rk-baryoのゆるっと日記

日常生活、ビジネス、旅などについてゆるく語るブログ

今更ながらヤフオクでモノを売ってみた感想

不用品の販売といえばヤフオクかメルカリである。両者ともオークションサイトではあるが、販売といっても差し支えないだろう。ちょっと前はメルカリで現金が販売されていたことが物議を醸した。

自分にはオークションサイトなど無縁と思っていたのもついこの間まで。サラリーマン生活を嫌がりいろいろな副業に手を出し始める矢先、一番とっつきやすかったのが不用品の販売である。

やる前に何かを考えてウジウジしていても何も始まらない。それは最近読んでいる自己啓発本でも散々言われている。だからとりあえず見切り発車でヤフオクでモノを売ってみることにした。基本的には自分のいらないものを売るのだから、家の中がきれいになって少々の小遣いも手に入り、一石二鳥だと思っている。不用品販売はネットビジネスの入り口といっても過言ではないのかもしれない。

出品方法

ちょっと前まではヤフオクプレミアム会員にならないと出品ができなかったらしいが、今はプレミアム会員にならなくても出品ができる。ただし、どこかのサイトで読んだがプレミアム会員のように複数出品や自動出品などができないということらしい。まあ私は今プレミアム会員ではないが普通に出品できているし、それで特に売り上げが上がらないということもないのでプレミアム会員になることは考えていない。月額400円ちょっとを毎月の売り上げで回収して利益になるのであれば会員になる価値があるだろう。

初めてネットで商売をするというだけあって少々身構えていたが、やることはいたってシンプルだった。商品の写真を撮って簡単な紹介文を添え、値段を設定して配送方法とカテゴリを指定して出品ボタンを押すぐらいである。そのあとは入札してくれる人が現れるのを待つのみだ。

入札から発送

入札されるとスマホアプリに通知が来る。「あなたの出品した○○が入札されました」という具合だ。だからすぐに入札されたのが分かる。

その後は相手の支払いが完了するまでこちらからは商品は発送せず、支払い完了したら発送すればOKである。なお、支払い完了から発送まで少々時間が空いてしまう場合は、落札者に対して発送予定日時などをメッセージで添えるのが良いと思う。相手の立場からしたら安心できるだろう。発送は郵便局やコンビニで商品のQRコードをスキャンして出てきたレシートをレジに持っていけば簡単に終わる。

身構えていたのがバカバカしくなるぐらい簡単である。

稼ぎの手段としてはお手軽でおすすめ

ヤフオクでの販売はかなりお手軽なので、不用品が多くて捨てられないという方はぜひ何も考えずにやってみるべきだ。はたから見ればガラクタにしか見えないものが、とんでもない高値で入札されまくっているケースもたまに見る。一攫千金まではいかないが、価値の分かる人には評価される可能性がある。

出品、梱包、発送と少々手間がかかることはあるが、自分の力で商売をしているという感覚を養うことができる。私はこの感覚は本当に大切だと思う。受け取った相手がどうすれば少しでも気持ちよく思えるか、そんなことを考えるのも自分が商売をしているという当事者意識を持てるからこそ。雇われの身ではなかなかこの感覚は味わえない。

 

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健康であるために

人は皆健康でいたいものである。普段健康な人は健康であることについて特に感謝したりすることもなく、当たり前のこととして生活しているかもしれない。しかし、健康な人でもひとたび怪我や病気をして今まで通り何不自由なく生活ができなくなると、普通に健康だった時を思い出して初めて健康に感謝するのである。私は過去に何回か大けがをしてきたのでその感覚が良く分かる。
年を取るにつれ、どうしても体がもろくなってきて健康でいられなくなることも増えてくる。それでも、ある程度健康でいて楽しい日々を送るためにはどうしたら良いのかを考えてみる。

