rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

内定辞退はメールで行うのが良い

来年の新卒の採用が進んでいる。選考自体は6月から始まったようだが、既に内定を持っている人も多くいることだろう。中には、6月前半で既に内定を複数持っているなんて猛者もいたらしい。複数内定を持った時、どうしても1社以外は入社を辞退しなければならないが、この際に企業との間で揉め事が発生することもあるという。そこで、内定辞退に対する私の意見を述べていきたい。

私の過去の就活の場合

私は2社内定をもらって1社は電話で断った。電話で断っても先方からは特に文句を言われることはなく、「そうですか、そちらの会社で是非頑張ってくださいね。」と言ってくれてとても好印象だったのをよく覚えている。でも結局2社しか内定もらえなったので断ったのは1社だけ。その1社がたまたま良い会社だったというだけで、電話で断ることに嫌悪感を示す会社もあるかもしれない。でも当時はそんなことは全く考えず、自分が一番やりやすくて最低限失礼でない手段として電話を選択したと記憶している。

企業と応募者は対等の関係ということは

余談になるが、面接とか企業説明会の時に企業はよく次のようなことをいう。「企業と学生(応募者)は平等な関係です。だからなんでも聞きたいことをおっしゃってください」と。でもその言葉の裏には「ただし常識の範囲内で」という枕詞が隠されていることを忘れてはならない。常識の範囲を超えて聞きたいことを聞くと企業はあからさまに嫌悪感を示し、容赦なく一次面接でお祈りメールを送りつけてくる。だが、そもそもその常識というのは誰かが考えた主観的な価値観であり、それと自分の価値観が合わないのであればこちらから願い下げというものだ。だから全く気にすることはない。仮に入社できたとしてもどうせ合わなくて辞めることになるだろう。

企業と対等の立場で行う内定辞退とは

企業はお祈りメール一本入れるだけで応募者を落選させることができるのに、応募者がメールで内定辞退をできないとは一体どういうことなのか。企業と応募者が真に対等の立場であるならば、メールでの内定辞退も許されなくてはならない。なぜなら、企業は同じことを応募者に対してやっているから。もしそれが許せないというのであれば、はじめから「企業と応募者は対等の関係である」などという文句を謳うべきではない。
もちろん一部例外はあると思うが、基本的にどの企業も落選通知はメールが普通だと思う。であれば、応募者の方から内定辞退する場合もメールで問題ない、というのが私の主張だ。対面や電話というのは双方の時間を拘束するという点で損失だと考えることもできる。しかし、メールのような非同期通信であれば自分らの好きなタイミングで情報を取得することができる。メールでの内定辞退連絡はこのように少しの時間でも節約できる点から見ても有益な手段だと思う。対面厨の人たちにはもう少し文明の利器を賢く活用してもらいたいものだ。

 

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今週のお題「2019年上半期」

今週のお題「2019年上半期」

今年も上半期が過ぎた。6月も始まったばかりかと思ったらもう7月が目の前だ。2019年の上半期を個人的な視点で振り返ってみたい。

新しく始めたこと・やめたこと

色々な人のブログや本を読む中で、それまでの自分の中の当たり前を壊してみようと思った。世の中には様々な常識といわれるものがあるが、それら数々を自分なりに吟味し、本当に必要だと思うものだけ実行するように視点を変えた。

無駄な残業をやめた

4月から所属部署と業務内容が変わり、それをきっかけに残業を止めることを自分に課した。それまで残業をしないということは全く考えていなかったが、これまでの当たり前を疑った結果、真っ先に削るべきがこの残業だと気が付いた。もちろん、やむを得ず残業する場合はあるが、今までのように周りの人の視線を気にして残業するのは一切やめた。心も体も身軽になったし、健康にもなった気がする。

スキマ時間に読書を始めた

通勤に毎日往復で3時間近くかかる。それまで、通勤時間は特に何もせずにボーっと過ごしていたが、この貴重なスキマ時間にできることを考えた。その結果、読書をするという結論にたどり着いた。本を読むだけで人生が変わるわけではないが、読んで感じたことを実行に移せば驚くほど生活が変化する。

