rk-baryoのゆるっと日記

元ニート、現アラサーサラリーマンが日常生活、ビジネス、会社、旅などについて語るブログ

在宅勤務時こそ有給休暇が大切である理由

在宅勤務で気を付けたいこと

相変わらず在宅勤務の日々が続いている。私が所属する会社でもいよいよ定期代の支給を停止するのかどうかが選択肢として労働者に与えられ、ほぼ8割以上が定期代支給を停止して在宅勤務にシフトするという事態になっている。

在宅勤務を続ける中で気を付けなければいけないこと、それは働き過ぎである。一見在宅勤務であれば働きすぎという概念からは無縁に思えるかもしれないが、集中して没頭できる自宅という環境は無意識に長時間労働につながりやすいこともあるようである。集中できるから仕事をやりすぎてしまう、家に居ていつでも仕事用のPCを触れるから、つい気になる仕事を片付けるために深夜にPCを開いてしまうという人もいるらしい。私もつい、自宅だからまあいいかと思って妥協して少し残業してしまったり、定時内に片を付けなければならないという意識がどうしても薄れてしまうことはある。

没頭できることや仕事熱心なことは決して悪いことではないが、日常的にそのようなことが続いていくと、自分では認識できない疲労やストレスが知らず知らずのうちに溜まっていき、ある日突然崩壊してしまうということもあるかもしれない。最近は芸能人の自殺が相次いでいるが、コロナ前の世界からの変化があまりにも急激でその変化に心と体が追い付いていかないことは一つの原因だと思う。

こんな時だからこそ生産性をより意識すべし

私が在宅勤務でも特に意識していることは、仕事はなるべく定時で切り上げ、有給休暇もできるだけ定期的に消化することである。それは在宅勤務が主流になる前から自分自身に課してきた課題であり、在宅勤務になったからといって簡単に変えてはいけないとも思っている。

私の周囲の同僚を見ると、積極的に有給休暇を消化している人はあまり多いようには感じない。それだけ私が暇で他の人が業務を多く抱えていて忙しいというのも理由の一つではあるかもしれない。が、有休をとるために仕事を手早く終わらせるという選択肢を高く意識している人はそこまで多くないと見受ける。以前に自己啓発本で読んだが、「生産性=アウトプット÷インプット」であり、アウトプット(成果物の質と量)を増やせば増やすほど生産性は上がるが、同比率でインプット(労働時間)も増えてしまえば生産性としては変わらないということになる。生産性を上げたいのであれば、成果はもちろんその成果を生み出すのに捧げる労力を下げなければならない。

インプットを下げるには休暇を取得して労働時間を減らすのが最も手っ取り早く、労働者は生産性を落とすことなく休めるメリットがある。そして休むことは、実は自分が思っている以上に今自分自身の内面が求めていることかもしれないのだ。

こんなことを考えながら、少し暗くどんよりとしていてちょっと味気ないけれどささやかに幸せな日々を最近は過ごしている。

 

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私が良く食べるおやつを紹介する

今週のお題「好きなおやつ」

特に仕事中によく食べるもの

将棋の棋士が対局中に甘いものを食べてエネルギーを補給する必要があるように、我々サラリーマンも仕事中にエネルギーが枯渇するのを防ぐために間食(おやつ)をとる必要があると私は考えている。その中でも私がずっとよく食べているもの、または最近お気に入りのものを紹介してみたい。

ようかん

私は昔から和菓子が大好きである。祖母が良くすあま(寿甘)というお菓子を好んで食べていたのだが、私もこれが大好きであった。しかし、すあまはかなり甘く感じるので、もう少し甘さ控えめのものを食べたいと思い、たどり着いたのがようかんという選択肢だった。特に最近はファミマで小さめのようかんが70円ちょっとで販売されているのでそれを買って食べることが多い。程よくエネルギー補給ができて甘すぎず、そしてこれは和菓子全般に言えることだが脂質が少ないというのが最も良い点だと思っている。