睡眠

私のブログでは何回も登場した睡眠という永遠の課題が健康と大きく関係すると思う。寝ている人は幸福であるし、余裕がある。私は最低でも毎日6.5時間寝ることを意識しているが、これが1時間減ると翌日の倦怠感はすさまじいし、午前中の仕事の集中力がガタ落ちする。考えようと思っても頭が回らない。人の話が右から左へ抜けていく。頑張って集中しようとしてもぼーっとしてしまうのである。私はまだそんなに年を取っていないので慢性的な睡眠不足の影響が日常生活に響くまでの水準には達していない。しかし、年を取るにつれ、今までの睡眠不足のツケが回ってきてあらぬところで生活に悪影響を及ぼすかもしれない。だから、健康を目指すのであれば何よりも先にまず睡眠である。これは間違いない。

食事

睡眠の次に重要なのが食事である。食事はある程度の栄養があるものをバランスよく食べた方が良いのは間違いないが、嫌いなものばかり食べていてもストレスがたまるだけである。だから、あまり健康的でなくても自分が好きなものや食べたいものを我慢せず食べるのがちょうど良い。我慢しないことで余計なストレスもたまらないので少なくとも精神的には健康でいられると思う。

運動

ランニングはとても健康的である。しかしそれはもともとある程度痩せている人が行えるものであり、太っている人がランニングに精を出すと体重が負荷となり膝をはじめとすると体のあちこちを痛めてしまう可能性が高くなる。太っている人にはまずは自転車(バイク)運動をオススメしたい。これなら膝に負担が掛かることもないし、有酸素運動になって脂肪を燃焼できる。あとは筋トレである。どこを鍛えれば良いかわからないのであればとりあえずスクワットをしておけば間違いない。スクワットで使われる筋肉は人体の中で最も大きいため、消費カロリーも一番多い。だからここを鍛えればエネルギーがたくさん消費され、どんどん脂肪燃焼されて代謝が良くなる。手っ取り早く脱肥満を目指すのであれば、バイクとスクワットを組み合わせて食事を少し制限すれば、割と簡単に痩せて健康体を手に入れられるのではないかと思う。

心の健康

メンタルの健康もとても大切なことである。体が健康であってもメンタルが健康でなければその悪影響が身体の方にも反映されてしまう。心の健康を保つ最大の秘訣は、ストレスを無くすことに尽きる。言いたいことや自分の本音は我慢せずに相手にぶつけるべきだし、自分が正しいと思ったことは堂々と主張することだ。やりたいならやれば良いし、やりたくないことは無理してやらなくていい。その結果人にどう思われようがそんなのは我々の知ったことではないのだ。自分の心に素直に従って行動することこそ、ストレスを回避して心の健康を保つために最も必要なことだと思う。

 

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平成を個人的な視点で振り返る

今週のお題「平成を振り返る」です。

私は平成生まれです。平成に生まれて平成の世の中しか体感したことがないのです。だから、来月から令和という新しい時代を迎えるというのはなんだか不思議な感じがします。でも、平成であろうが令和になろうが、その瞬間に自分の目の前の世界が劇的に何か変わるわけではないし、時代がどうであれ僕らのやるべきことは変わらないのでしょう。そんなことを考えながら、私の今までの人生と共にあった平成という時代の思い出を振り返ってみたいと思います。

家族観

生まれたときの記憶はないが、小さい頃の記憶は少しある。あの頃私の家のテレビはブラウン管だった。そのテレビがある小さな家に親戚が所狭しと集まり、自分を見てみんなが笑顔になる光景を思い出す。なぜか自分といると皆が幸せそうな顔をしている。
それから30年近くたち、今の時代の同じような家庭でどのくらい似たような光景に遭遇できるだろうか。技術の進歩によって皆が同じ場所に集まる必要がなくなった。人が集まって何かをしたければ今はSkypeなどで顔を見ながら話もできるし、違う場所に居ながら同じ瞬間を共有することだってできる。技術は着実に進歩しているし、今の僕らの周りの生活や常識だって刻々と変わり続けている。すごい時代だ。