ヤフオクを始めた

ヤフオク自体は何年か前から使っていた、主に落札者の立場で。今度は自分で売ってみようと思った。読書のために本を買って読み終わったらそれをヤフオクで売る、という具合に有効活用できることを知った。読み終わった本を家の中にあまり残さないように、すぐに売る。欲しくなったらまた買えばいい。それぐらいの心持でやっている。

クラウドワークスを始めた

個人で手軽に仕事ができるということで、クラウドワークスも始めた。ゆるーくやっている。報酬額自体は大きなものではないが、少しずつ実績を作って報酬を増やしていければ良いと思う。例え明日会社をクビになっても、ここである程度実績を作っておけばそんなに怖くない。収入源が複数あることは心強いことなのだ。

今目の前に全力を注ぎたい

今後どのように生きていくのかとか、下半期の目標とかは全く考えていない。今できることを全力でやりきる、ということに注力したいと思うからだ。今に焦点を当てて生きていれば未来は自然に作られていく。だから、余計なことは一切考えないようにしている。とにかく、今目の前にあるものに全力で取り組むということをモットーにこれからも過ごしていきたい。

 

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在宅ワークをしてみて思ったこと

仕事ができる環境が整っているのであればという条件で、在宅ワークを積極的に推進する企業が増えている。私が所属する会社も働き方改革として在宅ワークを推す動きが出てきている。そして私も今月から少しずつ在宅ワークをし始めている。そこで、実際にやってみて思ったことやメリット・デメリットを見ていきたい。

 

在宅ワークのメリット

通勤電車に乗らなくてよい

通勤時間が丸ごとなくなるというのは非常に大きい。私の場合、往復ドアtoドアで3時間近く通勤に費やしている。その時間を別のことに使えれば、1日にやれることは格段に多くなる。また、私は朝が苦手なので朝起きるのが遅くても大丈夫なことは精神的な余裕にもつながる。通勤時間という一般的には非効率的な時間を無くすことで一日の時間が長くなり、色々なことをできるようになるメリットは大きいと思う。

周りの雑音を気にせずに集中して仕事ができる

職場のオフィスというのは雑音が多い。基本的には個々のデスクが仕切られておらず、他の人の話し声や無駄にうるさいキーボードの打鍵音などに気を散らされ、自分の作業に集中できないことが本当に多い。しかし、家で在宅ワークをすれば少なくとも職場よりは静かな環境で作業ができる。仮に家族がいて多少のノイズがあっても、一人になれる場所を探して耳栓やヘッドホンをすれば静寂な空間を作ることはできる。やる前までは集中できないのではないかと心配していたが、やってみると意外と集中して作業できたと感じる。このように、自分が集中しやすい環境を作りやすいというのが在宅ワークのもう一つのメリットだ。

嫌な人と顔を合わせなくて済む

一緒に仕事をするメンバーの中に、誰しもどうしても性格や価値観が合わなくて会話したくない人がいるだろう。私はそんな人と毎日一日中顔を突き合わせて仕事するなんて御免だ。でも自宅であれば顔を合わせることはまずないし、あったとしてもウェブ会議などをしている少しの時間で済む。関わりたくない人との関係をできるだけシャットアウトできるのも在宅ワークの大きな魅力である。

在宅ワークのデメリット

意思疎通がうまくいかないことがある

ウェブ会議を行うにしてもリモート通信で行うため、どうしてもノンバーバルな部分でリアルで会うよりも伝えられる情報量が少なくなる。私はまだ経験がないが、ウェブ会議だからこそ起こるコミュニケーションの弊害などももしかしたらあるのかもしれない。また、通信環境が不安定だと全く使い物にならない。やはり、リアルで会って行うコミュニケーションに勝るものはない。

だらけて仕事にならない可能性もある

家というのは自分の居住空間だ。誰しもが自分の欲望のままに家のカスタマイズをしている。そんな環境で仕事をするのだから、相当しっかり気持ちを切り替えないと誘惑に負けてだらけてしまう可能性もある。私もこれを心配していたが、私用PCを開かずにその上に会社のノートPCを乗せればまず私用PCで遊ぶことはできなくなるので、これを実践している。このように自分が遊んでしまいそうな何かをお持ちの方は、それを絶対に使えないようにする工夫が必要になる。

