rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

焦って短気になっても良いことがない件

焦って行動した結果、怪我をしてしまう

仕事が休みの日であっても私にはやりたいことがたくさんある。勉強、ブログ、読書、ジムという毎週毎日のルーティンに加え、月に一回散髪をしたり買い物をしたりすることがあれば、普段のルーティンにそれらの少しイレギュラーな用事が追加される。そうなると、限られた時間の中で色々なことを素早くこなさなければならないし、物事が思い通りに進まないと次第にイライラしてくることが多い。

先日、まさにこのような忙しい状態に陥り、なかなか思うように事が進まずにかなりイラついてしまった。具体的には駅前の踏切が急いでいる時に限ってなかなか開かなかったり、いつもは空いているレジ待ちが長蛇の列だったりという些細なことなのだが、自分の中でイライラがかなりたまってしまった。そして焦りに焦った結果、家の物置の引き出しに頭を思いっきりぶつけて出血する怪我をしてしまった。(怪我は幸い大事には至らず、少し深めではあるが医者の治療は不要な程度の切り傷であった。現在はほぼかさぶたになって治りかけている。)

結局何も出来ず終い

その日は後で消化したかった予定を全てキャンセルし、家で安静にして過ごすこととなった。そして、出血が止まるまで小一時間ほど、横になって安静にしている間に少し考えてしまった。買いたかったものも買いに行けなかったし、ジムにも行けず、勉強もやる気にならず、結局何もできないという結果だけが待っていた。急いで焦って色々なことを素早くやろうとしたのに、最終的には何もできない挙句、頭の切り傷という代償を得ることとなった。

脳裏に浮かぶのは「短気は損気」「二兎追うものは一兎も得ず」「自業自得」という言葉たち。遵守する意味もない自分が勝手に決めたスケジュールをこなすために、勝手に焦って勝手にイラついて、そして勝手に怪我をしているのは客観的にみると甚だ滑稽である。

そこでそれまでの自分をよく振り返ってみると、最近は本当にイライラすることが多かったように思う。仕事でも周りに人がいないことを良いことに、ずっと独り言で愚痴や文句をこぼしながらやっていたし、少しでもうまくいかないことや自分の中の予定が狂うとムカッとすることが多かったなぁとその時はじめて気が付いた。

自分は何にそこまで急かされたり追い詰められたりしているのか、と考えた時にその原因が全て自分自身であったということを認識した。自分で自分を追い込んで余裕をなくしてしまっていたのだ。どのぐらいの期間自分がこういう状況だったのかは分からないが、色々なことを消化しようとしすぎてキャパオーバーになってしまったのかもしれない。

もっとゆるくていいじゃない

今後はもう少しゆとりを持って日常生活を送っていきたいと強く思った。確かに、やりたいことはたくさんあるし、それらをできることなら多く消化していきたいという気持ちは今も変わらない。でもそれは本当に今しかできないことなのかをしっかり吟味する必要がある。意識を高く持つことは大事だが、もう少しゆとりを持って物事に接することが毎日の生活が心持ち楽になると思うし、ある程度ゆるく生きていった方がイライラすることも少なくなり結果的に幸福度も増すに違いないだろう。しっかり反省して今後に生かしていきたい。

 

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【お題】ブログ通算200記事目記念と読者の方々への御礼

今週のお題「感謝したいこと」

ブログを読んで頂ける方へ感謝を込めて

このブログを書き始めて2年と3ヶ月ほど経過し、今年は夏頃に毎日連投し始めた時から密かに目標としていた、今年中のブログ通算200記事到達を目標より1カ月程度早く達成することができた。

投稿のモチベーション低下、日常生活での疲れ、またネタ切れなどの障壁に苦しみ、これまでに何度もブログの更新頻度が落ちてしまうことがあったが、少しでも書こうと思えたのは反応してくださる読者の皆様や、通りすがりにサラッと読んでくれる方たちがいるということが実感できてこそのものであった。このブログを少しでも読んでくれたり反応いただけた方々には本当に感謝している。本当にありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。

