rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

ハードゲイナーというマイナーな悩みについてゆるく語る

体重とトレーニング・ハードゲイナー

少なくとも我が国日本において世の中の大半の人は、体重が増えたり体型が太くなることに対してネガティブな印象を持っており、できれば避けたいと考えていると思う。極端にいうとデブよりはガリガリの方がまだマシという考えが根本にあり、その気持ちは良く分かる。メディアなどでも痩せるための食事や運動の方法論は掃いて捨てるほど目にするが、筋肉をつけて体重を増やす方法について具体的に紹介しているものは稀である。つまり現在の日本においてその需要が圧倒的に少ないということの裏返しだろう。

だが、私のようにトレーニングをしながら体を作っている人にとって体重を増やせないというのは致命的である。体重を増やさなければ筋肉がつくことはないからだ。筋トレをしても筋肉がつくわけではなく、それと合わせて体重が増えるぐらい食べないと筋肉はつかないのである。また、ただ闇雲に食べるだけでもダメでそれなりに良質な食事でカロリーを稼がなければならない。そして、体重が増えるぐらい食べるというのは我々ハードゲイナーにとっては大変な苦行である。

食べるのが遅いという悩み

ハードゲイナーの人は基本的に食べる量が少なく、食べるのが遅い。私も例外ではない。

とにかく、他の誰かと一緒に食事をとるのが億劫で仕方ない。特に5、6人で一緒に食事に行くと自分以外の全員はさっさと食べ終わってしまうのに、自分だけはまだ半分も完食できていない、なんて状況はザラにある。先に店を出てもらうと会計も面倒になるし、でも待っててもらうのも何だか気まずい。なぜ食事という本来であれば楽しい時間にこんなにストレスを感じなければならないのか、そう思って物心ついた頃からは家族以外の人間と一緒に食事するのを断るようになった。やむを得ず他人と食事することはあるが、基本的には個食の毎日である。

食べるのが遅い人間からすると、どうしてつけ麺大盛りをわずか3分で完食した後に追加で替え玉まで食べられるのかが全く理解できない。自分はその半分ぐらいの量を食べ終えるのに10分以上かかるというのに。

悪いことなのか

ハードゲイナーは悪いことではない。ゆっくり食べるので食べる量が少なくなり、結果的に太りにくいということになるだろう。むしろ健康的ではないか。

一方で、ボディビルやフィジークなどの体を作って見せあうようなスポーツではハードゲイナーは不利になる。理由は前述の通り、食べる量が少ない≒筋肉が成長しづらいためである。また内臓の消化能力も弱く、ちょっと食べすぎたりするとすぐ下痢になったり体調が悪くなったりする。こういうタイプの人間は筋トレとか体づくりについて、食事の観点からはあまり精を出しすぎない方が良く、そういう意味では筋肉をつける才能がないのかもしれない。

それでも私だってそれなりに筋肉をつけているのだから、吉野家の牛丼並盛一杯で満腹になるぐらいの食事量だと少しもの足りなく感じてしまう。もう少し食べられるようになりたいものである。

 

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たまには会社に出社するのも悪くないと感じたこと

まずは何気ない日々の生活に感謝したい

日々生活を送る上で便利だなとかありがたいなと思っていたことに対しても、毎日繰り返しているうちにそれを当たり前だと感じるようになり、そのありがたみを特別だと感じなくなってしまうことは多いと思う。

例えば、健常者は大抵いつも健康で生きる上で何不自由なく生活していると思うが、ひとたび大怪我や大病を患って自由に身動きが取れなくなってはじめて不自由ない生活をありがたいと感じるものである。私は最近特に体調を大きく崩すことも大怪我をすることもなくそれを何とも思わずに生活しているが、色々と生きづらい最近の世の中において、改めて決して不自由ではない自分の状況に感謝しなければならないと感じる。

久しぶりに会社のメンバーと会って感じたこと

先週会社に出社した際に約半年ぶりぐらいに顔を合わせるメンバーがちらほらいた。今は在宅勤務が主流で週に1、2日ぐらい出社するような流れになっているが、個人によって出社日はバラバラであるため、なかなか会うことができないメンバーもいる。先週は珍しくかなりの人数が出社していたため、久しぶりに顔を合わせる人もいたということだ。