そもそも在宅ワークできる仕事ではない

私はたまたまシステム系の仕事で家にPCを持って帰れば仕事ができるが、そうではない人が世の中にたくさんいることも知っている。営業であれば外回りをして客先に赴かなければならないし、銀行であれば窓口業務だってあるし、そういう人たちが在宅ワークを目指すのは、産業構造上難しいのかもしれない。

まとめ

今の職場が在宅ワークできる環境ならば、積極的に試してみるべきだ。1回か2回試してみてどうしても職場で仕事するより効率が落ちるようならば、以降はやらなければいい。やる前からどうせ在宅ワークなんてダメだ、と思い込むのはちょっと違う。何事もまずはやってみることから始まる。

そして、今在宅ワークができない環境の人でも、今の仕事にやりがいや楽しさを見出しているのであれば、在宅ワークしたいからという安易な理由で今の仕事を辞めるべきではない。ただ、もし今の仕事に不満があるのであれば、在宅ワーク可能な職場へ転職するか、クラウドワークスなどで手軽に在宅ワークを始めてみるのも一つの手かもしれない。

crowdworks.jp

 

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「『自分の時間を取り戻そう』(2016)ちきりん」を読んで

世の中では忙しく動き回っている人がとても多い。正社員として仕事をしながら家事をこなすワーキングマザー、会社である程度の立場になって仕事詰めの毎日を送る人、周囲に期待に応えるために、とにかく何でもかんでも頑張ってしまう人などがいっぱいいる。でも、それが原因で自分の本当にやりたいことや興味のある分野に対して時間が使えないのであれば本末転倒だ。本書はこのような状況に少しでも心当たりがある人には是非読んでほしい一冊だ。

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少ないインプットでより大きな成果を目指そう

本書の一番のテーマは「生産性」。同じ成果を上げるためにどれだけ少ないインプット量でそれが達成できたか、がとにかく重要だと説いている。学生であれば、勉強時間(インプット量)をあげたらテストの点数(成果)が上がるのは当たり前(まあそう単純でない場合もあるけど)。サラリーマンであれば、残業して長時間働けば捌ける仕事も多くなる。このように、インプット量を高めて成果を上げたことを賛美する日本人独特の風潮に疑問を投げかける。

一見、子供が長い時間勉強していたら、「たくさん勉強していて偉い」と褒めてあげたくなるが、この考えは苦労=美徳と考える日本人の前時代的な考え方である。本来は、いかに少ない勉強時間でテストの点数を高くできたか、という視点で評価しなければならない。この考え方こそ、生産性を主軸にした考え方だ。勉強や仕事に限らず、全ての物事に対して「アウトプット÷インプット」の割合の高さという観点で見ると、おのずとやるべきことが見えてくる。つまり、不要な作業を徹底的に排除し、やるべきことを可能な限り自動化して自分が手を動かす作業を極限まで減らすことが必要になる。

生産性は残業しないための考え方としても重要

特に会社で働くサラリーマンにとって、生産性はとても切実な問題となる。少ない時間でより多くの成果を上げれば残業せずに済むし、集中して短時間で仕事を切り上げることで生活にメリハリも出てくる。これを実現するためには、仕事に順位をつけることが重要だ。今日必ず終わらせなければならないこと、今日できれば良いなと思うこと、いつやってもいいもの、という具合に。だから、今日必ず終わらせなければならない仕事さえ終われば、その日はいつでも帰れる状態にしておき、次に優先度が高いものから先行して着手する。全ての仕事を完璧にこなそうとすると、とても時間が足りないのだ。私は前職で完璧主義な上司の下で苦しんだが、まさにこのいい意味での「手を抜く」という発想がなかったのだ。マジメすぎがバカを見るということを痛いほど思い知らされた。

