rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

出会いと別れの3月に思うこと

この気持ちは何だろう

例年であればあまり思わないことだが、今年の3月はやけに侘しくもの悲しく感じる。その理由は、今まで一緒の組織で働いてきた仲間が2人も転職していなくなってしまうからだ。

テレワーク中心の働き方だったので毎日顔を合わせているわけではない。だからそこまで寂しさを感じるのも変な話だと思うが、いざいなくなるという事実を目の前にすると、今まで関わった思い出や一緒にやった仕事を思い出し、ふと切なさを感じる今日この頃である。姿こそ見えないけれど、仕事を通じて心のどこかではいつもつながっていたのかもしれない。

今まで別れなどは散々経験してきた。幼稚園の卒園式、小中高の卒業式、部活での3年生を送る会、壮行会、全てをかなぐり捨てた前職の退職、、挙げればきりがない。もちろん、学生の頃の卒業式でもそれなりに寂しさを感じたし、実際に涙を流している人も多くいた。だが、今回の同僚の退職は少し別の感情を生み出しているように思える。その気持ちが何なのか良く分からず、2人の退職を聞いたその日から今日まで色々なことを考えていた。そして今もぼんやりとして言葉にはできない感情が心の中に漂う。

この気持ちは何だろう。

それぞれの夢へ向かうため

そのうちの一人は、自分の市場価値を上げてもっと厳しい環境でハードワークに挑戦したい、という理由でコンサル会社に転職を決めた。確かに、うちの会社の労働環境は正直生ぬるいところはあると思う。彼は新卒5年目でコロナ禍と共にテレワーク全盛の中で入社してきた世代だ。毎日出社して仕事をするという働き方を知らない世代であり、そのような働き方に憧れを持つのも一つの考え方だと思う。ずっと家に閉じ込められて、何がどう評価されているのか分からない会社で居心地が悪かったのかもしれない。そして、自分の市場価値をもっと上げたい、という言葉は私の心に強く突き刺さった。今の環境に胡坐をかいてしまっている自分への叱咤激励に聞こえたから。自身ももっと価値を上げる努力をしなければ、と思うきっかけになった。

もう一人は、将来フリーランスのウェブエンジニアになりたい、ということで少しウェブ業界寄りの会社に転職するという。一緒に働いてきた同僚がこのようなことを考えていたのも全く知らず、自分は同僚のことなんて何も分かっていなかったんだなと思った。自分の好きなことややりたいことを見つけて、それに向けて前向きに転職ができるのが本当に羨ましいし、見ていて眩しく輝いて見える。

自分のキャリアは?

社会人としての私の働き方の夢は、リモートワークで在宅勤務やワーケーションをすることだった。それに向けて今の会社で少しでも力をつけて、どこかまた別の場所でその働き方を実現したいと考えていた。しかし、コロナ騒動で願ってもいない形でその夢が叶ってしまった。期待よりもはるかに早く自分の働き方の理想が実現できてしまったということだ。

在宅勤務は悪くないし、今の会社に不満は特にない。6年前にこの会社に転職してきたことはやはり成功だったと思っている。だが、同僚が夢を追いかけて退職していく姿を見て自分の中の怠惰さや甘えに気付かされている。現状不満はないし、前の会社みたいに理不尽なパワハラと暴力的な業務に支配される生活に戻りたいとは思わない。それでも、出ていく2人の同僚の姿がどうしても眩しく見えてしまう。

この気持ちは何だろう。

 

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2023年を雑に振り返る

12/29となり、今年も残すところあとわずかとなった。

例によって昨年の年末ブログを見返したりしているのだが、やはり光陰矢の如しということを感じる次第ではある。あと、毎年あまり彩りのない人生を無難に過ごしてしまっているな、というのは何となく感じている。別にそれが悪いこととは思わないし、平穏に過ごしていくというのもささやかな幸せにつながることだと思う。

昨日のブログに良かった買い物について色々と書いたが、その裏で実は無駄な買い物やもったいない出費を重ねてしまった年でもあった。その点は深く反省して来年につなげていかなければならない。

2023年1~3月

例年のように酒を飲みながら1/1を迎え、穏やかに2023年が始まった。仕事のほうはまだ比較的落ち着いていたが、夏ごろに控えるリリースを目指して本格的にチームメンバーと取り組み始めた時期でもあった。