久々に会話をしているうちにコロナ禍以前の雰囲気とか自分の中の感覚を少し思い出し、懐かしい気持ちになった。雑談やちょっとした業務連絡をする中で、職場とは言え人と何かしら会話をしたりコミュニケーションを取ることはとても大切なことだし自分にとって必要なことだと心から感じることができた。在宅勤務でウェブ会議を行う機会は頻繁にあるのだが、やはりリアルでのコミュニケーションに勝るものはないという実感を得た。

出社あってこそ在宅勤務のありがたみが深くなる

そして同時に思ったのが、やっぱり在宅勤務って良いなということである。全く出社をせずに在宅勤務ばかりしていると他者とまともな会話をしないせいでだんだん心が荒んでくるし、次第に体がだらけモードになって無気力になってくる。そりゃあ在宅であれば睡眠時間も長く確保できるし移動や服装や雑音のストレスもなくて快適ではある。だが、定期的に出社をして自身を適度なストレスにさらすことでメリハリのある生活につながり、より在宅勤務にも身が入るというものなのかもしれないと最近は思っている。

現在世の中の状況はカオスに近い。そんな中で出社せずして仕事に支障が出ないのであれば可能な限り出社しない方が良いだろう。それはどうしても出社しなければならない自分以外の人々が受けるリスクを可能な限り減らすためだ。ただ、あくまでも自分自身の心と体の健康のため、メリハリのある日常を求めるのであれば適度に出社するなりして自分をストレスにさらすことで、より張りのある日常生活を送ることができるのではないだろうか。

 

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防災週間に考えたいこと

災害に対する心構え

今週のお題「もしもの備え」

お題を見るまで忘れていたが、今週は防災週間ということである。新型コロ助の影響をはじめ、現在は台風が接近していたり、不定期に地震がやってきたりと何かと安心できない日々が続く。これらの事象を100%回避することはできないため、ただ単に恐れて萎縮してしまうというのはあまり得策ではない。であるならば、仮に発生してしまった場合に備えて被害が最小限で済むように万全の準備を期しておくことが何より合理的な行動となるだろう。

防災用品の見直しを

平和な日常が続いているとすっかり忘れてしまいがちになるが、最低年に一度この季節に防災用品の見直しをすべきタイミングである。どこの家庭でも防災グッズを保有しているとは限らないと思うが、何かしらの備えをしている家庭は多いと想像する。そして備えそのものをしたらおしまいではなく、備えに対して定期的にメンテナンスをしているか否かが、いざ災害発生時に役立つかどうかの分かれ道になる。

正直私自身もいつの日からか殆どメンテナンスしていないため、これから備品の確認をいていきたいと思う。個人的には以下の観点を押さえておけば最低限OKという認識だ。

・モバイルバッテリーの充電残量は切れていないか

スマホとモバイルバッテリーの接続端子は合っているか

・水の賞味期限が切れていたり量が著しく減っていないか

・保存食の賞味期限が切れていないか

・懐中電灯はつくか、予備用の電池があるか

・携帯トイレはあるか

メンテナンスのスパンとしては大体3ヶ月~半年に1回ぐらいが良いのではないだろうか。特に明確な理由があるわけではないが、電池切れなどを考えるとこのぐらいなのかなと思う。

水の賞味期限について

水の賞味期限が切れたらすぐに買い替えているという方もおられるかもしれない。だが、水は賞味期限が切れても品質的にあまり問題ないそうである。水の賞味期限は購入時を基準に一定量以上が蒸発してなくなってしまう場合の指標であり、品質には問題ないということらしい。

詳しくは個々で情報の真偽を調べてみてほしいのだが、私自身も感覚的に水に品質の賞味期限があるようには思えないため、期限が過ぎたものでも2~3年ぐらいはそのままにしておくことが多い。そしてそれらを飲んでも今のところ体に大きな不調は起こっていないため問題なさそうである。そのため、むやみやたらに賞味期限に対して神経質になる必要も無さそうだ。とはいえ、気になるという方は多くいると思うのであくまで個人の判断に基づいた方がよさそうではある。皆さんはどう考えるだろうか。