かといって生産性だけを基準にするのも寂しいもの

とはいえ、生産性という観点だけで世の中全てを割り切ってしまうのも味気ないものだ。一見無駄だと思うようなことでもやってみたら意外と楽しかったり、多くのことを学べたりすることもあるからだ。合理性やスピード重視して工夫すれば、仕事や生活の生産性は格段に向上するだろう。だが、今までのように無駄だと思われていた作業から偶然得られるアイデアや、新しい発見なども同時に失ってしまうのではないかと思う。それはとても勿体ないことだと思う。
可能な限り無駄をなくして生産性を高めるというのは確かにとても大切なことだ。それは仕事であっても日常生活であっても変わらない。だが、今まで生まれた革新的なサービスの中には、無駄が多かったからこそ生まれたものがたくさんある。今後、そのようなサービスによって無駄が少なくなった世の中において、さらに生産性を向上する需要が高まるのかは疑問だ。その頃になったら、敢えて無駄を楽しむためのビジネスすらも生まれるかもしれない。人間というのはないものねだりな生き物なのだ。

 

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今週のお題「雨の日の楽しみ方」

雨というのは憂鬱である。天気予報を見て雨予報を聞くたびにため息が出てしまう。毎日通勤や通学で外に出なければならないのであればなおさらである。濡れるわけにはいかないので傘を差さないといけない、でも自転車で傘さし運転は危険だし警察に見つかると厄介だし、雨合羽は時間がかかって面倒くさい。車を運転すればワイパー必須で視界も悪くスリップもしやすい。そして、昔学生で部活をバリバリやっていたころ、雨の日に外で練習できないことを何度恨めしく思ったことやら。電車だって雨だとよく遅れる。
このように雨によるメリットよりもデメリットを多く羅列してしまいがちだが、雨の日だからこそ出来ることや思いもよらなかった新しい発見などがあることもまた事実だ。雨という一見憂鬱な季節をポジティブに捉えるための心構えを考えてみよう。

新しい過ごし方を発見した

私が今の職場に来てからというもの、昼休みは買った弁当を外で食べるか自席に戻って食べるかという選択肢しか持っていなかった。正直、昼飯を自席では食べたくない。ゆっくりできないし気分も晴れない。でも雨の日に外で濡れながら弁当を食べるわけにもいかないから自席に行くしかなかった。ところが雨だった先日、何を思ったのかいつものように弁当を買わずに屋内のレストラン街へ向かう自分がいた。昼間は混んでいてとても入れないだろうと勝手な思い込みでこれまで昼ご飯の選択肢から外していたが、行ってみると意外とすんなり入れてリラックスできた。値段は少々高くつくが、貴重な昼休みの時間を考えると高くもない。
晴れていたらいつも通り外で弁当食べるという選択肢しかなかったが、雨でそれができないことをきっかけに新しい昼休みの時間の過ごし方を見つけたのだ。雨にはいつも通りのルーティーンを壊し、新しい発見を与える働きが少なからずあるのだろう。

夏の雨は涼しくて過ごしやすい

梅雨の時期の雨は憂鬱でもあるが同時にありがたくもある。これから始まる暑い夏の前の雨の日々。多少蒸し暑いかもしれないが、カンカン照りの真夏に比べればマシな暑さだ。しとしと降り注ぐ雨は大地を潤し作物を育て、ダムの水を補充し、私たちの生活をより豊かにしてくれる。家の中に居れば夜寝るときの暑さなどもなく、それなりに快適に眠ることができるのも気温を下げてくれる雨のおかげだ。

個人的には雨を見ると落ち着く

良く言われるのは、火を見ると落ち着くというもの。キャンドルセラピーなど、ゆらゆら揺れながら燃える火を見つめて心を落ち着けるというものもある。個人的には、これと似たような効果が雨にもあると思う。
地面をたたく雨を見つめながら、これまでに地球上で降った雨の形や作り出される波紋の形、一つとして同一のものはなかったんだろうな、とかそんなことを想像しながら見ていると面白い。普通に晴れの日に過ごしていたら想像できないようなことや、気が付かなったようなアイデアが降ってくることもあるかもしれない。

 