2月末には蔵王まで旅行に行って10年ぶりのスキーを楽しんだ。初日の最初の1時間ぐらいは滑れる気がしなかったが、やっているうちに感覚を思い出し、山頂から麓まで下りてくるぐらいなら難なくできるようになった。振り返ると、今年の旅行はこれだけだったが、最高に楽しい思い出となった。

私生活では、肩の痛みや神経疲労の管理が徐々にうまくなっていき、トレーニングでも少しずつ使用重量を上げていくことができた。数年間停滞していたところから少しずつ脱出でき、自分の成長を感じるようにもなった。

2023年4~7月

4~6月の残業時間を抑えたかったが、仕事がだんだんと忙しくなりなかなか残業時間を減らすことが難しくなった。コロナウイルスが5類となり、マスクを外したりいちいち検査をしない日常が戻ってきた。

居住地付近でも夏祭りが開催され、コロナ禍の日常しか知らなかったこの地で花火が上がったり、賑やかな神輿が外を練り歩いたりする光景を見ながら、夏が戻ってきたなぁなんて思ったりした。

2023年8~9月

仕事はいよいよ納品期限を迎え、プロジェクトも大詰めとなったが、8月のリリースには間に合わず、延期となってしまった。考慮不足や抜け漏れがあった点で自分にもやはり非があると感じているし、予定通りいかなかったことについては反省しなければならない。その後、9月には無事リリースできたが、それまでの疲労がでてしまい軽く体調を崩してしまった。

連鎖的に、トレーニングでもそれまで順調に推移していた記録が落ちてしまう事態が発生した。こればかりはもう仕方ないと思っているが、やはり体調管理を第一に考えないといけないと改めて感じた。

2023年10月~

仕事については納品まで9月で終わったため、保守と運用に切り替わり、その他の案件はまだ本格的に始まっていないという状況が現在まで続いている。この期間に少しでも反省するなり教訓を生かすという努力をしていくのが大事だと思っている。

私生活では、友達が紹介してくれた女性と何度かデートをしたのだが、お互いにあまり盛り上がらずに自然消滅してしまった。これも気持ちの問題なので、まあ仕方ないことなのかなとは思う。

2024年に向けて

基本的に今年はそれなりに順調に過ごせたのではないかと思っている。大きく体調を崩すこともなかったし、精神的に大きなダメージを食らうこともなかった。

ただ、夏ぐらいからひげ脱毛を再開したのだが、某有名エステ店で非常にぼったくられてしまったので、それが2023年最大の失敗だと思っている。

お金の問題は常に人生に付きまとってくる。ぼったくりにあった経験から、もう少し自分のお金を大事に使えるようにしたい思ったし、来年はNISAやふるさと納税などの制度も少しずつ勉強して活用していきたいと思っている。

 

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2023年の買い物履歴が教えてくれたこと

早いもので2023年ももう終わろうとしている。

今年も色々なものを購入したが、今思うと買うべきではなかったと感じるものもあるし、本当に買って良かったと思うものもある。

PCモニター

まず、今年の1月から使い始めたのが新しい在宅勤務用のPCモニターである。仕事で在宅勤務が定着してきたこともあり、自宅の仕事環境を少しずつ整えたいと思っていた。今までもマルチディスプレイを使っていたが、正面モニターが少し小さかったので26インチぐらいあるそれなりに大きくて見やすいものに変更した。これのおかげで会社のオフィスと遜色ないぐらいの作業効率を実現することができたし、今年はこのモニターに仕事で救われた部分があるかもしれない。これは2万円弱したが、購入して良かったと思っている。

冷蔵庫

次に、6月には冷蔵庫を買い替えた。これまで使用していた冷蔵庫は高さが110センチぐらいしかなく、一人暮らしであまり自炊しない人向けのものであった。しかし、私の生活スタイルは自炊もそれなりにするし、週末にまとめて食料を買い込んで貯蔵しておくスタイルなので、どうしても容量不足というのが大きな悩みだった。一人暮らしをはじめる際にはとりあえず安くて最低限使えるものであればなんでも良いと思っていたが、暮らしに慣れてきて生活スタイルがある程度決まってくると、この冷蔵庫だと使いづらいし、買ったものが冷蔵庫に入りきらずにストレスを感じることも多かった。そのため、3ドアで高さがなるべく低いがそれなりに容量があるものを購入した。この冷蔵庫のおかげで現在は買い物時に余裕を持って収納できているし、10万円ぐらいの大きな買い物になってしまったが今でも買って良かったと思っている。