グミ、ハイチュウ、ぷっちょなど

グミも私の中では昔から定番のおやつである。歯ごたえがあり、食べた後に満足感を十分に得られるのがグミ類のお菓子の良いところだと思う。

グミは色々な種類があり、これまでに多くのものを試してきたのだが、その中でも私が最も美味しいと感じたのはタフグミである。

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このグミを知ったきっかけは、前職で先輩が良く食べていてたまに分けてもらったことである。以来、自分自身でも頻繁に購入しており、和菓子と並んで私の中でも主力のおやつとなっている。好みは分かれるかもしれないがクセになる美味しさがあると思うので、是非とも食べてみてほしい。コンビニで普通に販売されている。

スルメイカ

間食としては最近食べる機会が減ってしまったのだが、それは嫌いになってしまったのではなく別の理由による。

社会人になりたての頃とかはおやつによくスルメイカを食べていた。だが自分では気づかなかったのだが、ある日当時の上司に「イカ臭い」とか「業務中にイカ食う奴はお前以外見たことない、変わった奴だな」ということを言われた。食べることをやめろと直接言われたわけではないが、確かにスルメイカはそこそこ臭うなということについては同感だったので、それ以来なんとなく職場でスルメイカを食べる気にならず現在に至る。といわけで、今はおやつではなく酒のつまみとしてよく家でスルメイカを食べている。

TPOをわきまえたおやつの楽しみ方

私も例外ではなくポテトチップスやクッキーやビスケットやチョコレートとかは好きなのだが、それらは食べられる状況がある程度限定される。職場で隣の同僚がいきなりポテチの袋を開けてバリバリ食べ始めたら音も臭いも相当気になるだろう。しかし、グミとか和菓子であれば音も臭いもポテチほどの影響は及ぼさない。駅のホームや電車の中で板チョコをバリバリ割って食べ始めるのもいかがなものかと思うし、それよりはグミを2,3個口に放り込んでおいた方がまだ周囲への配慮という点では良いと思う。

家で自分の好きなおやつを何も気にせず食べるというのはとても幸せなことだと思うが、外出中など一定の制約がある状況においても自分なりに美味しく楽しめるおやつを知っておき、常に保持しておくことも大切なことなのかもしれない。

 

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残業に対する最近の考え方について

学生から社会人になった時に感じたギャップ

社会人になる前、私は仕事で残業をするのは当然のことだと思っていた。私が大学生の頃既に社会人になっていた先輩に色々話を聞く中、先輩たちはそれなりに残業をしているようだった。または、実際は残業したくないけれどある程度はしょうがないよね、という多少の諦めと、プライベートをある程度捨てて会社のために働く自分カッコいい!というような多少の自慢の雰囲気を感じることもあった。その話を聞き、残業って案外楽しいものなのかもしれない、と何も知らない私はひそかに期待していた。

しかし、実際に自分が社会人になると、残業がどれだけ自分に合わず辛いものかということを思い知らされることになる。私にとっての残業というのは自ら主体的にやるものではなく、強制的に誰かからやらされるものだった。残業代すら支給されないその時間に自分の意志は一ミリも反映されず、ひたすら受動的な作業と上司からの叱責が続いた。

今でこそ稀に自分から能動的に動いて残業をすることもあるのだが、新人~社会人2,3年目ぐらいの時代に残業とパワハラで心も体もボロボロになった時を思い出すと、やはりあまり乗り気はしない。私にとって残業というのは幼少期に植え付けられたトラウマのようなものである。

仕事の振り方について最近思うこと

残業をさせるぐらいの仕事量を振る上司や先輩が悪い!