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定時退社して自分だけの時間を過ごすために

最近はよく電車で本を読んでいる

最近は通勤電車でよくビジネス本や自己啓発本を読んでいる。明確に理由があって読んでいるわけではないのだが、通勤中割と手持ち無沙汰になることが多いので3カ月ぐらい前から毎日通勤電車で本を読んでいる。ちなみに本はほとんど書店で新品のものを購入し、読み終わったものはヤフオクブックオフで売り、家に本が溜まりすぎないようにしている。
通勤に時間がかからない場合は帰ってから家で読めば良いという考えもあるだろう。でも、家に帰ると他の誘惑が多くなかなか本を読む気にならない。先月は2週間ほど地方出張に行っていて毎日徒歩15分圏内の職場に通勤していたが、定時で帰ってホテルに着いてもテレビを見始めてしまうと、本を読む気にはならなかった。
反対に毎日1時間ぐらい電車で通勤しているときはとにかく本を読むようにしているし、それが苦しいとも思わない。少し前まで残業が多かった時は電車の中で何か生産的な時間を過ごすということを考えすらしなかった。

定時に帰ると色々な余力ができる

時間や体力に余裕ができると精神的にも余裕が出てきて、いろいろなことにトライしてみようと思えるようになる。今はほぼ毎日定時退社しているが、定時退社をし始めて気付いたことがいくつかある。まず、定時退社している人は意外と多い。自分が残業していた時は周りの人たちもほとんど残業しているとばかり思い込んでいた。しかし、電車の帰宅ラッシュは大体18時ぐらいがピークというデータもあり、定時退社は少数派ではない。定時退社する同志は会社を越えて世の中に多数存在するというのは心強い。
そして、定時退社すると電車の中で本を読む人が圧倒的に多いということにも気が付いた。やはり18時ぐらいの電車では、紙の書籍にせよkindleにせよ、結構な数の人が本を読んでいる。ちょっと残業して夜遅くなると本を読む人の数はグッと減り、代わりに酔っ払ったやかましいジジイの集団に遭遇することが多くなる。

スキマ時間にできることを真剣に考えてみよう

私がたまたま通勤電車で本を読むという時間の使い方を覚えたように、やりたいと思ったことを空き時間を有効活用して少しでもできれば人生はより豊かなものになる。それが、今の私の場合はたまたま本を読むことだが、ゲームでも株でもFXでも勉強でも、自分が楽しいと思うことならなんでもいい。そんな当たり前のことを忘れかけていた。現状で時間を作れないと決めつけてしまうと典型的な思考停止状態に陥ってしまう。もう一度自分の生活を見直し、やらなくて良いこと、しなくてもいい残業をバッサリ切り捨てることで自分の時間は捻出できる。
人生で唯一万人に平等に与えられているのが時間である。これは私の考えだが、人生で最も大切なのは金でも人脈でも信用でもなく、時間だと思う。「お金で若さはかえないわー」というリトルミイの名言が頭にちらつくのだ。
今を真剣に生きるために、自分が本当にやりたいことや楽しいことに多くの時間を使えるようにしよう。

 

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今週のお題「家で飲む」

家で酒を飲む。これは何も特別なことではない。私にとってはごくごく普通のことである。でも周りの人間に聞いて回るとどうも家で飲むのは少数派であるかのように見える。私が、酒はほとんど家でしか飲まないというと、なんでお店に行って飲まないの?とか聞いてくる人が本当に私の周りには多い。でも私に言わせれば、家ではなく外で酒を飲むというのはある種時間とお金を無駄にしているように思えてならない。

居酒屋よりも家飲みの方が好きなわけ

家で飲むのであれば、ボトルの大きさのものを一つ買ってきてそれを炭酸水で割ったりし、簡単なつまみや料理を作ればそれだけで”自宅居酒屋”の完成である。そこでテレビやラジオを付けたり、はたまたGoogleプレーヤーに音楽をかけてもらったりすれば楽しく飲む雰囲気なんていくらでも作れる。無論、一人で飲むのが嫌なら友達を誘えばいいし、家族と一緒に飲んでもいいだろう。かかるお金だって自分で作っているものもあるからそんなに高くない。