仕事観

モーレツ社員や企業戦士が活躍した昭和の時代。それが原因で過労で亡くなる人も多く発生したことから、これらの代わりに社畜というパワーワードが生まれたのが平成であった。前者がポジティブに捉えられがちなのに対し、社畜は完全に働きすぎを揶揄する言葉として平成の時代に定着した。世のサラリーマンが最も忌み嫌うべき言葉となりつつある。
また、ネットの普及でyoutuberやブロガーなど会社に属さなくても生計を立てていける人が急増した。そのような中で会社という組織の存在意義は確実に薄くなっている。人生における仕事の選択肢が急激に増加した時代だった。そしてそれは今も続いている。

人生観全体

仕事の選択肢が急増したため、人生の選択肢も多様となった。いい会社に就職して結婚してマイホームを持って子供を2人か3人育てる、という今まで理想とされていた人生マップはもう過去のものでしかない。本当の意味で自分にとっての幸せとは何かを追求できる時代になったともいえる。環境の変化を受容して多様な価値観に理解を示す人もとても多くなったと思う。

ゆとり世代から次の世代に伝えたいこと

今は平成が始まった30年前よりも遥かに自由な時代となった。それは生き方の選択肢が非常に多様になったということだ。だが、同時にその中から何を選択すれば良いのかを自分で考えて決めなければならなくなった分、難しくなってしまった側面もある。そういう意味では生きづらい時代なのかもしれない。

人は誰しも自分にとっての幸せを追求するために生きている。それは親も学校も教えてはくれない。自分で見つけ出していくしかない。だから、自分が本当に心の底からやりたいと思うこと、楽しいと思うことをやって欲しい。自分が正しいと思ったことは他の誰が何と言おうと貫き通してほしい。平成のゆとり世代の一人として、次の世代も大いに応援したい。

 

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褒められることの副作用を知る ~『「承認欲求」の呪縛』を読んで~

人間であれば誰でも承認欲求を持っていると思う。人間は社会性を持った生き物であるため、組織の中で生きていく上で承認欲求を持つようになったのだろう。

承認という言葉はなかなか良い響きだ。少なくとも悪い感じはしない。私も否認されるよりは承認される方が当然気持ちがいい。当然だろう。承認すること、とりわけ相手の良いところを褒めてやることというのは一見するとメリットがかなり大きいと思える。私自身も褒められた方がやる気が出るし、今のご時世デスクにモノをを叩きつけて部下を叱りつける上司など時代遅れも甚だしい。だから褒めることにはメリットばかりあると思っていた。

褒められなければならないという呪縛

しかし、この本を読み考え方が変わった。もちろん褒めることを否定するつもりはない。ただ、そのやり方は注意しなければならない。相手を褒めることで必要以上に期待をかけてしまい、そのプレッシャーに押しつぶされるケースがとても多いというのである。私はあまりいろいろな人に褒められたことが少ないからあまり実感は湧かなかったが、褒めらることを目的にして無理をしてしまう「呪縛」には心当たりがあった。

例えば会社での生活。日本人はまだまだ残業好きである。働き方改革で残業時間を減らす流れがあるが定時後にすぐに帰る人はいまだに少ないと感じる。そんな状況だからやっぱり会社の評価も残業している人を高く評価しがちになる。つまり、残業をすることが会社からの承認につながる。すると、承認されるためには自分の業務が残っていなくて帰れる状態なのにも関わらず、他の人を手伝ったりして残業するという事態が発生する。これでは残業が減るわけがない。

他の選択肢があるということを知っている強み

人生において会社というコミュニティの重要度が高いためこのようになる。逆に言えば自分にとってさして重要度が高くない組織に属していればこの考えはなくなる。だったら会社というコミュニティの重要度を下げれば良いのである。それを達成するには副業をやるのが一番手っ取り早いと思う。

最近私は基本的に残業をやらない働き方のスタイルにシフトし始めている。最低限自分のやるべきことを定時までに片づけ、時間になったらさっさと帰る。以前はそれができなかった。なぜなら、会社にしがみつかないと将来お先真っ暗だと思っていたから。だからやりたくもない残業をし、無意識のうちに周りに良い印象を与えようとしていた。だが今は違う。いろいろな人のブログを読み漁り、ビジネス本や自己啓発本の数々を読むなかで、会社で働くという生き方は人生の一つの選択肢にすぎないということに気が付いたから。それは私の生活の中で会社というコミュニティの重要度が下がったことを意味する。