私はずっとこう思ってきたし、今でもこの考え方の根本は変わらない。しかし、最近後輩に少し仕事を振ったりする機会がある中、定時までに丁度良く終わる量の仕事を振るのは相当難しいと感じている。

まずはその仕事の全体量と進め方の流れや手順を自分で考える必要がある。次にそれを自分で遂行したらどの程度時間がかかるのかを大まかに見積もり、後輩が遂行したら自分とどの程度差が出るのかも予想する。最後に予想した時間が所定内程度に収まる分の仕事を後輩に依頼する。ある程度正確な作業を振ろうと思えば最低でもこのぐらいは考える必要がある。

面倒を見る後輩が1人や2人程度なら問題ないが、10人分の業務を配分するとなるとこんな面倒なことはやっていられない。よって仕事の振り方もかなり大雑把になるだろう。仕事を受ける側のスキルにもよるが、やはり配分ミスはどうしても起こってしまうだろうし、多すぎれば残業や休日出勤が避けられなくなる。仕事を振る側の人間が相当優秀でなければ、適切な配分で仕事を割り振ることなど不可能だと思う。

だから、丁度良い量の仕事を振るのは難しく、どうしても多めに振ってしまうからやはり残業はなかなか無くならない。

残業を受け入れるならば

であるならば、日本で働く限りある程度の残業というのは今後覚悟していかなければならないのかもしれない。その時、できるだけ過去の嫌な思い出が蘇らないようにするには、意識して能動的に動くしかない。

時間外の勤務時間に人から指示されたことをやるだけではただの奴隷とほとんど変わらない。”やらされている”から”やっている”という意識を持たなければやっていられないものだろう。その意味では、冒頭に述べた社会人の先輩のように「残業する自分ってカッコいい!」と思うのも一つの正解なのかもしれない。この考え方は手放しに褒められたことではないと思うが、嫌なことをポジティブに捉えて能動的に行動していくという意味ではとても良いマインドだとも思う。

 

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友達の数は多い方が良いのか

友達100人という幻想を抱いた幼少期

私はまだ幼稚園通いだった頃、「1年生になったらー友達100人できるかな」という歌を聴き、小学生になったら100人以上友達を作ろうと意気込んでいた時期があった。一日に一人ずつ声をかけて友達になっていけば、一年もすれば達成できる目標だと思っていた。そして私は入学式当日から色々な人に声をかけて仲良くなっていった。当時は学校で会って上辺でそれなりに仲良くしていればずっと友達でいられると思っていた。

しかし、高学年になるにつれてそれまで仲良くしていた人でも急に話しづらくなってくる人が一定数いることに気が付いた。私はこの頃から、この人とはなんとなく合わないな、とか一緒にいて落ち着く人とそうでない人が少しずつ明確になっていったような気がする。そして友達100人を作ってもその関係を継続していくのは容易でないことにも気付きつつあった。徐々に疎遠になる人が多くなり、私も関係を維持するのが面倒になって自分の世界に没頭するようになった。そして、その方が落ち着くし自分に合っていると感じた。

個人的には友達は量より質を重視したい

時は流れ私も社会人となり、現在友達といえる存在は2,3人ぐらいしかいないのが現状である。一人は小学校からの幼馴染で二人は大学時代に知り合った友人である。彼らと頻繁にやり取りもしないし、月に一回食事に行くなどということも今となってはなくなった。それでもたまに会って話をすれば、いつもと同じように心地良く会話することができるし、一緒にいて無駄に気を遣うこともなく疲れることもない。少なくとも私はそう感じている。

個人差はもちろんあると思うが、私みたいにあまり群れることを好まない人間は何十人も友達を作る必要はないと感じている。もちろん「友達100人」を達成して今もそれを維持し続けているという人もいるだろうが、100人全員と気が合うというのはなかなか難しいと思うし、中には一緒にいてあまり心地良くないと感じる人もいるのではないだろうか。その関係を果たして友達といえるのか。また、常に関係を維持するための「メンテナンスコスト」も尋常ではない。友達のために自分を捧げるのが楽しいという方は良いかもしれないが、少なくとも私にはその考え方は合っていない。だから私にとって大事なのは友達の量より質であり、気の合う仲間が1,2人いればそれで十分だ。