でも居酒屋だと大体1品400円前後するし、高いところなんて600円以上する。そんな中で自分の満足するまで飲み食いしていたらすぐに5000円や6000円はくだらなくなる。そして居酒屋まで移動する時間とか、周囲のざわめきとか、そういう雰囲気が好きな人は別に良いだろう。好きなだけ外で飲んで騒げばいい。でも酒を飲むのが好きな人が全てそういう人間だとは到底思えない。私のようにある程度味わって飲みたい人や酒は好きだけど騒ぐのは嫌いな人とかもいる。そんな人たちにとって本当に居酒屋で酒を飲むということが必要なのだろうか。

家飲みならではの楽しみ

家飲みならば、とにかく色々な酒を買ってきていろいろな飲み方ができるのが最大のメリットだと思っている。飲み方といっても単に酒をどう割るかとかだけではなく、それに合う料理やつまみはどうするのかとか、酒と何かを混ぜてみたら美味しいのかとか、いろいろなことを試しながら自分の好きなように飲むことができる。

また、酒が入るとしばしば眠くなる。居酒屋であればその場で倒れて眠ろうものなら通報ものだが、家ならば何をしても許される。寝てしまっても戻してしまっても全ては自由かつ自分の責任である。とても気楽だ。

外では飲むけど家では酒を飲まないという方は結構いるように思える。少なくとも私の周りを見る限りは。そんな方はすごく勿体ないことをしていると思う。時間、お金、楽しみというあらゆる点で損しているように思う。だからと言って、外飲みを否定する気はサラサラない。私だってそれなりに外飲みもする。でも家飲みの気楽さと楽しさを知ってしまったらそこまで外飲みに拘る必要もないと思う。

今度気が向いたら、家で自分の好きなようにしっぽり酒を飲んでみよう。

 

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迷いを振り払い、転職という決断をした

迷いと決断。私の今までの短い人生の中で迷いと決断を思い出した時、まず真っ先に浮かんだのは昨年行った退職&転職活動である。そもそも、退職するまでにかなりの時間を迷いに費やし、時間を無駄にしてしまった感は拭えないと今でも感じる。まあ、今でこそそこそこホワイトな会社に転職できて本当に良かったと思っている。

新卒の就職活動に失敗

はっきり言おう。私は新卒のときの就活に失敗した。当時はそれを認めたくなくて周囲の反対も押し切って中小SIerに入社した。正直、もうこれ以上就活を続けたくないというのが本音だった。新卒の就活に失敗したらもう人生おしまいだと本気でその当時は思っていた。だから、さっさと内定出た会社に入社してしまう方が良いと考えていた。

でも、入社後に味わったのは中小SIerという働き方に対するギャップだけ。立場の弱い下請け仕事ばかり押し付けられ、システムエンジニアとして働く誇りや自社への愛社精神などどこ吹く風状態だった。毎日嫌な仕事をこなすだけの日々。今考えるとぞっとするほど。いずれもうちょっといい会社に転職してやり直さなければとは思っていた。でも、周囲は石の上にも三年とか、とにかく嫌でも頑張っていればそのうち楽しくなる、とか言っていてそれを信じて3年間嫌々ながら前の会社で働いた。

一方的な契約切りをきっかけに転職に踏み切った

内心で嫌々やっていることというのは大体周囲の人にばれてしまうものである。何事にも受け身になってしまうのだから当然と言えば当然なのかもしれない。やる気のない態度や勤務態度などを理由に、私は常駐先の会社から突然契約打ち切りを告げられ、この瞬間に会社を辞めて転職することを決断した。この時は迷わなかった。むしろ、それまでなんで辞めるという決断をしなかったのかが今となってはよくわからない。ブラック企業が仕掛ける巧妙な罠にハマってしまっていたのだと思う。