オフィスチェア

そして、10月に在宅勤務用のオフィスチェアも購入した。今まではゲーミングチェアを利用していたが、座面が陥没してきたのとカバーが剥げてきてその度に床が汚れてしまうこと、メッシュでないため夏場に背中から尻にかけて蒸れてしまうことなどのストレスが重なり、交換することに決めた。新しい椅子はメッシュ素材で人間工学設計のものを購入した。初めのうちはあまり慣れなかったが、3週間ぐらい使っていると毎日の肩こりの症状がほとんどなくなり、快適に在宅勤務できるようになったと感じている。来年の夏には背中の蒸れなども軽減されているはずなので、これも結果的に毎日の生活の質を上げてくれたと思っているし、4万円ぐらいだったが買って良かったと思っている。

まとめ

私がモノを新たに購入したり買い替えたりする基準として、それを使っていて自分がストレスや不便を感じるときには買い替えを検討する、というものがあるような気がする。単純に欲しいから購入する、だとお金もかなりかかってくるし、狭い家に置くスペースなども確保できなくなってくる。買ったら古いものは捨てる、毎日使うものにはそれなりに高価なものを買う、使用頻度が低いものは安いものかレンタルで済ませる、という基準がなんとなく見えてきたような気がしている。そんなことに気付かせてくれた2023年の買い物履歴だったと思う。

 

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買ってよかった2023

 

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生活水準を上げすぎないほうが良い理由

生活水準を上げることへの憧れはどこから来るのか

多くの人は今の生活よりも良い生活をしたいと夢見て、日々仕事を頑張ったり将来のために貯金したりしていると思う。そのようなモチベーションがあって色々なことを頑張れることは素敵なことだと思うし、生きる希望にも繋がるので大切なことだと思う。より裕福な生活ができればそれだけ毎日の生活が楽しくなるし、享受できるエンタメや恩恵も多くなって結果的にハッピーに生きていけるのだと思う。

広い部屋、大きなテレビに大きな質の良いソファー、ちょっと豪華に見えるシャンデリア風の照明、毎日の洋服を取り出すのが楽しみになる良質な桐箪笥、セキュリティの高いオートロックを完備した玄関、心と空気の癒しになる観葉植物、、など挙げていくときりがないぐらい、高い生活水準のイメージが湧いてくる。このような環境やモノに囲まれて過ごす人生もまた一興なのかもしれない。

人ひとりの生活にそこまでの空間やモノは必要ない

そもそも、人はどうして持て余すほどの広い家に住んだり、べらぼうに高価な腕時計やブランド品を身に付けたりしたがるのだろうか。色々な理由があるとは思うが、大きな理由の一つとしては見栄というのがあるだろう。誰かと比較して優位に立ちたい、とか誰かに対して自慢したい、招待した時に恥ずかしくないぐらい大きな家に住みたい、などの理由が最も大きいのではないだろうか。

広い豪邸は昔からあったかもしれないが、大きなテレビや優れたIoT機器などはここ10~20年ぐらいの間に出てきたものでしかない。例えば、1970年代はカラーテレビを持っているだけで、そのサイズが現代のテレビと比較してかなり小さい物であったにもかかわらず、それなりに良い生活水準といえたはずだ。

また、独房で生活している囚人がいるように、人ひとりが最低限生活できる広さは独房レベルで十分という可能性だってある。ここでの生活というのは、食う、寝る、何か作業や仕事をする、ということで、そのための最低限のスペースは本当に六畳一間程度あれば不自由ないのではないかとすら思う。

そんな中、一人で全箇所掃除もできないような豪邸に住んでいる人間を見ると、どんなに金持ちで偉い人でも身分不相応に見えてしまう。何より、自分自身でメンテナンス、マネジメントができないのだから。

今より低い生活水準に後戻りできなくなるのは辛い

私は、生活水準をもう少し引き上げようと思えば多分できると思う。だが、敢えて生活水準を引き上げすぎないように気を付けている。その理由は、後で生活水準を引き下げないといけなくなった時にしんどいからである。想像してみると分かると思うが、慣れてしまった現在の生活水準を引き下げることは容易ではない。今の生活で当たり前にやっていることができなくなるというのはかなり辛い。