昔思っていたのは友達ではなく知り合いだった

今になって改めて友達について考えてみると、幼少期に考えていた友達というのは全て「知り合い」を想像していたのだと思う。当時は顔見知りでたまに表面的な話をする仲でも友達になれると思っていたが、今ではそのような関係はただの知り合いとしてしか考えない。本当の友達というのは、互いに相手のことを尊敬し合える関係であり、時にはお互いのことを思ってダメなところや悪い点を指摘できるぐらいの仲でなければ友達とは言えないと思う。

これはカップルでも夫婦でも当てはまるかもしれないが、良い友達との関係はつかず離れずの距離感が理想的だと思っている。どの程度プライベートな会話ができるのか、その距離感や居心地の良さというのが相手との相性であり、それは自分と相手で相互に関係を続ける中で育み、見つけていくしかないものである。

 

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祖父母の本心は日記の中に

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

敬老の日ということで祖父母について思い出しながら語ってみたい。

祖父母の本心が分からなかった

私の祖父母は7年ほど前に全員この世からいなくなってしまった。それまでほぼ毎年のように夏休みに帰省し、2泊から3泊程度宿泊させてもらっていた。子供にとって祖父母と触れ合える時間は有意義でもあり、当然祖父母も孫と触れ合えるのは楽しいことあり、帰省することは祖父母にとってもメリットしかないと思っていた。ある意味ではそれはもちろん正解であり、孫の顔を見て喜ばない祖父母はほとんどいないだろう。しかし、祖父母の立場になって考えてみると、年に一度とは言え孫を含めて息子家族が自分の家に大勢で押しかけてくるのはまあまあ気が重いのではないかと思う。その数日は要らぬことに気を遣わなければならないだろうし、少なからず普段の自分たちの生活リズムを崩される要因となるだろう。

だから祖父母が亡くなった後、家にあった大量の荷物を整理する中で祖母の日記を見つけ、その中に「息子夫婦が帰省してくるのは嬉しいけれど面倒だ」という旨の記述を見つけた時、やはり私たちは祖父母の本心には気付いてあげられなかったのだなと思うしかなかった。祖父母としても孫に会えるのは嬉しいとは思うが、毎年その行事が恒例となるにつれ、次第に楽しさよりも煩わしさや面倒臭さが先行していったのかもしれない。かといってもう遊びに来るなということはなかなか言い辛いだろうし、少なからずジレンマを抱えていたのだと思う。それを日記の中で自分の本心として綴り、気持ちを整理していたのだと思う。意見を言えばお互い分かり合えるというのはある程度はそう思うが、やはり身内とは言え言い辛いことはたくさんあって、そのようなことも含めて互いを分かり合っていくのは本当に難しい。祖父母の日記を読んで私はそう思った。

喧嘩をする相手がいることは幸せ

少なくとも私たちが訪問している時、彼らはほぼ毎日大声で口論をしていた。洗濯物の干し方が汚いとか、ゴミが落ちているとか、飼い犬がドッグフードを拒否してクリームパンやアンパンばかりねだることに対する文句とか、本当にくだらない日常の些細なことばかりだった。しかし最初に祖父が亡くなり祖母だけ取り残された後、祖母がそれまで喧嘩ばかりして目の敵にしていた祖父についての思い出を語りながら涙する場面を見たりもした。祖母のそんな姿を見るのは初めてだった。いつも喧嘩していたがなんだかんだでお互いを必要としていたのだなということが自然と伝わってきた。失って初めて大事なものが分かる、というのはまさにこのことなんだろうとこの時私は思った。

祖母は祖父につられるように祖父が亡くなってから1年半ほど後に亡くなった。祖父が早くに亡くならなければ祖母ももう少し長生きしていたのではないかなと思ったし、口論でも喧嘩でもできる相手がいるのはある意味では幸せなことだったのではないかと今私は思うのである。