 

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全ての人が好きなことで生計を立てていくことはできない

誰もが大勝ちできる可能性がある世の中

現代ではテクノロジーやメディアが発達したおかげで、昔よりも人生において多くの選択肢の中から自分の好きな生き方を選ぶことが可能になった。YoutubeInstagramTwitterなど、多種多様なソーシャルメディアにより、一個人の意見をより多くの人々に伝達することが可能となった。私も趣味程度ではあるが、こうしてブログに文章を打ち込むことで、私個人のが自分の意見を主張し、読者の方に何らかのインセンティブを与えることも可能である。ある意味とても良い時代になったと思う。

一方で、成功している一個人の意見を鵜呑みにし、あたかも誰しもが好きなことだけやって成功できるはず!と信じて疑わない人々も一定数いるように見える。もちろんそのような人が成功することも可能性としてはなくはないと思うが、やはり全員が全員それを実現するのは不可能ではないかと私は思う。

成功者の本質は今も昔も同様

自分の商売が軌道に乗ってきたとき、お金の問題はほぼなくなるが、すぐに人員不足という状態に陥る。通常であれば事業を拡大し、売上金額をどんどん伸ばしていきたいので、そういう時は人を雇うことになる。単純に考えて、誰かが自分の好きなことを続けてどんどん儲けを増やしていきたいのであれば、その誰かに従属する人々が必要になる。もうお分かりだと思うが、それこそが会社という仕組みであり、社長やCEOを会社のリーダーとしてその下に社員が雇われているということである。

また、成功しているYoutuberはより自分がやることやジャンルを増やし、今よりもっと多くのお金を稼ぐことを目的としている人が多い。彼らは既に月収何百万円も稼ぐため、税金の支払い額も半端ではないだろう。であれば累進課税でない法人税が適用される法人=自分の会社を立ち上げて活動すれば良いという考えもあるだろう(大雑把に述べたており実際はこんな単純ではないが)。

こう考えると、今も昔も成功者がとっている行動の本質は変わらない。自分がやりたいことがうまくいくようになり、会社を立ち上げ従業員を雇ってさらに事業を拡大していくということであり、単純明快だ。

いつの時代も成功者は一握りである

最初に述べたように現代においては一人一人誰もが自分の好きなことや独自性などを周りにアピールし、それを仕事につなげていくことができる可能性を持つ社会といえることは間違いないと思う。しかし、全ての人間がそうなりたいと思うわけでもないし、結局は雇い主と従業員という関係に終着するモデルでは物理的に不可能である。

成功しているほとんどの人は最終的に自分の会社を立ち上げたがる。成功という言葉の定義がどの程度なのかにもよるが、このような人たちはきっとメディアが発達していなかった昔の時代に生まれていても、何らかの形で事業や会社を起こしていたのではないだろうか。そしてそれに従属する労働者たちは、自分が好きでないことも渋々受け入れてやっていくしかないのだろう。それは今も昔も変わらないだろう。

いつの時代でも成功者は一握りであり、そのほか大多数の人々はそれに従属する形で存在しているに過ぎないということだと思う。そして従属していることに対して特に不満がないのであれば敢えて大きな成功をつかみに行く必要もないと思う。

 

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文章を書くことで自分の考えを整理する

個人的な思い出と今思うこと

今週のお題「読書感想文」

今でこそ私は文章を書いたり読んだりするのが好きだが、子供の頃は文章を書くのも本を読むのも大嫌いだった。夏休みの宿題は必ず読書感想文が最後に残ってしまい、結局自分一人では何もできずに半分以上親に書いてもらい、結果的に何か賞を取るというズルをしていた思い出がある。