こうなると、別に会社に媚を売る必要もなくなるので、周囲からの視線なんか気にせず堂々と振る舞うことができるようになる。実際に気持ちも前よりかなり楽になったような気がする。

呪縛から逃れるために他の居場所をつくろう

これは会社に限った話ではない。学校のいじめで自殺が絶えないのも、すべては狭いコミュニティでそれが日々の生活において最重要になっていることが原因である。要するに”重い”のである。オモエモン並みに重い。そしてそのコミュニティに自分の居場所がなくなったとき、人は逃げ場を失って自殺という道を選んでしまう。大失恋とよく似ている。

だから、いつでも退避できる他の居場所を作っておくというのはリスクヘッジになるし、心の拠り所にもなる。一つのものに拘ることも良いことではあるけれど、それが否定されてしまったときに受けるダメージは計り知れない。だから僕たちは上手に社会の中に複数の居場所を求め、それに依存しすぎることもなく生きていくことが必要だと感じた。

 

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今週のお題「新生活おすすめグッズ」

4月から新年度となりましたが、特に引越すわけでもなく淡々と毎日が過ぎていく。そんな何気ない平穏な日々にささやかな幸せを感じる今日この頃であります。

前置きはともかく今週のお題からです。

新生活おすすめグッズとあるが、新生活だろうが従来までの生活であろうが日々生活していくというのは基本的には変わらないことだ。だから、生活が新旧どちらであろうが結局生活に役立つものがおすすめグッズとなるのだと思っている。よって、普段の生活で私が何気なく使っていて便利だなと思うものを上げていきたい。

ダイソンの掃除機

ダイソンの掃除機はコードレスです。吸い口の部分をいろいろな種類に変えることができ、家の中を隅々まで掃除することができます。また、充電式のコードレスなので、持ち運びも簡単です。一人暮らしや二人暮らしぐらいの家であれば本当に重宝するのではないだろうか。まあまあ値段が高いですが、本当に便利です。

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レンジdeパスタ

これは最近知り合いに教えてもらって覚えた、レンジでパスタを簡単に作る方法である。作り方は簡単なので、クックパッドとかで見てもらうと分かりやすいと思うが、簡単に手順を紹介すると、

・容器に水をいれる

・そこにパスタを入れる

・レンジで温める

・味付けて盛り付けておしまい

となる。所要時間は普通にお湯で茹でて作る場合より2、3分短縮できる。出来栄えとしては、味は茹でたものと遜色ないし、食べる上においては何も支障がないと感じるので、単純に時短したいのであればおすすめの方法である。電気代がどうかということや、電子レンジへの負担などの諸条件を天秤にかけてレンジdeパスタを行うか行わないかの選択をとることになるだろう。

ただ、一人や二人よりも多い人数のパスタを作る場合はこのやり方はオススメしない。茹でた方がむらなく確実に早く作ることができるからだ。このやり方は少人数、特に一人暮らしの人が時短をしたいときに強い効力を発揮すると思う。

ちなみにレンジでパスタでググったらレンジ用パスタ入れの容器なんかも売っているらしい。

www.google.com

小型のキャリーバッグ

ちょっとした泊りがけのお出かけに便利なのが機内持ち込みサイズの小型キャリーバッグである。ハードケースとソフトケースがあるが、私は断然ソフトケース派である。理由は単純で荷物の出し入れに伴う開け閉めが容易であるからだ。しかし、空港で様々な人のハードキャリーケースを物色していると、最近のハードケースはファスナー式のものが多く、こまめな荷物の出し入れも容易にできる作りになりつつあることを発見した。

ハードとソフトどちらを選ぶから好みの問題ではあるが、緊急時に荷物の出し入れをしやすいものを選ぶと良いだろう。ちなみに、ハードもソフトもどちらも完全防水であるものは少ない。ハードの方が防水っぽいイメージはあるが、防水機能がなければ雨の中歩いていたら普通に中の荷物は濡れます。だから防水面を気にするのであれば単純にハードとソフトという観点のみで比較するのはおすすめしない。