記事をストックすることの大変さ

それなりの分量である程度内容のある記事を定期的に書いていくことは、やはり簡単ではないことだと感じる。ブログ開設当初から毎日一記事書いていれば、今頃は800近く記事のストックが溜まっているはずであったが、実際は2年ちょっとでようやく200記事に到達ということでコンテンツのストックをコツコツと積み上げていく難しさを感じている。最近は大体一記事1,000~1,200文字程度を目安に書くことが多いが、総文字数で言うと大体200記事×1,000文字としても20万文字程度しか書いていないことになる。ようやく短めの文庫本一冊程度の文字数というところだろうか。

読者や「いいね」の数を増やすことは投稿者自身の意志ではどうにもできないことなのであまり考えても仕方がないと思っているが、記事数は投稿者が頑張れば増やすことができる。その意味では行動したことが着実に成果として積みあがっていくのが記事数であり、中身が良質でより多くの人の心を打つ内容のものが多ければ多いほど、「いいね」の数などは自然に上がっていくものだろう。記事数というのは数を打つという観点からも大切な要素だと思うのだ。

今期のブログ活動の反省と来年に向けて

さて、今期のブログ活動の反省として上半期の空白の数カ月が挙げられるだろう。日常生活や仕事が若干忙しかったことが理由にあるのだが、4カ月程度も全くブログを更新しなかったことはブロガーとしては失格である。毎日投稿するのは難しいとしても、せめて週1本ぐらいは何かしら記事を上げていくことは目標にしたいと思っている。

定期的にブログ投稿をしていれば必ず直面してしまうのがネタ切れという問題であり、私だけではなくきっと多くのブロガーが少なからずネタ切れとなるリスクを危惧していることと思う。私自身のことだと、3月からほぼずっと在宅勤務でブログを書く時間は以前よりかなり増えたのだが、外に出て刺激を得る機会がめっきりなくなったことで、ブログに書くネタを探すことが以前より難しくなってしまった。こういうところでもトレードオフが発生してしまうのはやはり世の常なのかもしれない。

さていよいよ11月も終盤となり早くも12月が迫っている。ブログについては年内の目標を達成したので年末にかけて少し更新頻度を落とすと思うが、所詮冬休みは暇だと思うのでそれまでにネタ切れを解消してまた冬休み頃から連投して来年のスタートをリズムよく刻んでいきたいと思っている。

 

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マスクはどんな種類が良いのか

私は毎年冬の時期に外出する際、大体マスクをして過ごすのだが、今年は新型コロ助という状況もあってほとんどの人が外出時にマスクを着用する世の中になっている。今の時期であればマスクをつけることににあまり違和感はないが、夏の時期などは例年マスクをしないため、今夏の外出はマスクで暑くて非常にストレスが多いものであった。

これまではマスクについてあまり深く考えたことはなく、なんとなく市販で売っている使い捨ての不織布マスクを利用していた。しかし、世の中がこれだけマスクありきの情勢になってきている中、その機能性や見た目を嫌でも気にするようになった。結局どのようなマスクをするのが一番良いのかを少し考えてみた。

機能重視なら不織布

マスクを着用する一番の目的は、自分の飛沫を飛ばさないことと周りの飛沫を吸い込みづらくして感染予防をするという2点があると考えている。この両方の機能を高い水準で満たしてくれるのが使い捨ての不織布マスクらしい。繰り返し使用できる布マスクよりも自分の飛沫を少なく抑えたり、吸い込む飛沫量を多少ではあるが少なくできるということである。

マスク本来の目的を考えた時、「うつさない、うつされない」というのがやはり一番大きな目的であると思うので、この点を重視するのであればやはり使い捨ての不織布マスクを使用するのが最も良いということになるだろう。

布マスクは体に優しくファッショナブル

だが、世の中では不織布マスクよりも機能的に効果が劣るとされる布マスクなども販売されており、実際に着用している人も多くいる。代表的なのは何度も洗って使用できる布マスクであり、不織布マスクと違って色や柄や形も様々であり、服装などとコーディネートしやすいのが特徴である。マスク本来の機能としては不織布マスクに劣るものの、好みのデザインであれば着用するモチベーションも高くなるし、洗って繰り返し使えるので使い捨ての不織布マスクよりも経済的という側面もあるだろう。また、不織布マスクは耳のひも部分が痛くなることが多いが、布マスクは耳も痛くなりにくく、装着時のストレスがかなり少ないと感じる。