今となってはなぜ多くの子供が文章を書いたり読んだりするのが苦手だったり嫌いなのかがなんとなく分かる。それは、読み書きを楽しいこととして捉えておらず、辛いものという先入観を持っているから、という部分が大きいのだと思う。嫌なことだけど頑張ってやりなさいと親から刷り込まれた結果、本当にその対象を嫌なものとしてしか認識できなくなってしまうことは往々にしてある。私についても、何の先入観も持たずに取り組んでみたらもっと読書感想文を好きになることができたかもしれない。

自分の考えを文章にしてまとめる意義

人間という生き物は文字や言葉を使ってコミュニケーションをとることができる希少な動物である。自分の心の中でなんとなく思っていることを言葉という形にして明確に相手に伝えることができる。文章というのはその最たるものであり、過去に歴史上の偉人が岩に残した文字や書物にまとめた文書により、当時の状況や起こった出来事を後世に残して伝えてきた。

読書感想文もただのブログの記事も根本にある考え方は同じだと思う。自分なりに咀嚼した思いや感想を文章に書き起こす段階で頭の中の情報や感情の整理が自然と行われ、書いている途中で自分自身が思ってみなかったような発見をすることがある。今私もこうしてブログに文章を書き起こしている中で色々な思いが言語化されてこの入力フィールドに文字が並べられている。このように、自分の考えや心の中のぼんやりした感情をしっかりまとめるためにも、文章を書くというのはとても有益なものであると私は思う。悩みや悶々とした感情があるなら誰かに打ち明ける、または一人粛々と文章化する、ということだ。

読書感想文において最も大切なこと

私が子供の頃は読書感想文に何を書くべきなのか全く分からなかった。だからただ物語のあらすじをダーッと書いて、最後に「面白かった」などという薄っぺらい感想を添えておしまいという普通の小学生の9割以上がやりそうなことを例に漏れず私もやっていた。

だが、読書感想文という名前であるからには感想の部分が一番大切なのであり、そこが薄っぺらい一行だけであれば読み手にインパクトを与えることはできない。大事なのは、自分がなんとなく思ったことや感じたことをしっかり言葉にし、分かりやすく文章化すること、そのために考えること、である。これができるとその後の自分の人生で考え方や行動にある程度の指針を与えることができる可能性が高くなるし、人間的にもより豊かになっていくのではないだろうか。

 

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SNS上で狂喜乱舞するアベガーを尻目に思ったこと

昨日、我が国の首相である安倍総理が辞任する意向を発表した。体調不良ということで致し方ないものであり、まずは静養して回復に専念してほしいと思う。

そしてSNS(主にTwitter)ではそれまで「安倍辞めろ」を連呼していたアベガーやアベノセイダーズの人たちが喜びを爆発させ、あるいは「突然やめるなんてムセキニンダー」と打って変わってツンデレ気味に訴える様子を頻繁に目にした。自らのストレスや怒りの矛先をぶつける相手を失ってしまった彼らアベガーはこの先、何を生きがいにしていけば良いのか、少し考えてしまった。

安倍さんも首相の前に一人の人間です

前置きの冗談はここまでにして、体調不良での辞任を発表した安倍首相に対して自民党議員はもちろん、基本的には対立しがちな野党の議員からもある程度労いの言葉や体調を気遣う言葉が見られ、批判するような人はほぼ皆無であった(一人だけ例外がいたが無視する)。普段は反対意見で対立ばかりしている野党がなんとなく好きになれないのだが、やはり大半の政治家は道徳的な心はそれなりに持ち合わせているのだと思い、少しだけ安心した。

それに比較し、Twitter上でのアベガー達の民度の低さというのは凄まじい。もちろん、SNSで悪口を吐きまくるアベガーなんて国民の数%にも満たないだろうが、どのような生き方をしたらあれだけ考え方がねじ曲がってしまうのかが私には想像がつかない。「次は安倍逮捕!」「安倍を牢屋に!」などまだまだ安倍首相に制裁を加えてやりたいらしい。彼はもう既に何千何百万という国民の批判を一身から受けて立っている。それだけで既に制裁となっているだろうし、これ以上批判しても批判者の自己満足で終わってしまう。誹謗中傷を止めろというのならそれは安倍首相に対しても同様だと思う。首相が今まで政治的に悪いことをしてきたか、とか気に入らないから、とか色々な意見はあると思うが、誹謗中傷とは別に考えなければいけない。自分が同じ立場に立ったらどう思うか、そこを想像しない人は相変わらず多いと感じる。