 

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資格を取ることにあまり意味がないと思う理由

ちょっと前に勉強を始めると宣言しました。

rk-baryo.hatenablog.com

社会人としてこのままじゃマズイ、何か勉強を始めなければ!、と思いながらこの1カ月間いろいろなことを考えたような気がする。

大抵の場合、勉強というと資格勉強をイメージする人が多いかもしれない。私も例外ではなく、まずは専門のIT分野における資格を漁っていた。その中でもやはりメジャーなのが基本情報技術者試験であった。IT系の会社であれば、学生の時に既に基本情報を取得した、なんて話はザラに聞くもの。大体出身は理系の情報系が半数弱ぐらいを占めているから当然と言えば当然だろう。

でも私は文系出身で会社に入って初めての研修でITの専門に触れた身分であり、情報系やIT系の資格とは無縁であった。もうサラリーマンとなって数年経つが、仕事において望むような成果が残せていないのは、多くの情報系学部出身者が保有している基本情報試験の資格を持っておらず、その知識が不足しているせいではないかと考えていた。1カ月ちょい前ぐらいまでは割と真面目にそう考えていた。でもそれはたぶん違うと今になって思う。

資格勉強で挫折

私は自分の考えた仮説に沿って、とりあえず基本情報試験の知識を付けて合格しようと勉強を始めた。この資格を取れば今までと見える景色が変わるのかもしれない、そんな淡い期待を持って勉強を始めた。

しかし、勉強開始30分で挫折した。挫折の理由は単純だ。その勉強はあまりにもつまらなすぎたのだ。コンピューターの作りとか、二進数や八進数と十進数の違いだとか、マネジメントスキルとか、そんなテキストばった知識ばかりが羅列されていて、とてもつまらなかった。そんな細かいことはどうでもいい。私が身に着けたいのは実務で役立つプログラミングの技術なんだ!ってことに気が付いた。基本情報テキストはもう使わない、ブックオフで売ってしまおうと思う。

資格はただの装飾物でしかない

基本情報のテキストには私が本当に身に着けたい知識なんてほとんど記載されていなかった。学校で教わる「つまらない教科書学習」と何ら変わりがない。それでもなお、資格の試験は人気を博している。なぜか?それは転職活動の面接や会社内での評価にプラスに働くからという理由に終着する。

面接をする人間と相対する時間は長くてもせいぜい1時間ぐらいだろう。でも1時間で面接者の人間性や仕事の能力を全て判断することはできない。そこで役立つのが資格という肩書だ。この資格を持っているのであれば大丈夫だ!と資格を基準にその人を評価する。実際に求めている能力を本人が有しているかどうかはさておき、資格があれば問題ないと判断する。非常に雑な評価だと思う。そんなクソみたいな評価をもらうための勉強に割く時間などないのだ。

もちろん、すべての資格が無意味だと言っているわけではない。簿記検定とかは資格だけど、合格目指して勉強するとダイレクトに実務の力にも反映されるし、そういう資格は評価されるべきだと思う。でも、やっぱりあまり有用でない資格というのは世の中に蔓延っていると思う。

そして、例えば基本情報なんかは私は無駄だと思ってしまうけれど、決して万人がそう思うわけではないことも理解している。ある人にとってはとても有用で大切な知識になり得るかもしれない。大事なのは、「皆が持っている資格だから。。」とかいう主体性を欠いた理由で資格勉強をしてはいけないということだ。あくまで自分基準で考えて本当に必要なものであればやればいいし、周りが持っていても自分には必要ないと思うのであれば勉強する時間が無駄なのでやらない、という選択肢をとるという判断をできなければならないと思う。

 

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セブンイレブンの社長交代劇を生んだオーナーが起こした革命を見習いたい

大阪のセブンイレブンでオーナーが24時間営業を辞めて時短営業することを決断し、実行した。このニュースは少し前からあったものだが、この問題を受けてなんとセブンイレブンの社長が交代することが決まった。

www3.nhk.or.jp

私はこのニュースを見たとき思わず、「これはすごいことが起こった!革命だ!」と一人で叫んでしまうほど衝撃を受けた。一人の労働者の勇気ある主張と行動が、セブンイレブンという巨大な企業の組織を動かしたことは本当にすごいことだと思ったからだ。