最近はジムでもマスク着用が義務化されているが、やはり不織布マスクよりも布マスクの方が呼吸が苦しくなりにくい。また、飲み物を飲むためにマスクをずらす際にひもが耳に擦れて痛くなりづらいという理由から、私も布マスクを着用することが多い。

アベノマスクはイマイチ

5月か6月ぐらいにアベノマスクが配布された。実際に使用している人は多分ほとんどいなかったと思うが、私はアベノマスクも使っていた。しかし、サイズ的に鼻と口を十分にカバーできる大きさがないため非常に使い辛く、鼻の部分にも呼吸スペースがないためかなり苦しく感じたし、耳のひもも硬くて痛かった。機能的にどうなのかはさておき、このマスクはやはりイマイチと言わざるを得ない。

鼻と口を十分にカバーできることが大前提であり、その上で細かい機能や見た目を自分好みのものにするという基準でマスクを選ぶべきだと思っている。

 

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学生時代の勉強は何の役に立つのか

学生時代の勉強は無駄だと思っていた

人はなぜ10代や20代の前半に学校に通って勉強をするのだろうか。私は高校生の頃まではあまりこのようなことを考えもしなかったのだが、大学に入ってちょっと広い側面から勉強に対して俯瞰するようになって何度かふと疑問に思ったことがある。

物理や数学のやたら複雑な公式、世界史に出てくる意味なく長い大量の横文字、化学の原子記号、など一見意味のなさそうな知識が無数に存在するのが学生時代の勉強だと思う。そして、実際にこれらの知識は社会に出てから9割以上は役に立たない。せいぜい算数の足引算や、小学校で習う漢字が読めれば世の中に出て生きていくためにはほぼ不足ないはずである。それでも学校教育はなくなる気配はないし、子供を持つ親は特に何も考えずに小学校→中学→高校と子供を学校に通わせようとする。生きていくのに不都合のない最低限の知識やスキルが身についたなら、すぐに働き始めれば良いと思ってしまうこともあるが、それでも一見不要に思える学校での勉強を行う意義とは何なのか。ずっと疑問に思っていたことが最近少しずつ分かってきたような気がしている。

勉強は人生の選択肢を増やすための訓練

基本的に人間は組織の中で生きているが、最終的に自分の身を守るのは個々人の判断に委ねられる。そんな時、何かについて真剣に考えたり深く掘り下げた経験のない人は自分で決断して行動するということができずに周りに合わせたり、誰かからの指示を待つしか選択肢が無くなってしまう。しかし、様々なことを考える訓練を積んできた人間はそれプラス自分なりに考えることができ、より多くの選択肢の中から最善の結論を自力で導き出すことができる。

つまり、勉強というのは考える訓練を行うための効率的な手段であり、内容そのものは大して重要ではないのかもしれないと思うのである。ある分野についてそれなりに深く理解するためにはその分野について色々なことを調べたり、自分なりに仮説を構築して問題を掘り下げていくことが必要になる。先生から内容を教えてもらうこともできるが、教えられた内容をどのように解釈するのかは自分しか決めることができない。

何事も探求していくと面白いもの

大学時代の終盤、卒業論文を書くにあたってなぜ自分はこんなつまらない分野を探求しているのだろう、今調べている知識が何の役に立つのかということばかり考えていた。だが、学んでいる内容そのものは極論を言えばどうでもよくて、学ぶ過程で興味を持って色々なことを自発的に調査・検証したりするということが勉強の本質なのだ。現役時代、残念ながら私はこのことに気付くことができなかったが、今自分の仕事に対して真摯に取り組む中でその感覚が少し分かったような気がするのである。

どうでも良いことに思えるような事象でも、深く探求していくとどんな分野にも面白いと思える側面が何かしらあるものだ。今やっていることやこれからやろうとしていることに対してあまり興味ややる気が湧かないのは仕方ない側面もあるが、何事も探求心を持って自分なりに考えを掘り下げてみると案外楽しくなってくるかもしれないので、この考え方をおすすめしたい。

 