 

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大手企業に入る人とそうでない人の違いとは

転職をしてから2年ほど経過する。思えば2年前に電撃的に前の会社を辞め、それから夏の3ヶ月は転職活動以外はほぼニートのように過ごす中で暇つぶしにこのブログを書き始めた。もう2年も経過するのかと思うと感慨深いものを感じる。

その転職活動で私は中小企業からそこそこの大手企業に転職することに成功した。当時、中小企業から転職した身としては、大手企業と言われる組織に属する人々はどれほど能力が高いのかということに対して興味深く思っていた。そして2年が経過した今、周りの人を見てきて前の会社の人たちとほとんど能力的に差がないということに気付きつつある。

能力的な違いはない

2年間今の会社で過ごし、同僚の仕事におけるスキルレベルは前社でも現会社でも大きな違いはないと感じている。今の会社で飛びぬけて技術力が高い人は確かに存在するが、前の会社でもそのような人は存在していたし、私はその人を先輩として心から尊敬していたし、今でもあの先輩だったらこの仕事どうやって対応するだろう、と想像することもある。仮に前の会社の先輩が今の自分の会社に来てもかなりスキルレベルは上になると思うし、今の会社が大手だからと言って同僚のスキルが特別に高いとは感じない。

能力的に大差はないはずなのに、入れる会社が中小と大手とでは年収や福利厚生面を含めた待遇に大きな差が生まれてしまう。今中小企業で満足できない条件で働いている人が、決して大手企業で働いて能力的に不足がある、ということは必ずしも当てはまらないと思うので、満足できない境遇で働く人も転職を諦めてはいけないと思う。むしろ、中小企業に属する人の方が専門性が高く、ある特定の分野に対してのスキルは特化されているようにも感じるぐらいである。その人たちがもっと満足に働ける環境は他にもありそうだ。

新卒の就活は8割以上相性と社風に合うかかどうか

2年前、大して能力がなかったにも関わらず私が今の会社に入社できたのは、実力ではなくほとんど運だったのではないかと今思う。新卒や第二新卒程度の身分でスキルレベルや実績を評価されて転職できるということは、よっぽどのエリートでもない限りあり得ない。であれば何が評価の対象になるかというと、潜在能力、いわゆるポテンシャル採用だと思う。今後自社に入って育って活躍してくれそうかどうか、現在の姿勢から将来の姿を想像する。または性格が社風にマッチしているかどうかという点などもあるだろう。たまたま面接でマッチする会社に出会えれば良いが、そうでない人も多くいるので、この運の良しあしで人生の半分ぐらいが決まってしまうという恐ろしさを感じる。

まとめ

自分が大手企業に入っているからと言って、それは自分の能力が高いということを必ずしも意味するわけではない。なぜ自分が今の地位で居られるのか、そのことをしっかり理解した上でおごらずに行動し、地道な努力を重ねていける人がどんなところに行っても必要とされる人材になるのだと思う。

 

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適度なストレスが人を健康にする

外に出る機会がめっきり減ってしばらく経つ。ずっと家に居ることで刺激やストレスが極端に少ない生活を送ると夜眠くならなかったり、日中になんだかボーっとしてしまうことも多い。そんな状況を打開するために、自分の日常生活に適度なストレスが必要だと気付いたのがこの半年間過ごしてみて分かったことだ。

私であれば会社に出勤することで少なくとも普段より早寝早起きしなければならないし、使える時間が限られる分、集中してやるべきことに取り組むことができる。また、他の人と顔を合わせて会話することが良い刺激となり、良質なストレスを育んでくれるのだと思う。