普通の人であれば契約違反による罰金やその後の生活に不自由が生じることを懸念し、他の店舗の足並みから外れることは敬遠するものである。でも、このオーナーは自分で考えて判断し、他店と違うことをしっかり実行した。たった一人で大きな組織に立ち向かうその勇気に最大限の称賛を送りたいと思うし、組織に服従せざるを得ない状況にある多くの人間にとって希望となるニュースだったと思う。

最近よく思うし当ブログにも少し書いたと思うが、”自分を主張する”ということが如何に大切か、そして当然のことながら主張しないと相手には何も伝わらない、ということを思い知らされる。

 

多くの人は色々な組織やコミュニティに属しながら毎日生活しているはずだ。サラリーマンなら会社、学生なら学校、パートやアルバイトも勤め先があるし、ニートや無職ですら家庭や地域という何らかのコミュニティー的なものに属している。

組織というのは優れたものである。一人がカバーできないところをみんなの力でカバーする、みんなで一緒に力を合わせて何か一つの目標に向かっていく、などは決して一人ではできないことが組織ならできる。だが、そんな生活を続けるうちに自分自身が組織に埋もれてしまっていないだろうか、ということをよく考えてみたい。

みんながこう言うから自分としてなんとなく違和感があるけどみんなの意見に合わせた、人と違うことはなんだか言い辛い、とか。気持ちは分からなくもないけれど、最終的に行動を決定するのは自分一人でなければならないと私は思う。組織に埋もれるうちに、自分の行動は自分で決めるというそんな当たり前のことができなくなってしまった人が本当に多いと感じている。もちろん私もこれまでそうだった。仕事においてホウレンソウ(報告連絡相談)をしっかりしろ(つまりお前に決定権はないと言われているも同然)、と新人研修で習うぐらいだから当然なのかもしれない。

私は組織に従うという姿勢から徐々に脱却したい。自分が最終的に一番ハッピーになるための行動って何なのかをしっかり考えて行動したい。もしそれが組織全体の方針や考えと異なるようであれば、たとえ自分一人でも全力で反対の意を表明し、自分の意見を主張できる人間になりたい。そして組織の中で苦しむ人が一人でも多くその志を持ち行動することができれば、世の中はきっと面白い方向に変わっていく。

今回のニュースから私はそんなことを感じた。

 

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組織の同調圧力に屈しないために考えたいこと

私は仕事が好きではありません。いや、正確に言うと仕事が嫌いなのではなく、会社という組織の中で仕事をするのがどうも好きになれません。今やっているシステムエンジニアという仕事自体をそこまで嫌いなわけではないのです。仕様を考えたりプログラミングを作ったりするのは大変なこともあるけれど、むしろ好きな方です。でも、それらが会社という組織の中でのチームプレーの一つとして割り振られることは大変なストレスです。思い返すと、小学生の頃からチームスポーツは本当に苦手でした。だから小学生までやっていたサッカーを辞め、中学から陸上競技に転向したのです。

大縄跳び競争の記事が興味深かった

以下の記事は、ネットサーフィンをしていてたまたま見つけた記事です。

www.itmedia.co.jp

小学生の頃、多くの人が経験したであろうクラス対抗の大縄跳び。でも、あれをやっていて疑問に思った人も多いはずです。「こんなことやりたくないのになぜやらなければならないのか」と。また、私が中学生の頃にクラス対抗合唱選手権という行事があり、クラス一丸となって合唱を練習し、コンクール当日の優秀賞を目指すという今考えるとクソみたいな行事に教師を含めみんなが血眼になっていました。当然やりたくない人はたくさんいて、そいつらも巻き込んで全員の心を一つにしてこそ美徳という考えを皆が持っており、だれも疑ってはいなかったのです。そしてこれらは結局、彼らが社会人になった時に社畜となる下地を作っているということです。