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田舎への移住に潜むリスクを考える

田舎へのあこがれ

社会人になって1,2年目ぐらいのとき、私は上司のパワハラや仕事のノルマや期限の厳しさに打ちのめされていた。日々を生きている意味がだんだん分からなくなり、お昼ご飯もまるで砂を食べているように味がせず人生に絶望しかけていた頃、切実に都会の喧騒から逃れて田舎へ移住したいと考えていた。旅行に行って田舎の民宿などを訪問すれば暖かく迎え入れてくれるし、無愛想な私を受け入れてくれる魅力的な場所こそが田舎なのだと思っていた。その思いは転職した後も変わらず、旅行に行くたびに田舎の良いところにばかり目が行き、完全にリモートワークが定着したら田舎暮らしをしてみようとさえ真剣に考えていたほどである。

田舎暮らしのリスク

だが、本を読んだりコロナ禍というご時世にまつわるネット記事などを見ていると、田舎暮らしをする上では特に注意しなければいけないデメリットがあるということが分かってきた。簡潔に言うと、それは同調圧力に関連する生きづらさである。

全員とは限らないだろうが、田舎であればあるほど古くて保守的な価値観を持つ人が多い傾向があると思われる。私が読んだとある記事によると、田舎の地元を出て東京で5年程度働き、その後実家の家業を継ぐ決意をして故郷に戻ったある男性は、新しいものを避けて現状からの変化を嫌う地元民に辟易したという。仕事を効率的に行うために様々な提案をしても全てイチャモンを付けられて却下されるばかりではなく、その後会議に招待されなくなったり家にいたずらをされるなどの過度な嫌がらせを受けたという。いわゆる村八分というやつだ。

私はもともと都会の人々との変にネチネチとした関わりに疲れてしまい、田舎でストレスなく自由に暮らしたいと考えていたのだが、その考えは非常に安易で危険だったと今反省している。田舎のネチネチ具合は場合によって都会のそれよりも遥かに質が悪いことがあるからだ。変に距離感が近い人間関係から解放されたくて田舎に移住したら、よりドロドロした人間関係に悩まされる羽目になるというのは本末転倒である。

移住には覚悟が必要

田舎にも良い部分はたくさんある。綺麗な自然や美味しい空気、都会の喧騒から逃れ、ゆったりのんびりと流れる時間。これらを単体で想像すると素晴らしいし、実際に旅行で2,3日このような環境に身を置くのは本当に素晴らしい体験だ。しかし、その地へ移住するとなると全く話は異なってくる。住人が少ないということはそれだけ住人同士で結束しないと生活が成り立たないことも意味しており、必然的に密な人間関係にならざるを得ない。人との距離感は一定に保たなければ、変なところで人間関係がこじれたり面倒くさい事象に巻き込まれるリスクが高くなる。このような点を十分考慮した上で移住について考えなければならないと思っている。

 

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好きな鍋料理

今週のお題「鍋」

11月も半ばとなり段々と寒い日が増えている。寒い日には鍋料理が最適であるが、塩ちゃんこや普通の寄せ鍋などありきたりなものばかり食べていても次第に飽きてくる。鍋の種類や味付けというのはとても重要な要素だと思うので、これまで私が食べた鍋で美味しかったものや特に寒い時期にオススメする鍋料理をいくつか紹介したい。

キムチ鍋

個人的には、寒い冬の鍋と言ったらキムチ鍋が一番オススメである。具材は基本的になんでも良いと思っているが、王道は豚バラ肉だと思っている。その他鶏むね肉などもあり、野菜ではニラやニンニクなどを入れると香り的にも引き立つと感じる。

キムチは辛いイメージがあるが、キムチ鍋の素を使うとそこまで辛さを感じない鍋になることが多く、程よく辛くなり寒い日にはうってつけの食事となるだろう。締めにはご飯よりも麺が合うと思う。

もやし坦々鍋

キムチ鍋と似ている点としては、そこそこ辛い鍋ということ。こちらはメインの食材がひき肉ともやしとなるため、キムチ鍋とは異なる食感で楽しむことができる。また、もやし坦々というぐらいなので最後の締めにはラーメンを投入して坦々麺とすることもでき、締めまで残さず楽しめる鍋という点で魅力度は高いと思う。