このような考えのもと、私は自身の両親を見ていて思ったことがある。それは、日常生活でかかるストレスが健康に直結するのではないか、ということである。

私の両親がまだ元気である理由

私の両親は共に既に60歳を超えており、一般的には前期高齢者の部類に入るのだろうか。私の親戚や身の回りを見ている限り、世の中の三分の一ぐらいの人は60歳を迎えるまでに入院したり何らかの病気を患ったりした経験がある人が多い。だが、私の両親はまだ大きな病気をして一定期間体調を崩したこともないし、父親は数カ月前に引退したのだが、それまで平日ほぼ毎日5時間ほどの睡眠と往復3時間強の電車通勤を35年続け、その間体調不良を理由に仕事を休んだのが1日だけというかなりのタフガイである。母親は毎日4時起きの22時就寝ぐらいで生活しているが、体調不良で休みというのは未だに見たことがない。

なぜ2人ともこんなに体が強いのか不思議に思って色々考えていたのだが、一つのある結論が見えてきた。食事をきっちり食べていることや睡眠もある程度は確保できているということもあるだろうが、とにかくこの2人は仲が良いのである。夜はいつも二人で会話をしながら食事をしているし、一緒にテレビを見て笑い、一緒の部屋で寝ている。でも、お互い過干渉にはならず適度にストレスがかかりすぎない距離感で過ごしている、ということに今更ではあるが気が付いた。お互いの存在が良い刺激となっているのだろう。夫婦の仲の良さは他のストレスを吹き飛ばすほど偉大である。

ストレスとの付き合い方

ストレスというのは、積もり積もって大きくなったものがある日突然体に悪影響を及ぼしてしまうものだと私は思っている。例えば、会社の人間関係が嫌で嫌で仕方ないのを我慢して続けていても、いつかは限界が来て体が動かなくなってしまう。ひと時だけなら耐えられるストレスも、日常的に続いていくとキャパオーバーしてしまうのである。キャパの大きさは人それぞれなので自分のキャパはしっかり見極める必要がある。だから、今この瞬間自分自身にどんなストレスがかかっているのか、それが継続してかかっても自分は大丈夫でいられる適度なものなのか、ということを定期的に確認する必要があると感じる。

かけすぎてもダメでかけなさ過ぎてもダメ。自分の状態に合わせてストレスとの付き合い方も柔軟に変えていけるようになりたいものである。

 

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ドコモ口座の事件はなぜ起こったのか~SE視点での推測

先週末ぐらいから世間を騒がせているドコモ口座の問題を見ていて思ったことがあるので私なりの意見を書いていきたい。

原因はコミュニケーション不足ではないか

ズバリこの問題が発生した原因は、協業する中でのドコモ側と銀行側のコミュニケーション不足が原因ではないのかと思う。

もちろん私はこの会社に属しているわけではないので、事業やプロジェクト(以下、PJ)の実情を把握しているわけではない。だが、このPJは結構ピリピリした雰囲気のPJであったのではないかと勝手に想像する。NTTのような巨大企業が一次請けベンダーとなって銀行を相手に大規模なシステムを組む場合、その配下に何十あるいは何百もの下請け孫請けのSIer会社が参画するものである。そのため、仕事の指示は一次請けベンダーのリーダーからバケツリレー式に様々な下請け孫請け会社に引き継がれていき、その過程で情報の質はどんどん劣化していく。最終的に指示が末端の作業者に届くころには当初の指示とは全く異なる内容になっていたりすることも多い。私が前の会社にいた時はこの暗黙の形式に戸惑って苦労した。

真偽は確かではないが、そのような中で互いに仕事の相談や報告などのコミュニケーションが十分に行われなくなり、あるいは伝達がうまくいかなくなる。そして、互いに仕事に対する認識が乖離したまま出来上がったのが、セキュリティがガバガバのドコモ口座システムだったのではないだろうか。

これは何の根拠もない私の勝手な想像でしかないが、ピリピリした雰囲気の現場がうまく回ったことは今までの経験上皆無であり、働きづらい職場環境であっただろうことが容易に想像できてしまうのである。