安倍首相のメンタルの強さについて知りたい

私が安倍首相だったらとっくに精神を病んで自殺するなり病気で寝込んでいる状態になっているだろう。そんな状態で彼は国民の生活を左右する様々な決断をし、多少なりともリーダーシップを発揮してきた。だからこそ8年近くにわたる長期政権を維持することができたのだろう。

もちろんこの政権には様々な疑惑がある、政治資金や公的文書などの問題はまだ闇の中にあると思う。が、それはまた別の問題として考え、彼がこれほどまでにバッシングを受けながらも首相という役職を続投することができたのはなぜなのか。単純に面の皮が厚いだけなのか、強靭な精神力や体力を持っているタフガイなのか。はたまた誹謗中傷をやり過ごすような特別な技術を習得しているのか。

今後私自身がストレスに苛まれて心を病んでしまいそうになったとき、安倍首相であればどのようにやり過ごすのか、どんな技術を用いて批判やパワハラに向き合っていくのか、その点に非常に興味があるし政界引退後に何か暴露してくれないかと期待している。

 

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寝ても寝ても眠いのはなぜなのか

最近は8時間睡眠でも眠い

最近は基本的に在宅勤務が継続中であるが、週に2日ほど出社する日も少しずつ出てきた。出社時は大体23時就寝の6時15分起床で約7時間睡眠、在宅勤務時は24時就寝の8時起床で8時間睡眠がいつもの生活リズムとして定着しつつある。

当然、会社に出勤する日は在宅勤務の日より睡眠時間が1時間ほど短くなるので朝から日中にかけての眠気は強いように感じる。そのため、たまに在宅勤務があると朝もゆっくり眠れて本当に気持ちよく目覚めることができる。

しかし、在宅勤務をずっと続けていくとそれまで快適に目覚められた朝8時起床がだんだん苦しくなってくることに気が付いた。長い時間眠っているつもりなのに朝気持ちよく目覚めることができなくなってくるのである。これはなぜなのか。

睡眠の質が低下している

普段より長く寝ているのに眠い、その原因は一つしかない。眠れているつもりで実は眠れていない、もっと月並みな表現をすると睡眠の質が低下しているということだと思う。

人間の体は、起床から16時間すると眠くなるように設定されていると言われている。個人差はあると思うが、概ね私もこの法則通りに眠くなることが多い。6時に起きたら22時ぐらいには結構眠くなるし、8時に起きたら24時ぐらいには大体眠くなる。しかし、在宅勤務の時は生活にメリハリや刺激が少ないせいか、起床から16時間ほど経っても眠くならない日も多くあるように感じる。外出して最低限の距離を歩くということや人と会話したり、誰かの会話を聞いたり、誰かの顔を見たりするという良い意味でのストレスが少ないと睡眠の質を悪化させることにつながるのかもしれない。

睡眠の質を上げる工夫

このブログで何度も睡眠に関する記事を書いてきて、今までは基本的には睡眠時間をできるだけ多く確保したほうが良い、という考え方を持っていた。しかし、在宅勤務などでストレスフリーになりすぎたおかげで夜ぐっすり眠れないという、新たな悩みが発生することとなった。それまでは普通に生活していれば普通に眠くなってそれなりに良質な睡眠がとれていたので気にする必要もなかったことだ。何かを得れば何かを失うという、世の中の因果は巡ることを痛感する。

夜眠い状態で布団に入りぐっすり快眠するには、とにかく早めに起床すること、これに尽きるのではないだろうか。人間にとって生活リズムは大切なもの。できれば朝昼晩の食事も起床時間も就寝時間も毎日ほぼ同じにした方が不調は起きにくいというのもある。

頭では分かっている、分かっているけど実行するのは難しい。こんな些細な問題でも選択肢が増えた分、生きるのに新たな難しさが加わってしまったような気がする。

 