人間はきっかけがないと現状維持から抜け出せない

前職も別に3年間続ける必要などなかったと今になって思う。その3年間の中でも辞めようとか転職しようとか考えたことはあったけど、具体的にいつまでに何をするとか、どういった行動を起こすとかを本気で考えてはいなかった。やっていたことといえば、転職サイトに登録していたことぐらい。それで満足して毎日を適当にやり過ごす日々を送っていた。もしも、契約打ち切りというイベントがなければ私は今でも前の会社でダラダラと働き続けていたかもしれない。そう考えるとゾッとする。転職しやすい機会を逃してブラック企業に生涯を潰されていたかもしれない。

何かきっかけがあればそれを機に本気で動くことはできるが、それがない場合に現状を変えるというのは本当に難しいと思う。悩んで決断できないまま結局現状維持にとどまるケースが如何に多いことか。それは、会社や仕事の愚痴をこぼしながらも日々残業しながら歯を食いしばって働くサラリーマンたちの姿を見れば一目瞭然だ。

現状維持は楽だ。だけどそれが嫌なのに変えるための行動をしなければ本当に何も変わらない。だから、今の現状に対して何か悩んでいることとか本当はやりたいことがあるのに、できない理由を列挙してやらないでいる自分がいるかどうか、もう一度自分に問うてみると良いだろう。

現状が嫌ならばもうそんなものはやめてしまえばいい。やめた後のことはどうにでもなる。そんなことはやめた後に考えれば良い。やめるという行為を行うことが一番大切なのである。決断は思い切りよく生きて行こう。

弟が特別支援学級の講師を断られた話

 私の弟はもう5年近くニートである。そんな弟に良いアルバイトの話が舞い込んできた。私が小学6年生の頃の担任で今でも付き合いがある先生と飲みに行った時のこと。弟が未だにニートであることを先生に話すと、特別支援学級の講師として少しずつ働き始めてはどうかと提案してくれた。(特別支援学級とは、精神的にちょっと障害がある生徒たちが放課後に集まって宿題とかをやりながら講師と交流するような場である。)私は弟にその話を伝え、意外にも弟はすんなりとやる気を見せてくれたので、実際に特別支援学級の人と弟の面談をセッティングしてもらった。その前にも実際の職場を先生に案内してもらったり、どんな仕事をやるのかを弟と私と先生の3人で事前に共有したりもした。面談をしてそれで断られることはないと聞いていたので、後は弟のやる気と気持ちの問題だけだと思っていた。
 ところが、いざ終わってみれば不採用という結果が突き付けられた。不採用の理由は表向きには人が足りているということであったが、実際は弟が引きこもりニートであり人間的に信用できないやつを講師として迎えることはできないというのが本当のところだろう。兄として私はもちろん残念だったのだが、それ以上に教育関連の人間の視野や価値観の狭さを感じたのが残念だった。
 聞けば、特別支援学級の講師をしている人たちは元教師で今は引退した人や、これから教員を目指す大学生など、何らかの形で学校教育に関わっている人間ばかりだという。そのような場に、弟のようなちょっと心配な人が講師として入るのをためらう気持ちも分からないでもない。長く引きこもりだった人間がいきなり何の資格もなく生徒たちを見守る役になれるかというと、やはり不安は少なくないだろう。

 それでも、私は弟を講師として採用してほしかった。それは自分のメンツがないとか弟が可哀そうだからというそんな薄っぺらい理由からではない。教育関係者とは異なる価値観を持つ弟のような人物が組織の中に新しい価値観を植え付け、その影響が生徒たちにポジティブに働いてくれることを期待していたからだ。特別支援学級に教育関係者しかいなければ、生徒たちは学校教育という狭い価値観の中で生きることになり、画一的な価値観しか共有できなくなる。それは生徒たちだけではなく講師たちもそう。同じような価値観を持った人間同士で組織を固めればそこから新しい考えやアイデアなど浮かぶはずもない。今まで行われてきたことを何も考えずに踏襲していくだけになる。そうやって同じような人間だけで馴れ合っている方が楽ではあるが、現状維持が主な目的になってしまい、何も進歩は起こらないし、むしろどんどん組織が退化していくだけだと思う。教育関係者には申し訳ないが、学校教育の考え方はやはり今の時代に即した考え方からはるかに遅れていると言わざるを得ない。ホリエモンが学校教育なんて要らないという理由が良く分かった気がする。本当にその通りだと思う。
 ただ、教育関係者の全員が全員悪いとは思っていない。今回仕事を紹介してくれた先生は私の弟の可能性を信じて仕事を紹介してくれたし、その点で様々な価値観を認めようとする姿勢を感じられた。でも、もっと多くの教育関係者が古い考えを捨て、教師も含めていろいろな個性の人を認めようとしない限り、学校教育は衰退の一途をたどると思う。個性を活かすというのであれば、それは生徒だけではなく、教育に関わろうとする全ての人間に対してそうでなければならない。今回の一件で弟が落とされてしまったことはもう仕方ないと思う。でも、もう少し広く多くの人にチャンスという扉が開かれた世の中になっても良いと思う。多様な価値観で個性を伸ばすと言うのであれば、それをしっかり行動でも示す必要がある。それができないのであれば、二度と個性を伸ばすとかのたまわないでほしい。