例えば、お風呂の追い炊き機能は今風の家であればどこでもあって当然だろう。しかし私の一人暮らしの家には追い炊き機能がないので、冬の風呂が地獄のように寒い。入居時にそこまで気にかけられなかったのがいけないのだが、とにかく冬のお風呂がしんどくてたまらない。実家暮らしだったときは追い炊きがあり、真冬でもお風呂は暖かいのが当然と感じていたのでこの生活水準の下落はかなり痛いものであった。

高い生活水準が当たり前になると、何かの拍子でそれを維持できなくなった時に苦しさが倍増すると思うのだ。さすがに追い炊きがないのは厳しすぎるのでそこは我慢する必要はないと思っているが、低い生活水準で当たり前、ぐらいに思っておいたほうがいざ経済的に困窮したときにも強く生きていくことができると思うのだ。

 

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4年ぶりの夏に感じること

4年ぶりの通常の夏

夏本番となり、全国各地で花火大会や夏祭りが開催されている。昨年まではコロナの影響でこれらの行事が自粛されて開催されなかったため、2019年以来、実に4年ぶりに夏の風物詩が復活している今シーズンである。私はコロナによる自粛期間の真っ只中に一人暮らしを始めたので、コロナの影響がない通常通りのシーズンを一人暮らしのスタイルで過ごすのが初めてである。そのため、家の近くで花火大会が行われたり、全国の夏祭りを一人でテレビで観戦するというのがとても新鮮に感じている。

コロナ前まで、私が例年の夏必ず行ってきたことの一つに一人旅がある。お盆休みの期間、首都圏から数百キロ離れた国内の僻地を一人で旅行で巡ることが毎年夏の恒例行事だった。日常の煩わしさを忘れ、知らない土地に一人で足を踏み入れることで感じる孤独感だったり、旅先で会う見ず知らずの人たちとの一時の交流を味わうことが主な目的である。

旅のアリア

2019年までは自分なりに色々な場所に行ってきたが、2020年以降これまで一人旅独特の雰囲気を感じることがなかった。そんな中、様々な行事が4年ぶりに次々と復活している様子を見ていると、4年前までの自らの感情や旅で感じたことなどが少しずつ蘇ってくる。長い冬眠から目が覚めたように、ふとした瞬間にそんな感覚に陥る。

羽田空港モノレールの独特の音、不規則な揺れ、車窓から見える埋め立て地の景色、数々の物流倉庫、スーツケースを転がす人たち。空港の待合ロビーで見た虫取り網を両脇に抱えた親子、離着陸時の飛行機のあの独特の感触。目的地までの暑い獣道をクマゼミの合唱の中歩く足裏の感触。真夏なのに気温17度しかない北海道の宗谷岬や青森の大間崎。熱帯ジャングルのようだった鹿児島の佐多岬。通常の夏が駆け抜けていく今年、コロナが流行り始めてからの約3年の間に忘れてしまっていた旅への憧れやロマンを思い出した。

やはり、また旅をしたいという気持ちになってくる。ずっと家の中に閉じこもる生活をしてきたので、かなり体や感覚が鈍ってしまったかもしれない。それでも、思い出すことによって自分の感性が蘇る。色々な場所を訪れてみたいという好奇心。仕事も日常も全て忘れる日を年に数日ぐらい設けたい。一人旅で感じる言い表しようのない孤独を感じてこそ、また日常生活に力を入れる活力にもなる。縁もゆかりもないどこかの僻地にまた足を踏み入れたいという気持ちが湧き上がってきている。

 

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平日昼間のテレビを見なくなった話

平日のエンタメ系の番組は単純につまらない

在宅勤務中心の生活になってから、平日の昼間に家に居るという、毎日通勤が当たり前だった頃では考えられなかった生活スタイルがすっかり定着している。家に居る時間が長いほど誘惑は多くなり、時には仕事の妨げになることもある。その最たるものの一つにテレビがあるのではないかと思う。

朝ご飯を食べながら何気なくテレビをつける。朝は色々な情報系の番組がやっているが、それらは普通のニュースとは違って芸能系のゴシップだったり実にくだらなくどうでも良い情報を垂れ流していることが殆どである。時には有用な情報もあるが、それはきちんとしたニュース番組で視聴すれば良いことで、わざわざあの手の情報番組を見る必要はないと思う。

そして昼間の番組になるとさらに内容が酷く、芸能人の不倫やスキャンダルをこれでもかというほど連日のようにテーマとして扱う。そしてコメンテーターという名の良く分からないタレントや自称専門家の人たちが、好き勝手にペラペラと無責任に自分の意見を発言している。