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コロナ禍で本当に自分にとって必要なことを考えた

さて、2月末ぐらいから慌ただしく落ち着かない日々が始まってもそろそろ半年経とうとしている。この半年間、例年必ずと言ってよいほど行っていたことを強制的に自粛させられた形となった。そのような状況で過ごす中、なんとなく続けてきたことが本当に自分にとって必要かどうか、改めて考えることが多かった。

旅行に行かない夏を振り返り

私は自分のことを旅好きだと自負していたが、昨年末に広島に観光したのを最後に遠出の旅行には出かけていない。例年ならゴールデンウイーク、特に夏休みは必ず一人で遠くの場所に行くのを楽しみにしていたが、今年はなんとなく気が進まずにどこにも行かなかった。

外に出られないことがかなりストレスになると予測したが意外とそうでもなかった。むしろ家の中で出来ることを十分に味わって楽しむことにシフトできたような気がしている。夏休みを終えてみれば別に旅行に行かなかったことで多くのストレスを感じることもなかったし、私にとって旅行というのは必須ではないということを発見することができた。

自分にとって本当に必要なこととは

止めようと思って容易く止めることができることは、その人にとって本当の意味で大事なものとは言えないのかもしれないと感じる。私には大の旅好きな友人がいるのだが、彼は自粛期間中もちょっとした外出をしたり、gotoトラベルがはじまると県外へ飛行機で遊びに行ったりと、いつも通りとまではいかないまでも旅行を謳歌しているようだった。私もジムでのトレーニングを自粛することは辛く、ジム閉鎖中に自宅に器具を買いそろえるぐらいトレーニングは生活するうえで欠かせないものとなっている。

友人である彼にとっては旅行というのはそれほど大切なものであり、日常生活で手放せないものであるということだ。そして、旅行に関して言えば私にとってはそうではないということだろう。

今後への生かし方

今まで何気なく習慣的に続けていることを改めて見直してみる良い機会になったかもしれない。そもそも今のような状況が発生しなければこのように考える機会もなかっただろう。

もちろん、本当に必要ではないからと言って旅行自体を完全に自分の中から無くしてしまおうとは思わない。やはり旅行は好きだし、日常から解き放たれて心を入れ替える時間は自分にとってかけがえのないものだと感じる。その思いは今も変わらない。ただ自分にとって本当に大事なことの優先順位が少し明確になったのは大きいと思う。

自分にとって大切なものはその時々によってどんどん変わっていく。今後生きていく上で何が自分にとって本当に必要で大切なのかを常に見極めながら生活していきたいと思う。

 

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頑張るということ、ポリシーを貫くということについて

自分のポリシーは大切にすべき

人は誰しもどんな場面においても自分なりのポリシーを持って生活しているものだと思う。私の場合で言えば、仕事において可能な限り効率的に時間外労働をせずに日々をやり過ごすように工夫する。その他日常生活も含めると、人によって態度や接し方を変えないこと、相手の発言や価値観を否定しないこと、他人の意見は参考にしつつも、最終的には自分がやりたいことという尺度で行動を決めていく、頑張りすぎないこと、などがある。

そして、これらは自分の中のポリシーであると思っている。ポリシーとは、政策、方針のことである。我々は生きていく中で様々な問題や困難にぶち当たることがあるが、その際に自分がどのように決断して行動していくかどうかのヒントになるのがポリシーであると考える。そのため、基本的には何が起ころうとどんな状況であろうが、ブレずに自分が決めたこれらのポリシーに沿って行動していくことこそが筋を通すということであり、自分らしく幸せに生きるための行動となるのである。

ポリシーを貫く=頑張るということなのか

最近、自分のポリシーを守るために頑張っている自分をふと発見することがある。例えば仕事をしていて作業に集中できている状況が続き、定時を過ぎてもまだまだやれそうな気分にあるとき、それでも自分の中で定時にはその日の仕事を止めるというポリシーがあるため、強制的に終了することにしている。そう、私は定時に仕事を止めるということを頑張って実行するようにしている。