苦労=努力ではない

多くの人が勘違いしていますが、苦労=努力ではありません。結論から言うと、「如何に苦労せずに成果を出すかを考えて行動すること=努力」だと私は思っています。

同調圧力が顕著になると、「みんな残業してるんだからお前も残業しろ」とかの「みんながやっているんだからお前も・・」みたいな意味不明な思想が蔓延(はびこ)ってきます。そういう奴らの価値観の根底には、皆と同様という同調圧力に加えて苦労すること=努力することという勘違いがあります。企業戦士として働いてきた人はとにかく長時間働き、それを組織皆で行うことを美しいと思う感性があるのかもしれません。丁稚奉公や滅私奉公という言葉がそれを代表しています。

努力というのは素晴らしいことです。どんなに才能あふれるスポーツ選手でも努力なしに五輪で活躍することはできません。でも、社畜根性が行っている努力は苦労をするということが目的となってしまった努力であり、努力の方向が間違っていると言わざるを得ません。

自分を大事にするなら空気なんて読まず主張しよう

日本人が大好きな言葉に「空気を読む」というものがあります。数年前までは当たり前のように思っていましたが、最近はこれを非常にアホらしく思っています。幼少期からの教育が、全ての個性を殺して飼いならし、将来会社員という名の社畜根性を育てるための壮大な罠だったことに最近気が付いてきたからです。

組織の中に組み込まれてしまうとどうしても自分の存在意義が分からなくなってしまいます。そして、周りの目が気になって自分の本心を主張することに抵抗を感じてしまうことも多くあります。私も未だにそういうこと結構ありますし、付き合い残業を完全に逃れるというのも現実問題としてなかなか難しいです。でも、少しずつでも良いのでそのマインドセットを改めていきたいと思っています。会議の場では自分の思っていることはためらわずに提案してみたり、思ったことは積極的に発信し、交渉するという術をもう少し身に着けていくことが必要です。休みたいのなら積極的に上司に交渉するとかです。大事なのは、自分を主張しないと相手は絶対にこちらを理解してくれないということを認識することです。当たり前のことですが、大事なことです。主張しないでいるのは、「言わなくても察しろ」という精神と一緒で愚の骨頂です。言っても無駄だと思って主張しないのは勿体ないのです。まずは自分の意見を怖がらずに主張することからはじめましょう。案外状況が改善するかもしれません。

 

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ピエール瀧の逮捕による過去出演作品の差し替えに違和感

ちょっと前になりますが、ピエール瀧が薬物であるコカインを使用して逮捕されたという事件がありました。薬物の使用というのは決して許されることではなく、逮捕というのはもちろん妥当であると私は思います。

ただ、私の中でどうも腑に落ちないことが一つあります。それは、ピエール瀧容疑者が過去に出演していた作品のシーンを差し替えるという行為が行われていることについてです。賛否両論あると思いますが、私は過去作品のシーンの差し替えは不要だと思います。

取り直しのコストが大きい

過去シーンの差し替えとなると、まず新しい俳優さんを探す必要があります。その人が決定したら俳優さんが同シーンのセリフを覚えて取り直して編集という作業があると思いますので、それなりに時間とコストがかかることは容易に想像がつきます。

そのような行為ははっきり言って無駄です。ITベンダーで例えると、プログラムを作った後に設計書を作り直して最後に納品し直す、というぐらい凄まじく無駄な作業です。日本企業のサラリーマン文化が決まりやフレームワークをきっちり守るように、こういう思想の人たちはとにかく形とかプロセスを絶対視します。冷静に効率性やコスト面などを考えると、違う俳優さんを使っての取り直しというのはかなり無駄だと言わざるを得ません。

作品が役者個人の事情に左右されてはいけない

"観客は役者自身のことを知る必要はない。役者は舞台の上で役を全うすればそれでよい。"

かつての名俳優である渥美清はこのような主旨のことを言っていました。つまり、役者個人がプライベートでどんな事情を持っているにせよ、作品に対してその役を全うしているのであればそれで問題ないということです。