ミルク鍋

前述の2種類の鍋と比べると知名度が低いかもしれないが、最近食べた中ではおすすめの鍋であると感じる。辛さこそないのだが、この鍋にはジャガイモがとても合う。ジャガイモが炭水化物の栄養補給を果たしてくれるので、締めにご飯や麺を食べる必要性が低いのがこの鍋の最大の特長なのかもしれない。もちろん、どのような具材を入れるかで味は多少変わってくるのだが、ミルク鍋にはジャガイモが本当に合うと個人的には思っている。最近ではジャガイモ以外にも、里芋を入れてもそこそこ美味しいと感じた。

番外編:おでん

鍋料理と言っていいのか少し微妙なところではあるが、冬といえば私の中ではやはりおでんなのである。おでんのいいところを一言でいうと、ずばり茹で卵と大根が美味しいということに尽きる。

他の鍋料理でも茹で卵や大根が具材となるものはいくつかあるのだが、素材本来の味を最大限引き出すという観点からすると、おでんの味に勝るものはないと個人的には思っている。おでんはベースの味に加えて辛子で味を付け足して辛さをカスタマイズすることもできるし、辛子の種類に拘るとより一層素材の味を引き立てることができる。

また、コンビニのおでんはとても美味しく、そこまで高価でなく手軽に味わうことができるので、自分で準備や料理をするのが面倒な時はコンビニおでんを楽しんでみるのも良いだろう。

 

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ブログのテーマは一定にするべきなのか

私はブログを書き始める前、ブログのテーマを一定にするべきなのかどうか迷ったことがあった。ブログを書いている人であれば、ブログのテーマ選びやそのブログのカラーをどのようにするべきか考えたことがある人は多いと思う。ある程度何らかのテーマに絞っている人もいれば、私のようにあまりテーマを絞り込まずに毎回バラバラのテーマにするタイプもいる。

テーマを絞るメリット

ブログのカラーが出る

テーマを特定ものにすることで、そのブログの特長をどんどん伸ばしていくことができる。一つのテーマについて書き続けるためには様々なネタを用意する必要があり、そのネタを探したり考えたりする過程でその分野に対する知識もより深まっていく。うまくいけばこのようにプラスの循環を回していくことができるのがテーマを絞る大きなメリットでもあるだろう。

特定の分野に特化したスキルや知識を持つ方や興味を持つ方は、テーマをある程度限定した内容でブログを書いていくと自分らしいカラーを持ったブログになるだろう。

マニアックな読者層の獲得

一般的にはあまり受けないことでも、特定の分野になると大きく反応してくれる人々はどんな分野にも存在する。いわゆるオタクやマニアと呼ばれるような人たちもこの層に含まれており、特定分野のブログを書くことで一部の熱狂的なファンを獲得できる可能性が高まる。

テーマを絞らないメリット

ネタ切れが少ない

テーマを絞るとよほど知識がない限り、早い段階でネタ切れとなってしまう可能性が高いが、テーマを絞らなければ多くのことについて書くことができるため、ネタ切れになる心配は多少少なくなるように思われる。

自分の思いついたことやちょっと考えたことなど、日常生活で起きた何気ない出来事について軽く書くことができるため、人に見てもらう日記のような感覚で書くのであればテーマを絞らない方がある意味気楽ではあるだろう。

幅広い読者層の獲得

テーマを限定しなければ広く浅く読者に訴えることができる。マニアックなテーマだとそのことに詳しい特定の人にはかなり受けるかもしれないが、その他多くの一般人からするとあまり興味が湧かないことが多い。

より多くの人に読んでもらうことを目的とするならば、雑多なテーマで自分のブログを作り上げていくのも良いと思うし、私も基本的にはこのスタイルでブログ作成を行っている。

まとめ

色々な人のブログを見ると、どちらかというとテーマを絞って書いている人の方が多いような印象を私は持っているが、ブログのテーマを絞り込むべきかどうかはあくまでブロガーの目的によって異なるため、どちらが良いという一般論的な正解はないと思っている。途中までテーマを絞っていたがネタが切れたら全く異なる内容を書いても良いと思うし、それはそれでそのブログのカラーとなり得るだろう。

 