これはポリシーを貫くという意思での行動ではあるのだが、「ポリシーを貫くために頑張るという」行為が「頑張りすぎない」というポリシーと相反するものだと最近になって気が付いた。頑張りすぎないことを目指すのであれば、頑張ってその日の仕事を止めるのではなく、成り行きで少し落ち着くまで残業して仕事を続けるというのも一つの考え方かもしれない、と思う。このあたりの加減の仕方がまだ自分の中で確立されていないと感じる。

ポリシーを守りながらそれに固執しすぎないということ

ポリシーというのは物事に対する自分なりの指針や方針であるから、大原則としてそれらを守って行動するのが正しいことだし、常にそのように行動をしていきたいと思っている。ただ、それは同時に柔軟性を持った対応力に欠けるという大きな問題を抱えているということでもある。年齢を重ねるにつれて自分なりのポリシーを確立する人は増えるが、その分頑固で融通が利かないというのはあまり良く思えない。

自分のポリシーを明確化した上で、どこまでなら柔軟に対応できるのかをその時の状況によってなるべく適切に判断して行動できるよう、バランスを取りながら行動できるようになりたいものである。

 

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夏を乗り切る水分摂取方法を考える

今週のお題「暑すぎる」

今年2020年は7月末まで雨模様の天気が続き、8月に入ると共に梅雨が明けて連日猛暑が続いている。熱中症で倒れる方も多く出ており、油断ならない状況が続いている。そんな猛暑の中において重要になる適切な水分補給の方法について改めて考えてみたい。

水の飲みすぎに注意

最近少し話題になっているが、水中毒という言葉を聞いたことがあるだろうか。

www3.nhk.or.jp

記事によると、汗をかいた後に大量に水を飲むことで血液中の塩分濃度などが下がり体の機能に支障をきたすという症状らしい。こまめな水分補給は推奨されているのだが、ガブ飲みはNGということか。

ただ、のどが乾いたらとりあえず水を大量に摂取したくなる気持ちは分かる。私自身も移動などをしてたくさん汗をかいた後に一気に水をガブ飲みするのが好きだったりもする。しかし、このような行動を繰り返していると水中毒なる症状を引き起こしてしまうのかもしれないので、改めて注意しなければならないと感じる。

対策としては、水の代わりにナトリウムを含む経口補水液やスポーツドリンクを飲めば良いとのことだ。個人的な意見としてはミネラル麦茶とかでも代用可能なのかどうか、という点は非常に気になる点である。この部分はもう少し調べてみる価値がありそうだ。

ポカリは薄めてはいけない?

news.yahoo.co.jp

これも最近のニュースだ。ポカリスエットをはじめとするスポーツドリンクを薄めて飲むと熱中症予防として十分な役割を果たせない可能性があるとのこと。なぜならば、スポーツドリンクは販売されているそのものが既に適切なナトリウムの濃度に設定されており、薄めることでその濃度が変わってしまうため体への効果がいまひとつになるらしい。

言っていることは分かるが、私自身もスポドリはいつも薄めて持ち歩いたり飲んだりすることが多い。理由は2つあり、単純に薄めた方が味的に丁度良いということと、当分の過剰摂取にならないように、ということがある。たまにスポドリをはじめとする清涼飲料水には砂糖がこんなにたくさん入っていますぅ~みたいなパフォーマンスをやっているが、あれの影響だと思う。

清涼飲料水の砂糖の含有量に対しても色々とツッコミどころや真偽が確かでないものはあるが、糖質を毛嫌いする健康志向の我々日本人にとってスポドリの原液は大敵なのかもしれない。

結局どうすればよいのか

さあ、自分で書いていても結局何が正しいのか良く分からない。

水の飲み方はガブ飲みではなくちびちび飲みで、3口に一口ぐらいはスポドリを原液で摂取する、というぐらいが現実的な落としどころだろうか。とはいえ、タイミング的にどうしても水をガブ飲みしたいタイミングや、糖質摂取制限がある方はスポドリを原液で飲むなんてできないという方だっていることだろう。こればかりは大原則をある程度守ったうえで個々人により適した方法を自分なりに模索していくしかないのかもしれない。

 

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