テレビをつけなくなった理由

平日に在宅するようになって3年余り、冷静に考えるとその存在意義が良く分からないようなテレビ番組を仕事の休憩中に思考停止で毎日なんとなく流していたのだが、今年の4月ぐらいから朝や昼間にテレビをつけることをきっぱりと止めた。その理由はシンプルに、見ているとストレスが溜まって生活に悪影響が出ている、と感じてしまったからである。具体的に症状として出たわけではないのだが、ふとした時にその内容を思い出して反吐が出る思いをしたり、自分の生きていく活力とかパワーを少しずつ吸い取られているような気がしたのである。

ネットとかもそうだと思うが、現代社会は情報が多すぎる。人間の脳や体の構造が古代とほとんど変わっていないのに、触れる情報量だけが膨大になっていく。何気なく見たり聞いたりしていることは普段の自分の行動や思考パターンにも影響を与えうるし、無意識のうちに悪い方向に流されてしまう可能性もある。妙な情報番組に自分自身の道筋を侵されないためにも、一日の中で自分が触れる情報量をある程度抑えた方が良いのではないかと考えたのである。

スマホやネットばかり見るのも止めてみたらどうか

話は少しそれて読者の方への提案になるが、くだらないテレビ番組などは見ないのは当然として、毎日スマホに2時間以上使うのはやめてみたらどうか。多くても1時間ぐらいで十分なのではないだろうか。

昔の人はスマホなどなくても毎日問題なく生活できていたのに、現代人がそれをできない理由がないと思う。もちろん便利なサービスなどはスマホで享受しやすいが、使用時間を必要最低限に抑える努力は必要だと思う。

たまに電車に乗ると、特に若年層ほど無心にスマホ画面をのぞき込んで必死で何かをやっている人が多い。そんな人たちはスマホに脳を乗っ取られてしまったのだろうか。もっと目の前で今起こっていることとか、自分が今感じていることとかを大事にすればよいのになぁと思ってしまうことがある。

得る情報を増やす発想を捨て、減らす発想を持つことで何か新しいものが見えるかもしれないので、その思考で行動することをおすすめしたい。

 

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お年玉はすぐに使った方が良いのか

貰ったお年玉の行方

子供の頃は親とか親戚からもらうお年玉を毎年正月にとても楽しみにしていた。今すぐに買いたいものがなかった時でも、お年玉の包装紙を見ると何かご褒美を貰えたような気がして嬉しい気持ちになったことをよく覚えている。また、弟よりも少し多い額が入っているのを見ると、兄貴でよかったなと思うこともあった。

そのお年玉であるが、貰った後にいつも親に預けるのが通例となっており、その行き先は親が管理する私の将来のための貯金口座に保管されていたと記憶している。もちろん、お年玉をもらった時に欲しい物があったら買うこともあったが、たいていの場合は貯金口座に移動されてしまうことが多かったと思う。他の家庭でもそうなのかはわからないが、今思うとこれは非常に勿体ないことをしていたと感じてしまう。

大人になると薄れる金額の価値

中学生の頃はともかく、小学生くらいの時は100円玉を拾ったりもらったりするだけでとても幸せな気持ちになった。100円で缶コーヒーや駄菓子を買うことができると思うとワクワクしたし、友達と駄菓子屋に行ったりすることも一つの楽しみであった。

だが、中学や高校に上がると100円では欲しいものが買えなくなってきたり、やりたいことが何一つできない状況になる。部活の用品が買えない、レストランでの食事代が出せない、電車で2駅以上の移動ができない、など行動範囲が広がるにつれより多くのお金が必要であることに気付く。

その時でも100円ではなく、1,000円であればせめてもの救いにはなったし、1,000円あれば色々なことができたように思う。それでも、大学、社会人と年齢を重ねると1,000円単位でも物足りなくなっていき、万単位のお金を持ったり使ったりすることが普通になっていく。小学生の頃、あれだけ喜んで使った100円が大人になっていくにつれどんどん無価値になっていくのは、冷静に考えるとちょっと寂しい気持ちになってしまうものである。

今感じる価値を重視してお年玉を使うべき

巷では今も昔も変わらず、将来のための貯金しましょうなどということがよく言われるし、それが美徳とされる風潮も未だに残っているように思う。もちろん、大人になってお金で苦労したり生活を破綻させることがないように、子供の頃からある程度の貯金習慣を身に付けておくことはとても大切だと思う。事実、私自身もこの習慣を身に付けておいたからこそ今の人生が救われている側面はある。