ピエール瀧容疑者が差し替えシーンの当時に既に薬物を使用していた可能性もあるかもしれません。その事実を踏まえたうえで後でシーンを見直すと不快に思うこともあるでしょう。そういう意見に配慮するのであれば、回想シーンでその過去のシーンはカットするというのも一つの手だと思います。取り直して差し替える必要がそこまであるとは思えません。

麻雀放浪記2020」の公開は正しい判断

作品に罪はない、として「麻雀放浪記2020」の公開を予定通り決定したことは称賛すべき判断だと思います。映画は見たいと思った人がお金を出して見に行くものであり、判断は視聴者に委ねられるからです。

 

ダメなものはダメと一律に感情論で決めつけるのではなく、合理性とか効率性という観点でこの問題を考えると、単純に過去シーンを差し替えるのが本当に正しい判断だとは思えないのです。

 

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イチロー選手はなぜ引退することになったのか

昨日、イチロー選手が現役を引退することを発表し、記者会見を行いました。この記事では、なぜイチロー選手が引退を決断したのか、私なりに感じて考えたことを書いてみたいと思います。

youtubeに会見の動画が上がっていたので載せておきます。

youtu.be

そして、この会見を全て文字化した強者がいましたのでこちらも貼っておきます。

oreno-yuigon.hatenablog.com

 

50歳までは引退しないと公言していたイチロー選手。現在は45歳でありますが、突然の引退発表に日本だけではなく世界中の多くの人が驚き、残念に思っていることでしょう。平成も残すところ1カ月余りとなり、また一つ平成という時代の終わりを象徴する出来事が起こった瞬間でした。

私が記者会見インタビューの中で最も印象に残ったのは、記者からの「なぜこのタイミングで引退を決意したのか」という類の質問に対し、イチロー選手がただの一度も明確な返答をしなかったことです。

もちろん、加齢による身体能力の衰えというのは否定することができません。どんな競技であれ、必ず衰えによる負けの混みという状況は発生し得るものです。それはスポーツでなくても同じで、将棋の羽生九段が昨年に竜王位を失冠し、20数年ぶりに無冠となったことに代表されます。

しかし、イチロー選手が引退に至った理由は年齢による衰えだけではなく、もっと大きな要因があると思っています。おそらく、米国における"ベースボール"という競技の変化に順応しきれなかったからなのではないかと思うのです。

"頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつある"

私がこの1時間半弱の引退会見で最も印象に残ったフレーズは、アメリカでの2001年の頃と今では全く違う野球になっている。今は頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつある」です。動画で言うと1時間1分後ぐらいからになります。この後イチロー選手は続けています。「本来野球というのは頭を使わないとできない競技。そうでなくなってきているのがどうも気持ち悪い」。そして、「日本の野球は頭を使う面白い野球であってほしい。それは野球をする上で大切にすべきことだから」と締めくくっています。

イチロー選手は野球に対してこのような彼なりの美学を持っていたのでしょう。でも今のアメリカではその価値観が揺らいできています。イチロー選手のように繊細なバット裁きの技術でヒットを量産するスタイルから、よりパワーを重視した単調なプレースタイルになりつつあると言っています。サッカーに例えると、パスサッカーからクロスに頼るパワープレーばかり主流になっているようなイメージです。

きっと彼はそのような"ベースボール"のスタイルの変化を日々肌で感じ、常に自身の引き際を考えていたのかもしれません。イチロー選手のことですから、自身のプレースタイルや野球の美学を変えてまで活躍を求めなかったのかもしれません。そして、会見での彼の話し方から、そのようなパワーに頼る”ベースボール”はつまらない、だから日本における”野球”というのを大切にしてほしい、と言っているように思えます。

 

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変化を受け入れてそれに対応する、というのはとても難しいことです。これは会見でイチロー選手も言っていました。イチロー選手であれば、米国のベースボールの変化に対応したプレーだってできたはずだと思います。でもそれを敢えてせずに引退という道を選んだのは、彼の野球に対する美学や愛情がそれを許さなかったということなのではないかとふと思ったのです。

そして、変化の激しい今の時代に照らし合わせ、何もかも変化に対応して行動するのが果たして正しいことなのか、という新しい疑問が自分の中にも沸き起こっています。

 

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