仕事上でコミュ力が大事といわれる理由

仕事上でコミュニケーションをとるのは面倒なことも多い。気の合わない同僚や嫌な上司とは顔を合わせるのですら苦痛なのに、会話をするなんてもってのほかというのが正直な気持ちである。そして大きなPJになればベンダーと下請け・孫請けというSIerカーストに飲み込まれ、他社の人間に気を遣って媚を売りながらPJを回さなければならないという、途方もないやりづらさがある。個人差はあるだろうが、私はこの形態でやらされる仕事にはうんざりだった。

しかし、仕事仲間とのコミュニケーションを避けていると仕事や成果物に対し、次第に管理者側と作り手側の認識のギャップが広がっていき、気が付いた時には取り返しのつかないぐらい大きな溝となってしまうこともあり得る。そんな状況が発生してしまうことを避けるために、嫌な上司やムカつく同僚とも仕事と割り切ってコミュニケーションを積極的にとらないといけないのかなとも思う。今回の事件は、そんな仕事を進める上での当たり前のことを思い出させてくれた。

もしコミュニケーションをとるのがどうしても嫌であれば、その職場は自分がいるべき場所ではないのだろう。今回のように、自分がコミュニケーションを取れないことが回りまわって周りの多くの人に迷惑をかけてしまうことにもつながりかねないし、自分自身も嫌な思いをしたくないのであればやはり環境を変えるしかないのかもしれない。

この事件が起こった背景を私なりに想像するとあながち他人事とも思えず、少しではあるがシステムの作り手に対して同情したり共感する気持ちも湧いてくるのだ。

 

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在宅勤務時の食事内容を工夫する

今週のお題「ごはんのお供」

春先から在宅勤務が増え、昼食については自炊することが多くなった。通常通り会社に出勤していればコンビニで購入するかどこかのお店で外食するの二択であった。しかし、在宅の場合は昼食のためにわざわざ外出するのも面倒なので、自炊するのが最も経済的かつ手っ取り早いと感じる。

麺類のコスパ最強説

最近、私がほぼ毎日食べているのは冷たいラーメンやジャージャー麵のようなものである。少し前まではパスタを茹でて食べることが多かったが、茹でるのにまあまあな時間がかかることや、飽きてきたこともあり最近はなかなか気が進まない。そこで生麺を冷凍しておいて昼休憩になったら冷凍庫から取り出し常温解凍し、その間にお湯を沸かしながら洗濯物を取込む等の家事をする。お湯が沸くころには麺もいい感じに解凍されて、後は沸騰したお湯の中に麺を放り込んで2~3分ほど茹でれば手早くラーメンができるのである。以上は私の在宅勤務時の定番のルーティーンワークとなっている。

また、ラーメンの上に任意で自分の好きなおかずを乗せ、かけるソースなども数種類用意しておけば、毎日少しずつ食事内容に変化を加えてマンネリ化をある程度防ぐこともできる。近頃はスーパーで刺身用のサーモンやマグロを購入し、自分でスライスしてラーメンの上にのせ、海鮮ラーメン的なものを自作するささやかな楽しみも覚えた。

以上は私が日頃行っているラーメンでの一例にはなるが、麺類全般はさっぱりとしておりのど越しも良く価格も手ごろであり工夫次第でアレンジも効くため、自炊のお供として個人的には非常にオススメできる。

個人的にはインスタント食品は週一回程度を目安にしたい

台所に立つのがどうしても億劫という方も一定数おられるとは思う。そんな方々は恐らくカップラーメンとかカップ焼きそばなどの冷凍食品+お惣菜みたいな形でお昼を済ませているのかもしれない。私も毎日の食事に少し変化を入れたいときなどはたまにカップラーメンやマクドナルドを食べたりすることもあるが、それらはたまに食べるからこそ美味しいのであって、日常的に食べるものではないと個人的には考えている。だからインスタント食品は多くても週一回程度しか食べないし、でももちろん美味しいので週一回しかないからこそその時を待つというちょっとした楽しみも味わうことができる。