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年収に拘っても拘り過ぎることはない

なぜ高年収に拘るのか

多くの人が転職する理由として大体一番多いのが、年収アップしたいからというものである。お金がないよりもあった方が生活する上においてやれることの選択肢も増えるし、精神的にも余裕を持って生きていくことができるのは確かであろう。また、婚活市場などでは特に男性であれば、その男性の価値=年収といっても過言ではないぐらい年収というのは重要視されるし、多くのことと切っても切り離せない関係にある要素だ。

私自身や前の会社の同僚を含め、私の周りでも多くの知り合いたちが転職して新しいキャリアを歩み始めていったが、多くの人はより高い給料を求めて自分のスキルを最大限に生かせる環境への転職を望んでいた。私は正直そこまで年収に対して拘りがなく、生活に困らず細々と趣味を楽しめるぐらいの給料があれば満足だったので、キャリアップとか年収にそこまでこだわる周りの人間の気持ちがあまり良く分からなかった。その思いは今も大して変わっていない。

高年収は例外なく激務である

高年収というのは社会的なステータスも高くて幸福度も高いかもしれないが、仕事内容はほぼ例外なく激務である。20代にして年収800万ぐらいを稼ぐ大学時代の同期がいるが、彼の仕事はなかなか過酷である。外資系企業で多くの国に拠点をおき、時差が大きい他国の社員と真夜中や明け方にウェブ会議をしたり、当然のように毎日日付が変わるまで残業をすることもよくあるという。もちろん忙しくない期間はたっぷり休みをとれたりしてメリハリはあるのだが、このような働き方を自分ができるかというと多分できず、年収が高いというご褒美しかないのであれば心が折れてしまうと思った。逆にこういう働き方に何も違和感を感じない人もまたいる。

メリハリがあるのは良いことだと思われがちだが、それも適度であればの話だ。高年収の仕事は総じてメリハリが極端である。分かりやすい例でいうと医者などが典型的であり、仕事内容が難しいのは当然として人の命がかかっている仕事なので自分の生活や衣食住などは二の次になる。どこにいようが何時であろうが緊急手術などが入れば病院に飛んでいかなければならない。ちょっと休みたいから有休を取るというようなことが難しく、自分自身の自由は少ないのではないだろうか。

高年収に拘る理由を考えてみる

それでも高年収を獲得して自分の価値をどんどん高めていきたいという人はそれでいい。でも私みたいに年収に拘らずそこそこまったり仕事をこなしていきたいという人種も一定数存在するはずだ。だが、今まで自分が関わってきた人の中に自分と似たようなタイプは少なく、多くはバリバリ働いて年収を上げたいというタイプの人であった。このような人の中にも、本心ではそんなに働きたくないという人もいるはずだと私は思っている。

収入ばかりに目が行ってしまう人は、自分がなぜそこまで収入にそこまで拘っているのかを一度考えてみるのも一興だろう。そこで見えてくることもあるかもしれない。

 

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苦手な仕事は他人に任せれば良いのか

日本社会においてゼネラリストは好まれる

一つのスキルを特化させるべきという意見と矛盾してしまうかもしれないが、今の日本において果たしてある特定のスキルだけを特化して生き残っていくことができるのかどうか、しばしば考えることがある。

人はそれぞれ向き不向きというものがあり、家事の中でも料理は得意だけど掃除や片づけは苦手な人など、得意不得意は個人によって全く異なる。家事などの日常生活であれば自分を含めた周りの人間がある程度気分を害さない程度に適当にこなしていれば大きな問題にはならないが、仕事でこのように適当な姿勢で臨むのはかなり危険である。サラリーマンであれば苦手なこともある程度は引き受けなければいけない場面もあるだろう。システム屋がずっとPCと睨めっこするわけにもいかず、時には顧客と対面で会話したり資料を作ったりプレゼンをしたりと、あまり引き受けたくないこともある程度はやらなければならないことが多い。

スペシャリストは半端ではない

そんな中でもやはり特定の分野においてずば抜けてスキルを持っている人はやはり重宝されるし、そのスキルを活かした仕事が舞い込んで来やすいのも事実である。Excelでマクロを組んで社内のシステムを驚くほど効率化できる人はずっと開発ポジションにいることができるし、人当たりよく会話できたり相手を説得したりする会話術に長けている人は管理職に抜擢されやすくなるだろう。ただ、このような重宝されるレベルになるためには、ちょっと知識があってできる、という中途半端なレベルではダメで、周りよりも「ずば抜けて」できる必要があるという点がポイントになる。