 

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今更ながらヤフオクでモノを売ってみた感想

不用品の販売といえばヤフオクかメルカリである。両者ともオークションサイトではあるが、販売といっても差し支えないだろう。ちょっと前はメルカリで現金が販売されていたことが物議を醸した。

自分にはオークションサイトなど無縁と思っていたのもついこの間まで。サラリーマン生活を嫌がりいろいろな副業に手を出し始める矢先、一番とっつきやすかったのが不用品の販売である。

やる前に何かを考えてウジウジしていても何も始まらない。それは最近読んでいる自己啓発本でも散々言われている。だからとりあえず見切り発車でヤフオクでモノを売ってみることにした。基本的には自分のいらないものを売るのだから、家の中がきれいになって少々の小遣いも手に入り、一石二鳥だと思っている。不用品販売はネットビジネスの入り口といっても過言ではないのかもしれない。

出品方法

ちょっと前まではヤフオクプレミアム会員にならないと出品ができなかったらしいが、今はプレミアム会員にならなくても出品ができる。ただし、どこかのサイトで読んだがプレミアム会員のように複数出品や自動出品などができないということらしい。まあ私は今プレミアム会員ではないが普通に出品できているし、それで特に売り上げが上がらないということもないのでプレミアム会員になることは考えていない。月額400円ちょっとを毎月の売り上げで回収して利益になるのであれば会員になる価値があるだろう。

初めてネットで商売をするというだけあって少々身構えていたが、やることはいたってシンプルだった。商品の写真を撮って簡単な紹介文を添え、値段を設定して配送方法とカテゴリを指定して出品ボタンを押すぐらいである。そのあとは入札してくれる人が現れるのを待つのみだ。

入札から発送

入札されるとスマホアプリに通知が来る。「あなたの出品した○○が入札されました」という具合だ。だからすぐに入札されたのが分かる。

その後は相手の支払いが完了するまでこちらからは商品は発送せず、支払い完了したら発送すればOKである。なお、支払い完了から発送まで少々時間が空いてしまう場合は、落札者に対して発送予定日時などをメッセージで添えるのが良いと思う。相手の立場からしたら安心できるだろう。発送は郵便局やコンビニで商品のQRコードをスキャンして出てきたレシートをレジに持っていけば簡単に終わる。

身構えていたのがバカバカしくなるぐらい簡単である。

稼ぎの手段としてはお手軽でおすすめ

ヤフオクでの販売はかなりお手軽なので、不用品が多くて捨てられないという方はぜひ何も考えずにやってみるべきだ。はたから見ればガラクタにしか見えないものが、とんでもない高値で入札されまくっているケースもたまに見る。一攫千金まではいかないが、価値の分かる人には評価される可能性がある。

出品、梱包、発送と少々手間がかかることはあるが、自分の力で商売をしているという感覚を養うことができる。私はこの感覚は本当に大切だと思う。受け取った相手がどうすれば少しでも気持ちよく思えるか、そんなことを考えるのも自分が商売をしているという当事者意識を持てるからこそ。雇われの身ではなかなかこの感覚は味わえない。

 

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