新たに試してみたいこと

とはいえ、私の場合はほぼ毎日ラーメンという麺が食事のベースとなってしまっているため、多少の飽きは出てきている。そこで最近もう少し昼食のレパートリーに加えてみたいのは海鮮丼や寿司などの生魚を使った料理である。コスト的な面なども色々と検討する必要はあるが、ラーメンや他の麺類以外で何か生魚のうまい使い道がないかどうかを考えてみたいと思っている。

今までは肉が大好きであったが、今は生魚の魅力に気付きつつある。よく考えれば寿司とかは子供の頃から大好きだったので、むしろ気付くのが遅すぎたのではないかと思っている。基本的に脂分が少なく胃もたれしにくくさっぱりしているが、しっかりたんぱく質を摂取できて且つ美味しいというのが生魚の大きな魅力だと思っている。メニューを検討して私生活に少しずつ取り入れていきたい。

 

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人の本音は会っていない時こそ見えるものである

他者の本音を知ることは難しい。普段の生活の様々な場面でこのことを実感するが、特に相手の本音を知りたいと思う場面として恋愛が挙げられるのではないかと思う。私も学生時代の頃は、相手が自分のことをどう思っているか知ることができたらどんなに良いだろうと思うことがしばしばあった。

また、TwitterをはじめとするSNSでは匿名で自由に投稿できるのを良いことに、普段面と向かっては言えないような本音という名の罵詈雑言を吐き散らす輩も多く存在する。

そんな状況を見ながら、人が本音を見せやすい状況が最近になって少しクリアに見えてきた気がしているので、私なりの持論を紹介する。

相手が自分に気があるのかどうかの判断基準

これに対する私の唯一の結論は、他愛無いラインやメールが長続きする、である。

対面のときの心理

人は対面で会っている人が目の前にいるとき、その人を無視することは滅多にない。よっぽど相手が嫌いであれば話は別だが、人が目の前にいればその人と会話の一つや二つするだろうし、できるだけ嫌われないように振る舞うのが自然な態度となる。それは相手が自分に気がある場合でもそうでない場合でも大して変わらない。そのため、対面で会っている時の相手の態度で自分に対する好意を見極めようとするのは、かなり難しいのではないかと思うのである。対面で会っているときは大体の人がそれなりに愛想よく接してくれるだろうから。

対面でないときの心理

しかし、ラインやメールになると状況は変わる。対面の時はニコニコして愛想の良かった人が全く返信してくれなかったりすることが普通にある。結局はこれが相手の本音なのではないかと私は思う。対面しているときはその場で何とか愛想よく取り繕うことができるが、実際に目の前に相手がいないときはそんな忖度は必要なく、いくらでも自分の好きなように扱うことができる。対面で好意的な印象を受けたのに連絡がほとんどないという場合、大抵は相手のことなど何とも思っていない、というのが本音となる。もし相手の中で私の存在が大きいのであれば、会っていないときでも連絡したくなるし、必然的に連絡の頻度が上がると思うのだ。逆にそれがないということは所詮私はその程度の存在でしかないということである。

匿名での誹謗中傷はほぼ全てが本音

相手の顔が見えない、ということは強力な盾となる。SNS上で顔も知らない人たちへの誹謗中傷や無意味なテキストベースでの喧嘩が無くならないのはこれが原因である。

中にはネタとして過激な内容を書き込んでいる人もいるかもしれないが、それ以外の人たちは実は本音ではあれだけの汚れたことを考えているということである。普段面と向かって人には言えないからこそネット空間でそのストレスを他人に向ける、ということだ。

このように考えると、やっぱり人間は意地汚く醜い生き物だなっていうことを実感するし、他人に全幅の信頼を寄せることなんて相当難しいと思ってしまう。ネット空間の発達は、今まで見ることができなかった他の大勢の人々の本音や本性をさらけ出す。見えなかったものが見えるようになるということは、単純に良い面だけではないなと思う。

 

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