こう考えると私は8:2の法則を思い出す。80%の完成度にするためには20%の時間を費やせば達成できるが、100%の完成度にするためには残り80%の時間を注ぐ必要がある、というような理論である。ずば抜けてできる人というのはもちろんあるスキルに関して100%の完成度を持つ人なので、そこに至るまでに注いできた時間や資源は半端ではないはずである。80%完成度でも知識的には不足はないのかもしれないが、残りの20%があるかないかで天と地ほどの差があるという厳しい現実がある。

どちらを目指すべきか

仕事に限らず、複数のものから何らかのチームやグループを編成するときに悩みがちなのは、それぞれが別々の特定スキルに特化していて他のスキルはほぼ持たないグループと、それぞれが色々なスキルをそこそこ備えているグループのどちらがより良いのかどいうことである。意見は少し割れるかもしれないが、後者の方を好む人が多いのではないかと思う。リスクが少ないという点で無難なのも後者だろう。しかし、自分がグループメンバーだったとき、どちらの方がより自分が必要とされ、自分の能力を十分に発揮して楽しく活動できるかを考えると、前者の魅力の方が大きいと思う。

あるスキルにだけはもの凄い専門性を持つ良い意味での変人を目指すのか、なんでもそこそこできる常識人を目指すか。難易度は前者の方が高いのだが、それができれば仕事もかなり楽しくなりそうだと思う。

 

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映画の鑑賞方法について思うこと

今週のお題「最近見た映画」

4DXはオススメしない

つい先日の連休で現在少しだけ話題になっている「テネット」を見てきた。たまたま職場の先輩から話を聞き、暇があったら映画館で見てみようと思っていた。通常の字幕上映だと遅い時間のナイトショーしかなく都合が合わなかったので、夕方の時間がある4DXのバージョンで鑑賞することにした。4DXでの鑑賞自体が初めてだったので、どんなものなのかを体験しておくのも悪くないと思った。

4DXの座席は揺れたり水しぶきが飛んできたりするということはなんとなく知っており、どんな座席かと思っていたが、座席自体は普通の映画館と大して変わらないものだった。映画のシーンに合わせて水しぶきが顔にめがけて飛んできたり、耳元から風が出てきたりというギミックが仕込まれており、映画の内容によっては少々心臓に悪いかもしれないと感じた。

「テネット」の内容自体は難解でしっかり主旨を理解することはできなかったが、アクションシーンも多くて4DXならではの楽しみ方ができたという点においては良かったと思っている。だが、個人的には+1,000円を払ってまで必ず4DXで鑑賞したいとまでは思わなかったし、3D眼鏡をかけた方が4DXよりもより臨場感が出るのではないかと思う。4DXは一度体験してみるのも良いかもしれないが、すごくオススメできるかというとそうでもないというのが私の正直な感想となる。

映画館で見る意義

数年前の一時期、週一回以上映画館に通っていた時期があったが、最近はめっきり映画館に行く機会も減ってしまった。のちにDVDやテレビ放送を待てば見られるものを、わざわざ映画館に見に行くのが少し面倒になってしまった点は否めない。また、2時間近い間じっとしているのが苦しいということもある。呼吸も忘れるぐらい内容が面白い映画なら良いが、ちょっと退屈だったり眠くなってくる映画もあるので、その場合はじっとしているのがしんどくなってくる。家のテレビやPCで鑑賞していれば好きなタイミングで再生を止めて休憩したり、気兼ねなく飲み食いしながら鑑賞することができる。また、プロジェクターで壁に映像を映して見る方法もあるので、テレビがなくても大画面で楽しむことも比較的容易になってきていると思う。

それでも、たまに足を運ぶと映画館での鑑賞も悪くはないと今回思った。映画館で見る方が画面も音も大きく臨場感があるし、雑音も少ないため音声が聞き取りやすく集中して鑑賞することができる。だから、1,000円以上支払ってでも映画館に見に行く価値は十分にあると思うし、煩わしい日常生活から少しでも解放してくれるのが映画館という存在だと思う。

 

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