しかし、子供の頃にもらったお年玉の多くは将来のための貯金しましょう、などという考えはなかなか愚かなものだと思う。お年玉を毎年全額貯金していってそれを成人まで継続したとしても、たまっても50万円ぐらいなのでないだろうか。無論、私の場合はそれよりはるかに少なかった。せいぜい給料の1~2ヶ月分ぐらいの額にしかならず、大人になったら生活費に紛れてなくなってしまうような額であり、お年玉をもらった当時に感じた嬉しさやワクワクといった特別な感情などあったものではない。

そのように他のお金と一緒にいつの間にかなくなってしまうぐらいであれば、大人になる前に自分の買いたいものや価値があると感じることに惜しまずお年玉を使うべきだと思う。例えそれが大人の目から見てどんなに無価値に見えても、子供の意志は尊重すべきだろう。価値があるかどうかを決めるのは子供自身である。

 

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スマホのモバイル通信を切る生活

モバイル通信を切った結果

毎月のスマホ代の支払いはバカにならない金額である。私の場合はせいぜい4,000円程度で同世代の他の人達と比較すると割と少ない方かもしれないが、月に4,000円も引かれてるというのはやはり多いと感じてしまう。

また、今使っているスマホは既に購入してから3年以上経過していることもあり、バッテリーの持ちがあまり良くない。購入直後は5~7日程度持っていたのだが、現在は3日程度でほぼなくなってしまう状態である。

どうにかして月額とバッテリーの両方を節約できないかと考え、そもそも家に居る時にはモバイル通信を切ってwi-fi接続にしてしまえば良いのではないかと考えた。それを実行したところ、通信費が節約されたおかげで月額が2,000円程度に下がり、バッテリーも一週間弱と長持ちするようになった。

インドア派にはオススメ

コロナ禍云々の前から私はどちらかというとインドア派であったし、同世代の人たちよりスマホを使ったり見ている時間は圧倒的に少ないと思っている。モバイル通信のメリットは、外出してどこにいてもすぐにインターネットにつなぐことができるということだと思う。だが、そもそも外出する機会が少なかったりずっと家に居る生活をしているのであれば、何も考えずにモバイル通信に繋げっぱなしにするのは勿体ないと考えるようになった。

確かに、インドア派でもスーパーやコンビニに買い物に行くことなどのちょっとした外出をすることはまあまああるだろう。その時にわざわざwi-fiを切ってモバイル通信をONにするという作業をするのはかなり面倒くさい。スマホを肌身離さず持ち歩いて生活しているようであればそのように思うだろうし、ずっとモバイル通信を使っていた方が何かと便利なのでその方が良いだろう。一方で、ちょっとした外出時ぐらいならスマホを持ち歩かない私のようなタイプであれば、そのようなことを考えずに基本的にはwi-fi通信をONにしてモバイル通信をOFFにしておくこともできる。

ささやかな節約の一手段として

アウトドア派の人たちにとっては無縁の話かもしれないし、このようなケチな考え方すら頭になかった人も多いとは思うが、意外と気楽にできる節約方法ではあると思うので、家に滞在する時間が長かったり、通信をこまめに変更する作業が苦でない場合は、ささやかな節約のためにあえてスマホを自宅のwi-fiに接続しながら生活してみてはいかがだろうか。

 

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ベッドと布団はどちらが良いのか

世の中ベッド派が多そう

皆さんはベッド派と布団派のどちらだろうか。

私の体感では、日本の世の中の7割ぐらいの人はベッド派なのではないだろうか。自分の周りの人や子供の頃の友達などの家に遊びに行くと、当然のように部屋の中にベッドを置いていた。私自身は生まれてこのかた布団で寝てきたので、ベッドがあるのは新鮮ではあったが、羨ましいと思ったことは一度もなかった。

睡眠に関する記事を読んだりしていても、「夜は早めにベッドに向かい、スマホは別室に...」などの記事を見ることも多く、寝室で寝る=ベッドが当然のような表現も見る。もちろん、「布団に入る」と表現していることもあるが、個人的には世の中では寝室=ベッドとイメージしている人が多いと感じる。

なぜベッド派が多いのか

どうして部屋の間取りを無理やり狭くしてまでこのベッドという家具を置きたがるのかが私には疑問であった。場所を取るだけでなく、敷布団を洗うのも結構大変そうだし、引越しする際にも余計な家具が一つ増えてしまうという点でデメリットがあると思う。

