情ではあるが、これだけの短期間で状況が急激に変化したため、やはり会社の業績が今まで通りという訳にはなかなかいかないだろう。まだ完全リモートで仕事を全く滞りなく進めていくには少し時間がかかると個人的な感覚でも思う。現段階でそれができる会社も存在するだろうが、そういう会社はもう5年以上前から虎視眈々と準備を進めてきた会社であり、この期間の変化にもそれなりに上手く対応して業績も維持しているのだと思う。

出勤の手間が減って時間が増える分、年収は多少減額されるというのは仕方のないことだと思う。やはりどこかである程度楽をしている分、別の箇所で必ずしわ寄せが出てくるということは理解して受け入れなければならないと感じる。

 

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一度身に付けたスキルは簡単に忘れないのであれば

小さい頃に習ったことは不思議と忘れない謎

私は大人になって不思議に思うことが一つある。それは、今現在水泳を習っていたり頻繁に水の中を泳ぐ機会があるわけではないのに、たまにプールに行って泳ぐと普通に泳ぐことができるということである。子供の頃にスイミングスクールに通っていたが、その頃からもう十数年以上経過する。年月がある程度経過したら体は泳ぐことを完全に忘れてしまいそうなものだが現実はそうでもなく、今も水の中に放り込まれて泳げと言われたらそれなりに泳ぐことができる感覚がある。同様にサッカー経験ゼロの人がノーバンリフティングを10回やれと言われたら大抵の人はできないと思うが、私はサッカークラブに所属していたことがあるので、3回ぐらいチャレンジすれば今でもほぼ間違いなくできる。サッカーから離れて数十年経つにも関わらずである。

人間の体や脳は一度記憶した体の動作をよく憶えているものだとつくづく実感する。逆に考えると、一度ある程度覚えてしまえばそのスキルは自分のものとして身に付き、少々の怠慢で喪失するものではないと思われる。おそらく、脳内に一度できた回路はそう簡単には無くならないということかもしれない。中学生の頃に必死になって覚えた英単語や洋楽の歌詞、高校生や大学生の頃にカラオケで歌いまくった曲は今でも聞けばそれなりに思い出すことができるし、歌詞もあまり忘れていないことには本当に驚く。時間をかけて何回も反復して覚えたことはしっかりと記憶に残るという人間の素晴らしい能力だと思う。

脳内回路のストックを作っておく

何事にも当てはまるが、新しいスキルを身に付けるにはそれなりの労力が必要となる。英単語を覚えることやキーボードのブラインドタッチを指で覚えることなど、体を使うことだけではなく頭を使うことでも新しい脳内の回路を作るのは簡単なことではない。今でこそ多少はマシになったが、私もプログラミングの考え方を理解するのに何回も挫折し、自分には向いていないからやめようと思った時もあった。ただ、一度でも回路を作ってしまえばそれは生涯に渡って自分の強力な武器となる。身に付けた後は常に磨き続けていなかったとしても、必要な場面で記憶を呼び出してあげればあっという間に思い出して活用でき、新規で習得していくよりはるかに短い時間や労力で済む。このように考えると、人生のなるべく早いうちにできるだけ多くのスキルを自分の体と頭の中に叩き込んで回路をたくさん作っておくことは非常に大切だと思うし、仕事において先輩や上司が若いうちになるべく勉強しておけ、と口酸っぱく言うことにも納得できる。

新しいことを始めるのに年齢は関係ないと思うが、できるだけ若いうちから始めた方が習得するのは早いだろうし、より身に付きやすいと思う。だから、自分が一番若い今この瞬間から興味のあることややりたいことに対して積極的に取り組む姿勢は大切だと感じている。

 

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余裕がない時にこそ冷静さを忘れずにいたい

余裕のない時に人の本性が分かる

心に余裕がない時、人間は自分で思ってもいなかった行動をとったり発言をしてしまったりする。仕事で納期が迫り来る中、思うように作業が進まなかったり同僚または部下が期待した動きをしてくれなかった時、思わずキツめの口調で注意してしまう人もいる。または、家庭の煩わしさに疲れて癒しや安らぎを求めた結果、あってはならない不倫関係の泥沼に陥ってしまったり、薬物依存症になってしまったりする。当事者も頭ではそれがいけないことと分かっているのだろうが、世の中においてこれらの事象の発生は後を絶たない。本能は我々が想像している以上に正直ということなのかもしれない。

余裕がないとパフォーマンスが落ちる

だが、様々な状況でこの本能が邪魔になるときがある。それは特に自分のパフォーマンスをしっかり発揮したいときであり、仕事だったり何かの試験などでも当てはまる。冷静に焦らず一つひとつを着実に考えていけば簡単に終わるような作業や問題でも、意識が散漫になって目の前の作業から目をそらしてしまうとあっという間に頭が混乱し、自分で考えもしなかったようなミスを犯してしまうことがある。集中力が落ちると作業が捗らないというのはまさにこれが原因だと私は考えている。

特に私の場合は会社で残業などをしていると、本来ならば30分程度で終わるボリュームの作業に平気で2時間も3時間も費やしたりすることがあった。目の前の作業よりも、「今日終わらなかったらどうしよう」とか「早く終わらせてさっさと寝ないと明日起きられねぇ」とかそんなことばかり考えながら作業をしているのだから、効率が落ちたりミスが増えるのも無理はないだろう。無論、全ての人がこのように焦ってしまうわけではないだろうが、それなりに追い詰められた状況において、人は通常通りのパフォーマンスすらままならないということを痛感した。

パフォーマンスのブレを減らすために

それでも私は、どのような状況でも自分のパフォーマンスの70%以上は出せるようになりたいと思っている。テストで残り時間が3分しかないのに200文字以上の記述問題が3問残っているという絶望的な状況で諦めることは簡単だ。しかし、仕事のように何が何でもそれなりに結果を出さなければならない場合、諦めることしかしてこなかった人間はそこでもうひと踏ん張りできない。そのひと踏ん張りがあれば部分点がもらえて辛うじて合格ラインに届いたかもしれないし、少なくともマイナスになることはなかったはずだ。

どんな状況においてもきっちりと最後まで考え抜く力や、一つ一つの事象を丁寧に確認することができる能力こそ、”今を大切にする”ということであり、人生における多くの場面で役立つソフトスキルの一つなのかもしれないと最近になって思う。個人的にはプレッシャーのかかる状況に置かれるのを好むわけでもないし、単純な精神論で人を育てるやり方にも賛同はできない。だが、もし今後自分がプレッシャーのかかる余裕のない状況に置かれたら、むしろ自分の能力を伸ばすチャンスという意識を持てるぐらいになれば精神的に一歩成長できると思っている。

 

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