そんな中でもベッドで寝る人が多いのは、大きなベッドに憧れがあるということや、西洋文化が深く浸透したこと、小さい時からベッドだったからなんとなく今もベッドで寝ている、という理由が主ではないだろうか。大きなうちに住んでクイーンサイズやキングサイズのベッドで悠々と寝たい、という夢も分からないこともない。また、小さい頃からベッドで寝てきたのであれば、それに慣れてしまっているから新しい家に引っ越したらその度に新しいベッドを購入するのだろう。

確かに、ベッドがある寝室というのは寝るという気持ちに切り替えるには布団よりも都合が良さそうにも思える。寝るためだけに用意した部屋、そこでは本を読む以外のことは何もしない、など自分なりのルールを設けることもしやすいようにも思える。そのように考えてみると、わざわざ場所を取るベッドを敢えてチョイスする理由も納得がいく。

布団も悪くないよ

それでも私は、布団を推したい。それは自分が普段から布団で寝ているからというのも主な理由ではあるだが、場所を取らないというのがかなり大きなメリットだと思っているからである。

部屋選びの時にベッドを置く前提で考えると、よほど大きな部屋でない限りその部屋がほぼ寝室扱い確定となってしまい、他の用途のために部屋が余分に1つ必要になる。その結果、間取り的には贅沢なものを求めがちになり、家賃やローン額などの生活費が上がってしまう。

普段の生活でケチケチ節約をするぐらいなら、いっそのこと布団での生活に慣れて住居に対してかける課金を少しでも抑えて生活するのも悪くないと私は思っている。寝室=必ずベッドを配置しなければならない、という固定観念を捨て、どこでも敷ける布団で寝ることで課金せずに家をより広い空間にして充実した生活を送れると思うのだ。

 

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家を買うというリスク

住宅ローンは冷静に考えて損だと思う

一昔前よりは少なくなったと思うが、住宅ローンを組んで高価な家を購入し、老後まで月額で返済し続けながら人生を送る人々は多い。私の実家も両親が30年以上前から住宅ローンを組んでいて、未だに全額返済し終わっていない。

例えば、家の値段自体は土地代も含めて大体1,200万ぐらいだとしても、ローンを組むと当然銀行から利子が加算されるため、支払いの総額は2,000万円を超えるという。単純に払う額が2倍弱になるということを考えると、住宅ローンでの家の購入というのはかなりアホらしい買い物をしているように思える。

また、現代は終身雇用の時代でもないし、結婚しても数年後には離婚したりするし、その他の要素を見ても、人生において生活状況というのは常に変化し続けるものである。そんな中、継続的にローンを払い続けられる保証もないし、それに縛られて自由に買い物したり、時々贅沢したりすることを我慢しなければならないというのはなかなかしんどいモノがあると思うのである。

買うなら一括、一括が無理なら賃貸

私が自分の住む家についてどのようにすべきか考えているのは、「買うなら一括、無理なら賃貸」ということである。

まず自分自身の感覚として、所有することにそこまで価値を感じない。モノが増えればそれだけ執着も増えていくことになるし、心は結局貧乏なままな気がする。また、住宅ローンを支払うことが人生の最優先事項になってしまうと、自分や家族の自由を奪うことになって人生が破滅的になってしまうことも考えられる。一昔前のような終身雇用が当たり前の時代には、住宅ローンという考え方がハマっていたのかもしれないが、現代においてはそれが当てはまらなくなってきていると思う。

それではずっと賃貸が良いのかというと必ずしもそうではない、というのがなかなか難しいところである。賃貸もずっと月額支払わなければならない点では住宅ローンと相違はないし、お金の捻出にはやはり苦労する。住宅ローンは完済すれば所有物となり支払いもなくなるが、賃貸では住み続ける限り永遠に払い続けなければならない。ただ、契約の重さが段違いに住宅ローンの方が重く、簡単に抜けられないというのが大きな違いになるだろう。

賃貸は比較的簡単に契約締結や解除ができる点で、自由な人生を生きるというテーマを持っている人たちにとっては良い契約形態だと思う。安定して地盤を固めて生きていくことを大事にしている人や、自分なりの家へのこだわりが強く、リフォーム等を積極的に行いたい人はローンを組んででも購入する価値があるだろう。

 

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